表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/39

第5話 忘れられた叔父

 翌朝、河内俊介が写真館を訪れたのは九時過ぎだった。


 約束は明後日だったはずだ。ルカが怪訝な顔をすると、河内は眼鏡の奥の目を泳がせた。


「すみません、早いのは分かっているんですが……昨夜、少しおかしなことがありまして」


 ルカは黙って客間に通し、茶を出した。今朝の茶は少し濃い。昨夜の写祓の疲労が残っていて、ポットに茶葉を入れすぎた。河内はしばらく湯気を見つめてから、声を落として話し始めた。


「帰り道で、人に会ったんです。街灯の下に立っていた……狐の面をつけた男でした」


 ルカの手が止まった。


「狐の面」


「ええ。青緑色の。こちらをじっと見ていて——耳元で『お前は思い出したな』と」


 河内は茶碗を両手で包みながら、言葉を探していた。


「怖くはなかったんです。不思議と。むしろ……なんというか、安堵を感じました。それで、夢じゃないかと思ったんですが、今朝起きたら叔父の顔がはっきり思い出せるんです。名前も。河内佐助——溺れて死んだ叔父の名前が、急に」


 河内の目が赤くなっていた。


「写真、もうできていますか」


 ルカは立ち上がり、封筒を持ってきた。ティンタイプを河内に手渡す。黒塗りの金属板に定着された佐助の姿。家族の輪の中で笑う少年。金属板の表面が、河内の掌の体温に反応するように温まっていくのが見えた。


 河内は長い間、写真を見つめていた。


「叔父です」声がかすれた。「間違いありません」


 ルカは言葉を探して、見つからなかった。河内が涙を拭くのを待ち、茶を注ぎ足した。写祓が終われば依頼者は泣く。いつもそうだった。忘れていた人の顔を見て、忘れていたことに気づいて、泣く。ルカはその涙を待つのが仕事の一部だと思っていた。自分の感情は挟まない。ただ茶を注ぎ、待つ。


 河内が去ったあと、ルカは窓を閉め、椅子に座った。


 河内は泣いていた。忘れていた叔父の顔を見て。忘れていたこと自体に泣いていた。——あれが、忘却の重さだ。忘れていた時間は穏やかだが、思い出した瞬間に、その穏やかさが嘘だったと気づく。


 ルカは客間の花瓶を見つめた。金色の筋が走った陶器。誰が直したのか分からない花瓶。——自分にも、忘れているものがあるのだろうか。河内のように、泣くべきものを忘れているのだろうか。


 胸の奥が、かすかに痛んだ。いつもの痛みだ。原因のない痛み。内科で診てもらっても異常なし。健司先生に「ストレスでしょう」と言われた。でも——ストレスではない気がする。何かを失くした場所が、中身のない引き出しのように、からんと鳴っている。


 狐の面の男。クロ。昨日の来訪者。あの男が河内にも接触したということは、写祓の成否を見ていたことになる。写真館を、あるいはルカ自身を、どこかから見ていた。


 ——影向稲荷へ行け。静江に聞けば分かる。


 クロが残した言葉が、頭の中で繰り返される。お前の姉が封印したもの。姉。


 ルカは立ち上がった。コートを羽織り、カメラバッグを肩にかけた。動くしかない。考えているだけでは分からないことがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ