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第4話 黒い狐の面

 翌朝。


 台所で湯を沸かしながら、ルカは棚から椀を取り出した。二つ。


 ——二つ。


 一瞬、自分が取った椀の数に戸惑った。一人暮らしなのに。なぜ二つ取った。一つを棚に戻そうとして、手が止まった。戻すのに、なぜか抵抗がある。体が二つを欲しがっている。


 結局、二つとも流しの横に置いた。一つは空のまま。いつか使うかもしれないから。理由は分からない。


 引き出しの奥から、小さな機械が出てきた。


 古いポケベル。液晶は割れている。電池はとうに切れている——はずだった。だが指で触れた瞬間、液晶が一度だけ、弱く光った。カクカクとした粗いデジタル数字が、死にかけの光で浮かぶ。


 「08414106」


 八桁の数字が、焼き付いたように液晶の奥に残っていた。他の何も表示されない。七年間、電池が切れたまま、この数字だけを保持し続けている。


 ルカは数字を見つめた。意味は分からない。でも——見ているだけで、涙が出た。理由もなく。08414106。八つの数字。自分が誰かに送ったのか、誰かから受け取ったのか。言葉ではなく数字に変換された、何かの合図。ポケベルの語呂合わせ。自分たちの世代なら分かるはずだ。084はオハヨー。14106は——。


 指が覚えている。この数字を打った指の動きを。テンキーの配置を。でも——誰に送ったのか、誰から届いたのか——それだけが、霧の向こうに消えている。


 ルカはポケベルを引き出しに戻した。記憶はない。だが涙だけが——涙の理由だけが——体に残っていた。


 完成したティンタイプを封筒に入れ、河内への連絡を済ませる。黒塗りの金属板に定着された佐助の姿は、鮮明で、どこか儚い。


 窓の外は霧。今朝の霧は濃い。向かいの古物商の看板が霧に溶けて読めない。久遠木の朝はいつもこうだった。霧は午前九時ごろまで残り、日が高くなると薄れ、夕方にはまた降りてくる。町の人々はそれを呼吸のように受け入れている。霧の中では声が遠くに届かないから、隣同士でも大声で話す。それが久遠木の朝の音だった。


 チクワが窓辺で落ち着かず、何かを追うように首を動かしている。突然、猫は階段を駆け上がり、二階の廊下の突き当たり——閉ざされた障子の前で鳴き始めた。


 ルカが立ち上がろうとした瞬間、玄関の風鈴が鳴った。


 予約の客はいないはずだった。


 正面玄関を開けると、長身の男が立っていた。茶色のコートに、青緑色の狐の面。面には細かい罅が走り、漆が剥げかけている。古い面だった。百年は経っていそうな。彼の周りの空気が歪んで見える。霧が彼の足元で不自然に渦を巻いている。彼が立っている場所だけ、霧の色が違う——わずかに青みがかっている。


「橋爪ルカか」


 落ち着いた声。だがどこか二重に聞こえる。男の声と、女の声が、重なるように。


 ルカの体が反応した。背筋を何かが走る。警戒ではない。——懐かしさに近い。なぜ。


「お前に用がある」


 男はゆっくりと面を持ち上げ、右半分の顔だけを見せた。白い肌、鋭い輪郭。右目に、奇妙な円形の紋様。それが一度だけ、青く光った。


「クロと呼べ。お前の写真の中に、神の欠片がある」


「神の……欠片?」


「封印で砕けた狐神の力が、結晶になって散った。五つ集めれば——封印を動かせる。お前の姉が封じたものだ」


 ——姉。


 頭に痛みが走った。鏡に映った見知らぬ少女の笑顔。現像室で聞こえた柔らかい笑い声。それと、今の言葉が繋がった。繋がった、と脳が認識する前に、体が拒絶した。


「私に姉はいません」


 声が平坦だったのは、意志ではなく防衛だった。


 クロは一瞬、黙った。面の下で表情が変わる気配があった。


「思い出せ、橋爪ルカ」


 その声は静かだったが、どこかが震えていた。


「急がなければ、この街全体が霧に沈む」


 ルカは答えなかった。玄関の敷居を挟んで、二人はしばらく向かい合っていた。霧が濃くなっている。チクワが二階から降りてきて、クロの足元で立ち止まった。唸りも鳴きもせず、ただ見上げている。猫の視線は面ではなく、面の下——クロの顎の線をじっと見つめていた。


「まずは影向稲荷へ行け。静江に聞けば分かる」


 クロはそれだけ言って、背を向けた。コートの裾が霧に溶けるように消えていく。三歩目で輪郭が曖昧になり、五歩目で完全に見えなくなった。足音だけが、霧の中にしばらく残っていた。


 ルカは敷居に手をついたまま、しばらく動けなかった。頭痛が引かない。胸の奥で、何かが揺れている。揺れているのに、掴めない。


 玄関の前の石畳が、霧に濡れて光っていた。クロが立っていた場所に、足跡はない。乾いたまま。あの男は——地面に触れていなかったのだろうか。


 チクワが玄関の框に座り、霧の中を見つめていた。尾がゆっくりと左右に振れている。探しているのか、見送っているのか。猫だけがクロの去った方角を知っているようだった。


 名前のない記憶が、霧の向こうで呼んでいる気がした。

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