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第9話 破られたページ

 ページをめくるたびに、チヨの日常がルカの中に流れ込んでくる。写真の話、現像液の調合、影向稲荷の祭りの準備。その合間に、ルカのことが何度も出てくる。ルカの笑顔、ルカの寝癖、ルカが初めてシャッターを切った日のこと。「シャッターの瞬間、あの子の目が光った。金色に。巫女の力がもう芽吹いている」——ルカは自分の灰銀の瞳を思い浮かべた。あの金色はいつ消えたのだろう。


 日付が飛んで、夏が近づいていた。筆跡が変わっている。丁寧だった文字が、少し乱れ始めている。筆圧が強くなり、ペン先が紙を引っ掻いている箇所もある。


「六月十五日。今日、影向稲荷の神主さんから話があると——」


 その先のページが、破られていた。


 ルカは手を止めた。これほど丁寧に書かれた日記の持ち主が、自分でページを破るだろうか。破り口は粗い。急いで引きちぎったような痕。


 引き出しの底を探った。薄い紙片が指先に触れる。破られたページの断片。紙の端が毛羽立っている。文字が読める。


「——神主さん、狐神のこと——村で奇妙なこと——記憶が——朽葉温泉で強い記憶が——」


 朽葉温泉。その名前に、胸の奥がざわついた。聞き覚えがある。いつか、誰かと「行こうね」と約束した場所。温泉の湯気。硫黄の匂い。笑い声。——ぼやけて、消えた。


「そこが最初の場所だ」


 クロの声が廊下から聞こえた。部屋にはまだ入ってこない。


「朽葉温泉旅館。四十年前に廃業した温泉宿だ。チヨが日記に書いたように、そこには強い痕跡が残っている」


 ルカは日記を閉じ、箪笥の引き出しをもう一度調べた。着物の下、底板との隙間に、何かが挟まっている。


 封筒だった。古い。黄ばんでいるが、丁寧に保管されていた。表面に桜の花びらの押し花。花びらは褪色して茶色くなっているが、形は完全に残っている。そして——「ルカへ」。


 姉の筆跡だった。


 ルカの手が止まった。封を切ろうとして、指が強張った。


「……開けてもいい?」


 廊下から沈黙。それからクロの声。


「お前の判断だ」


 ルカは封筒を裏返した。裏に小さな字で書かれている。「全部思い出してから読んでね」


 指が止まった。全部思い出してから。今の自分は、まだ断片しか持っていない。


 ルカは封筒をそのまま鞄に入れた。


 引き出しの隅に、もう一つ。小さなガラス板。乾板だ。手に取って光に透かした。


 真っ白だった。


 何も写っていない。銀塩が均一に焼けて、像が完全に消失している。失敗作だ。だが——手に持った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。理由は分からない。この白い乾板に見覚えがある。どこかで。いつか。自分が——撮った?


 記憶が来ない。痛みだけが残った。ルカは乾板を引き出しに戻した。


 箪笥の一番下の引き出しに、もう一つ。桜色の絹の小袋。金糸で印が縫い取られている。中には銀色の粉。触れると、指先に微かな熱が伝わった。粉は細かく、光を当てると青い光沢がある。砂糖よりも繊細で、塩よりも滑らかな手触り。


「それは影写りの粉だ」クロが言った。「写祓の儀式に使う。チヨが作った」


「どうして部屋に?」


「お前のために残したんだろう」


「……なぜ姉はこれをここに。封印の前に、私が必要になると分かっていたの」


 クロは少し間を置いた。廊下の壁に寄りかかったまま、天井を見上げた。


「いつかお前が真実を見る時に必要だと——分かっていたんだろう。チヨはそういう女だった。自分が消えた後のことまで、全部考えていた」


 声が低くなった。最後の一言に、クロ自身も気づいていない感情がにじんでいた。


 ルカは袋を鞄にしまった。日記も入れた。カメラバッグを肩にかけ、立ち上がる。


 部屋を出る前に、壁の写真を一枚外した。川辺で遊ぶ二人の少女。ルカとチヨ。年上の少女が、カメラを構える妹を笑って見ている。写真の裏に、鉛筆で日付。その横に小さな字。「ルカの初シャッター」。


 写真を鞄に入れ、障子を閉めた。


 階段を降りると、クロが玄関に立っていた。


「行くか」


「朽葉温泉?」


「ああ。日記の断片にあった場所だ。写し世の記憶が強く残っている」


 ルカは頷いた。大きな宣言はしなかった。ただ靴を履き、コートの襟を立てた。


 チクワが窓辺から二人を見ていた。猫は鳴かなかった。ただ見送るように、じっと。


 前を向いた。歩き始めた。


 写真館を出るとき、ルカは一つの違和感に気づいた。向かいの古物商の看板が読めない。「和田骨董」の四文字のうち、「骨董」の二文字が霧に溶けて判読できなくなっている。昨日の朝は読めた。霧が——一日で、濃くなっている。


 クロが玄関先で立ち止まり、看板の消えた方角を見つめていた。ルカには聞こえない声で、唇だけが動いた。


「……もう少しだ、チヨ」

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