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第10話 朽葉温泉旅館

 久遠木から東へ十キロ。山間の細い道を半日歩いた。


 朝、家を出る前に、ルカは握り飯を二つ作った。一つは自分の分。もう一つは——無意識だった。クロに渡そうとして、思い出した。彼は何も食べない。記憶を燃料にする存在だ。それでも作ってしまった。リュックの隅で、余った握り飯が揺れている。


 クロは半歩前を歩く。いつもの距離。二人の間に会話はほとんどなく、ルカは歩きながらチヨの日記の断片を反芻していた。「朽葉温泉で強い記憶が——」破られたページに残っていた言葉。


 道が開け、谷あいの霧が薄くなった瞬間、旅館が見えた。


 明治の面影を残す和風建築。しかし屋根は半分崩れ、壁には蔦が絡みつき、窓枠が腐って外れかけている。「朽葉温泉旅館」と彫られた看板が、今にも落ちそうに傾いていた。


 ルカの足が止まった。


 玄関の柱に、誰かが刻んだ文字がある。苔に覆われて読めない。指で苔をこすると、下から「また来ます」という小さな字が現れた。宿帳に書くような丁寧な字。何十年も前の旅人が、ここに想いを残していった。


 玄関先の石段に、割れた下駄が片方だけ残されていた。もう片方は見当たらない。最後にここを出た人は、急いでいたのだ。


 見覚えがある。仕事で一度来ている。だがそれとは別の記憶が、もっと深いところで疼いた。木の廊下を走る小さな足音。硫黄の匂い。「ねえ、いつか二人で行こうね」という声。


「チヨと来たことがある」


 声に出すと、それが真実だと分かった。幼い頃、家族で。


 クロは黙っていた。ただ旅館の入口を見つめている。彼の肩が強張っているのが、背中越しに分かった。


 引き戸を開ける。


 最初に来たのは匂いだった。湿った木材、黴、そしてかすかな硫黄。四十年間閉じ込められていた空気が、一気に流れ出す。ルカの鼻腔に、時間が凝縮された匂いが押し寄せた。人間が立ち去った後も、建物は呼吸を続けていたのだ。湿気を吸い、吐き、木を腐らせ、苔を育て、蜘蛛に巣を張らせ。四十年分の建物の呼吸が、今ルカの顔に吹きつけている。


 玄関ホールは広く、天井から蜘蛛の巣が垂れ、調度品が朽ちたまま残されている。受付の台に、宿帳が開いたまま置かれていた。最後の日付は昭和三十七年。最後の客の名前が読める。筆ペンの几帳面な字。この人は、自分が最後の客になるとは知らなかっただろう。


 足を踏み入れた瞬間、靴の下の畳が沈んだ。腐っている。体重をかけると、湿った繊維が崩れる感触が足裏に伝わった。


 廊下を進む。壁に古い写真が掛かっていた。昭和初期の客たち。笑顔。浴衣姿。賑わいが凍結されたような一枚一枚。ルカは立ち止まらず、通り過ぎた。


 奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。重く、湿り気を帯びる。温度が上がり始めた。現実の熱ではない。記憶の熱だ。数えきれない人間がここで湯に浸かり、体温を残していった。その残響が、建物の骨に染みついている。


「大浴場は裏手だ」


 クロが言った。庭園を抜け、苔むした石段を渡る。大きな木造の建物が見えた。大浴場。


 入口でクロが立ち止まった。


「ここからは一人で行け」


「なぜ」


「欠片は、求める者にしか現れない」


 間があった。クロの声がわずかに低くなった。


「それに——俺がこの中に入ると、均衡が崩れる」


「均衡?」


「聞くな。行け」


 ルカはクロを見つめた。彼は入口の柱に寄りかかり、腕を組んでいる。面の向こうの表情は見えない。だが彼の体が微かに強張っているのを、ルカは見逃さなかった。この場所が、クロにとっても何かを意味している。


 カメラバッグを肩にかけ直し、影写りの粉の袋をポケットに入れた。


「行ってくる」


 大浴場の引き戸に手をかけた。木が湿気を吸って膨らんでおり、力を入れないと動かない。軋む音が、静寂を裂いた。

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