第11話 声の代償
中に入った瞬間、世界が変わった。
広い湯船。タイル張りの床。高い天井。そのすべてが、薄い湯気に包まれている。配管は壊れている。湯は出ていない。なのに、湯気がある。半透明の、過去の蒸気。
硫黄の匂いが、急に強くなった。鼻の奥が痛いほどの濃さ。目が染みる。湯気が皮膚にまとわりつき、髪が湿気を吸って重くなる。
一歩踏み出すと、タイルが滑った。足裏に、ぬるりとした感触。水垢ではない。四十年分の記憶が、床の上に薄い膜を張っている。
湯気の中を進む。視界は三メートル先までしかきかない。耳に断片的な音が届く。水音。笑い声。湯船に浸かる吐息。子供が走る足音。すべてが過去から漏れ出している。
ルカはカメラを構えた。湿気が蛇腹の布に染みている。レンズが曇る。袖で拭いても、すぐに白く戻る。硫黄を含んだ湯気が真鍮のボディを腐食させる——長時間ここに置けば、カメラごと朽ちる。手早くやるしかない。ファインダーを覗くと、湯気の中に人影が見えた。一つではない。いくつも。輪郭だけの、顔のない影。この旅館で過ごした人々の残滓。
一つの影が、他より鮮明だった。白衣を着た男性。眼鏡。何かを必死に伝えようとしている。だが声は聞こえない。唇だけが動いている。
ルカは写祓の構えを取った。だが——この男性は欠片ではない。旅館に残る無数の残響の一つにすぎない。
欠片を探さなければ。
湯船に近づいた。空の湯船のはずだが、底に水が溜まっている。湯気の水。過去の水。透明ではなく、かすかに青みがかっている。タイルの目地に沿って、水が這うように広がっていく。水面に天井の梁が映っている。そして——人の顔が映っている。ルカの顔ではない。誰かの。何十人もの顔が、水面の下に重なっている。
足首に、熱いものが触れた。
湯船から水が溢れている。いや、溢れているように見える。記憶の水が、ルカの足元に広がっていく。熱い。佐助のときは冷たい川の水だった。今度は温泉の湯。滾るように熱い記憶の水。硫黄の匂いが粘膜に沁みる。温泉の湯には鉄分が溶けている。その鉄の匂いが、血の匂いに変わりかけた。幻覚の中で、温泉と火災が混ざっている。湯と炎。どちらも熱い。どちらも赤い。
幻覚だと分かっている。だが足首が灼ける。袴の裾が濡れ——いや、乾いている。触れば乾いている。だが熱は本物だ。五感が嘘をつく。これが写し世の記憶が現世に溢れるということ。体は信じてしまう。
湯気がさらに濃くなった。人影が増える。笑い声が重なり、やがて悲鳴に変わる。火災。この旅館を焼いた火災の記憶が、湯気の中に再生されている。炎の赤と湯気の白が交差し、視界が混濁する。
「——約束だよ、必ず」
声が聞こえた。
ルカの体が凍った。チヨの声だ。幼い頃の声。湯気の向こうに、二つの影が見えた。大きな影と小さな影。手をつないでいる。大きな影が小さな影をかばうように立ち、湯気の中を歩いている。小さな影は——自分だ。幼い自分が、姉の手を握って、この大浴場を歩いている。タイルが冷たくて、でも姉の手が温かくて。
「ここなら、心も体も癒される」
姉の声。この旅館で、チヨはそう言った。幼いルカの手を引いて、この大浴場を歩いたのだ。硫黄の匂いの中で、姉は笑っていた。「いつか大きくなったら、二人で来ようね」。その声が、四十年分の記憶の層を突き抜けて、今のルカの耳に届いている。
記憶の水が膝まで上がってきた。熱い。だがルカは動けない。動いたら、チヨの声が消えてしまう気がした。
「いつか、二人で——」
声が途切れた。
湯船の底が光っていた。青い光。水の中に、小さな結晶が沈んでいる。
欠片だ。
ルカは湯船の縁に手をかけた。記憶の水は存在しないはずなのに、手を入れると確かに熱い。肘まで浸かる。指先が底に触れる。結晶に触れた瞬間——
頭が割れるような痛み。
記憶が剥がれていく。何の記憶かは分からない。分からないまま、溶けていく。砂が指の間から零れ落ちるように。父の声。何かを言っている。最後に言った言葉。母が微笑んでいる。何かを言っている。最後に言った言葉。その二つが、同時に薄れていく。文字が水に滲むように読めなくなり、声が遠ざかり、最後には——何も残らなかった。
穴が開いた。胸の中に、言葉にできない空洞。そこに何があったかは、もう分からない。分からないということだけが分かる。
手の中に結晶があった。青い光はもう消えていて、ただの石のように見えた。だがその内側に、何かが眠っている。
大浴場の外から、クロの声が聞こえた。
「出てこい」
ルカは湯船から手を引き抜いた。手は乾いていた。水などなかった。だが足元のタイルに、濡れた足跡が一筋、湯船まで続いていた。
立ち上がるとき、湯船の縁に目が行った。タイルの端に、何かが刻まれている。二つのイニシャル。「C.H」と「K.K」。爪で引っ掻いたような粗い文字。誰がいつ刻んだのかは分からない。だが文字の周りのタイルだけが、微かに温かかった。
引き戸を開けて外に出ると、夕暮れだった。入ってからどれくらい経ったのか分からない。空が紫に染まり、最初の星が見えている。
クロが柱の横に立っていた。
「欠片は」
「ある」
ルカは手を開いて見せた。青い結晶。クロはそれを見て、わずかに体を引いた。面の向こうで、息を詰めたのが分かった。
「代償は」
「両親の——」ルカは言いかけて、止まった。何を失ったのか、正確に言葉にできない。「両親の、最後の言葉。思い出せない。事故の前の日に何を話したか、最後に見た顔が……」




