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第12話 姉の旋律

 喉が詰まった。泣きたいのかもしれない。だが目は熱いだけで、何も溢れなかった。代わりに胸の空洞が、静かに痛んでいた。


「使ってみろ」


「何を」


「欠片を胸に当てろ」


 ルカは結晶を胸に押しつけた。目を閉じる。


 最初は何も起きなかった。結晶が冷たい。心臓の鼓動が、結晶を通して手のひらに返ってくる。自分の鼓動のはずなのに、少しだけリズムが違う。誰かの鼓動が混ざっている。


 それから——遠くから、声が来た。


 水の底から浮かび上がるように。最初はただの振動。音にならない震え。それが少しずつ形を取り、音程を持ち、言葉になっていく。


「ルカ……わたしの役目を……引き継いで……」


 かすかだった。だが間違いない。チヨの声。温かく、優しく、少しだけ厳しい声。忘れていた音色が、七年ぶりに耳の奥で震えた。声は胸の結晶から届いているのではない。もっと深い場所——意識の底から、封印の壁を突き破って。


 ルカは目を開けた。目の奥が熱い。だが泣かなかった。結晶をポケットにしまい、立ち上がった。


 姉の声と引き換えに、両親の最後の言葉を失った。天秤の片側に乗せたものと、反対側に乗せたもの。どちらが重いか、量る方法はない。ただ——姉の声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。七年間止まっていた歯車が、一つだけ、かちりと噛み合った音がした。


 同時に——怒りが来た。


 なぜ私だけ忘れさせられた。姉がいたことを。姉に守られていたことを。七年間、知らずに生きていた。その七年は何だったのか。空っぽの食卓で一人分の鍋を作り、閉ざされた部屋の前を素通りし、名前のない痛みを押し込んで写祓を続けてきた七年。あの時間を返してほしい——。


 怒りは長くは続かなかった。数秒。胸の中で燃え上がり、すぐに灰になった。怒る相手がいない。姉は守るために消えた。怒りの矛先は、結局自分にしか向かない。


 ルカは深く息を吐いた。感情を押し込むのではなく、吐き出した。初めてのことだった。


 だが同時に、ふと思った。もし思い出したものが、思い出したくないものだったら。記憶は、いつも味方とは限らない。——その考えは一瞬で消えた。今は、姉の声が聞こえたことの方が大きかった。


「聞こえた」


 クロは唇を引き結んだ。しばらくして、低い声で言った。


「今夜はここで休め。明日、次の場所に向かう」


 ルカは頷いた。旅館の玄関に戻り、比較的床が安定している部屋を見つけて荷物を降ろした。窓の外では星が増え、山の稜線が闇に溶けていく。


 横になったが、眠れなかった。胸の空洞が痛む。両親の最後の言葉が、そこにあったはずだ。今はもう、何があったかも分からない。ただ、何かが欠けている。それだけが分かる。


 ポケットの結晶に触れると、姉の声の残響がかすかに返ってきた。「引き継いで」。その意味は、まだ分からない。


 眠りに落ちる直前、湯気の中で見た二つの影を思い出した。手をつないで歩く姉と妹。あれは記憶だった。この旅館で、確かに、二人は一緒にいた。


 失った記憶と、取り戻した声。差し引きの帳簿はまだ合わない。だが前に進むしかない。


 残りの欠片が、霧の向こうで待っている。


        *


 久遠木への帰り道。山道を二人で歩いている。


 クロは相変わらず半歩前を歩く。沈黙が心地よいわけではないが、不快でもない。二人の間にあるのは、信頼でも友情でもなく、共通の目的だけだった。


 日が傾き始めた頃、クロが唐突に口を開いた。


「お前、辛いものばかり食うのはなぜだ」


 ルカは少し驚いた。こういう質問をする人ではないと思っていた。


「頭を黙らせるため。辛いものを食べると、舌が痛くて他のことを考えられなくなる」


「感情を殺す手段か」


「殺すんじゃない。保留にするの。仕事のとき、感情があると写祓がうまくいかない」


 クロは数歩進んでから、面の下で息を吐いた。


「俺も似たようなものだ。面をつけているのは、顔を隠すためじゃない。感じすぎないようにするためだ。面があると、現世の匂いや音が一枚隔てられる。そうしないと——」


 言葉が途切れた。


「そうしないと?」


「人間の感情が、流れ込んでくる」


 ルカは黙った。クロが人間でないことは、なんとなく分かっていた。だがこうして隣を歩いていると、彼の足音は地面を踏んでいるし、呼吸は白く曇るし、肩にかかったコートには泥がついている。人間ではないのに、人間のように歩いている。


「ねえ、もう一つ聞いていい」


「何だ」


「大浴場に、なぜ入らなかったの」


 クロの足が一瞬止まった。すぐに歩き出したが、間があった。


「チヨの気配が強い場所では、俺の中のチヨの部分が暴れる。均衡が崩れて、俺が俺でなくなる。あの温泉には——チヨの気配が濃すぎた」


 ルカは何も言わなかった。姉と健司のイニシャルが湯船の縁に刻まれていた場所。あそこに姉の記憶が染みついているのなら、クロが近づけないのも分かる気がした。


「あなたは何を食べるの」


「食わない」


「全然?」


「必要がない。だが——」


 クロは少し間を置いた。


「匂いは分かる。お前の写真館は、いつも唐辛子の匂いがする。あれは嫌いじゃない」


 ルカは少しだけ笑った。口の端が、ほんの数ミリだけ上がった。クロはそれを見ていなかった——あるいは、面の隙間から見ていたのかもしれない。


 日が完全に沈み、霧が紫に変わった頃、二人は久遠木に戻った。

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