第37話 朝の光
久遠木の朝は、いつも霧で始まる。
五月。鈴蘭が咲く朝。写真館の裏庭に、ルカは一人で立っていた。白い小袖の袖口が風に揺れる。手には魂写機ではなく、小型の35mm一眼レフ。あの最初の夜、老人ホームの依頼を受けたときに使ったのと同じカメラ。あの夜から、どれほどの時間が経っただろう。カメラは同じなのに、握る手の感触が違う。以前は道具だった。今は——祈りに近い何かだった。写真は記録ではない。撮るたびに、そう思うようになった。
霧が薄い。今朝の霧は白い。白い霧は穏やかな日の前触れ。この土地の古い言い伝えを、いつの間にか信じるようになっていた。朝日がすぐに透けてくる。庭の椿はもう散り、代わりに鈴蘭が白い花をつけている。その匂いが鼻先をくすぐった。甘い匂い。桜の粉末とは違う、生きた花の匂い。
ファインダーを覗いた。庭の景色が逆さまに映る。光と影のバランスが、ちょうどいい。朝の光は柔らかく、影は深すぎない。鈴蘭の白い花弁に、露が一粒ついている。その露に朝日が当たり、小さな虹が生まれている。ファインダーの中だけの虹。
カシャリ。
一枚撮った。庭の鈴蘭。ただの花の写真。写祓ではない。魂も記憶も写っていない。ただ、五月の朝の光が花びらに当たっている、それだけの一枚。それだけの一枚が、今のルカには何よりも贅沢だった。
自分の記憶は、ずっと露出オーバーで白飛びした空のようだった。肝心なところがいつも欠けていた。でも——今の時間は、適正な露出で、ゆっくりと像を結び始めている。
「おはよう」
振り返ると、蓮が立っていた。コーヒーを二つ持っている。湯気が朝の空気に溶けていく。
「おはよう」
カップを受け取った。少し濃い。蓮のコーヒーは、いつも少し濃い。最初は苦かったが、今は慣れた。慣れたことが、時間の経過を教えてくれる。
蓮の淹れる一杯の濃さが変わらないということは、彼が変わっていないということだ。旅の前も後も、同じ豆を同じ量で、同じ手順で淹れている。変わったのは——カップを受け取るルカの方だった。以前は「苦い」としか思わなかった。今は「蓮の味だ」と思う。同じ液体の、受け取り方が変わった。
蓮がカップを渡すとき、ルカの髪についていた花びらを——鈴蘭の白い花弁を——自然に払った。指が髪に触れた。一瞬だけ。蓮自身は気づいていないようだった。ルカは少し驚いたが、何も言わなかった。言わなくていいことがある。
「今日の予約は?」
「午前に記念写真が一件。午後は空いています」
「じゃあ、午後に現像をやろう」
「夕霧村の?」
「ええ。先週撮った分」
夕霧村には月に二度通っている。一度の訪問で五枚から十枚。蓮と二人で、井戸の水面に向かって写祓を続けている。村の色は少しずつ戻りつつある。井戸の周辺だけだったのが、隣の家一軒分、さらに通り一本分。灰色の世界に、赤や青や緑が染みていく。
先月の成果を、蓮がノートを見ながら報告してくれた。朝食のテーブルで。いつもの朝の儀式になりつつある。
「先月は、学校の黒板に色が戻りました」
「何色?」
「ピンクです。チョークで『ともだちにやさしくする』と書いてあった」
蓮のペンが一瞬止まった。それからノートに「黒板のチョーク、ピンク色回復」と書き、しばらく動かなかった。
「あと、栗の木の樹皮に手触りが戻りました。前回はつるつるだったのに、今回はざらざらしていた」
「匂いは?」
「井戸の周りの土から、湿った匂いがしました。五感が少しずつ——」
蓮はそこで言葉を切り、窓の外を見た。科学者は感情をデータに変換できない。だから黙る。
全部終わるまでに何年かかるか分からない。百人以上の魂。一枚ずつ。急ぐ必要はない。村は待ってくれる。風鈴の音が、毎月少しずつ増えている。最初は一つだった。先月は四つ聞こえた。
影写りの粉は、先月ついに底をついた。最後の一つまみを撒いた日、ルカは覚悟していた。粉がなければ、村の入口を開けない。もう来られなくなるかもしれない、と。
だが——翌月、粉なしで村に向かったとき、道は開いていた。村が、自分から姿を見せた。三十二枚の写祓が、村の想いを十分に定着させたのだ。もう粉に頼らなくてもいい。姉が残した道具の力ではなく、ルカ自身の写祓の力で、村と繋がっている。
姉さん——。ルカは空になった絹袋を、一度だけ強く握りしめた。それから丁寧に折り畳み、懐中時計の隣に——胸ポケットにしまった。
チクワが裏庭に出てきた。猫は朝日の中で伸びをし、ルカの足首に額を押しつけた。白黒の毛並みが光に透ける。もう若くはない。だが元気だ。朝日の角度によっては、金色の目がときどき白く光る。狐の目に似た、不思議な光り方。
「チクワ、おはよう」
猫は短く鳴いて、庭の隅に座った。何かを見ている。ルカが目を向けると——何もない。ただの庭。だがチクワは、ルカには見えないものを見ている。
いつものことだった。だが今朝は、猫の様子が少し違った。以前は見えないものに向かって耳を倒し、喉の奥で低い音を立てていた。警戒。あるいは畏怖。今朝の猫は——目を細めていた。日向にいるときの顔。安心しているときの顔。見えないものが、怖いものから懐かしいものに変わったのかもしれない。




