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第36話 時計の声

 翌週。写祓の依頼が入った。


 老婦人が写真館を訪れた。七十代。白い髪を丁寧に結い上げ、着物の着付けが美しい。手に、古い懐中時計を持っていた。


「主人の形見なんです。この時計から……声がするんです」


「声」


「ええ。『ありがとう』って。何度も。夜中に目が覚めて、枕元の時計から聞こえるんです」


 ルカは時計を受け取った。ずしりと重い。金属の裏蓋に、イニシャルが刻まれている。蓋を開けると、針は止まっていた。


 胸ポケットの懐中時計が、微かに反応した。共鳴するように、わずかに温度が上がった。


「お預かりします。明日の朝、取りに来てください」


 夜。現像室。


 ルカは懐中時計をライトボックスの上に置き、魂写機を構えた。ファインダーを覗く。時計の表面に、かすかな青い靄。穏やかな色。怒りも悲しみもない。ただ、感謝の色。


 かつてなら、これは「処理」だった。残留思念を写真に定着させ、浄化する。淡々と。


 今は違う。


 ファインダーの中の青い靄が、ゆっくりと形を取り始めた。老人の姿。穏やかな顔。妻に向かって何かを言っている。唇の動きが読める。——ありがとう。


 ルカはシャッターに指をかけた。


 三呼吸。だが今日は——自分を閉じなかった。空の器にはしなかった。老人の感謝を、そのまま受け取った。胸の奥が温かくなった。目の奥が、少しだけ熱くなった。


 カシャリ。


 シャッターを切った。閃光は穏やかだった。鏡は震えなかった。青い靄が写真に吸い込まれ、部屋は元の静けさに戻った。


 現像する。蓮がそばで見ている。


 像が浮かび上がる。時計の写真。その上に、薄く——老人の笑顔が重なっている。はっきりとは見えない。だが確かにそこにいる。「ありがとう」と言っている顔。


 翌朝、写真を老婦人に渡した。


「時計の声は、ご主人の感謝の言葉でした。写真に定着させましたので、もう夜中に聞こえることはないと思います」


 老婦人は写真を見つめ、少しだけ目を潤ませた。


「主人、笑ってる……」


「ええ。とても穏やかに」


「ありがとうございます。本当に」


 老婦人が去った後、ルカは客間の椅子に座った。蓮がお茶を持ってきた。


「いい写祓でしたね」


「うん」


「前と違いますよ、ルカさん」


「何が」


「撮り終わったあとの顔。前はいつも疲れていた。今は——」


「今は?」


「満足している顔です」


 ルカは少し驚いて、自分の顔に手を当てた。表情が分からない。鏡がない。だが——確かに、胸の中に何かが温かい。以前の写祓にはなかったもの。


 感じている。感じても、写せている。


 それが変わったことの、一番大きな証拠だった。


        *


 翌週、別の依頼が入った。


 中年の男性。亡くなった母の写真を持ってきた。「母の声を聞きたい」と言った。ルカは写祓を行い、写真の中から母親の声を引き出した。優しい声だった。息子の名前を呼んでいた。


 男は写真を受け取り、声を聞いた。そして——顔が歪んだ。


「……思い出さなければ、楽だったかもしれない」


 小さな声だった。ルカには聞こえた。


「母は最期まで僕のことを呼んでいた。なのに僕は——見舞いにも行かなかった。思い出したら、その事実からもう逃げられない」


 男は料金を払い、写真を抱えて帰っていった。振り返らなかった。


 ルカは客間の窓辺に立ち、男の背中を見送った。記憶を取り戻すことは、必ずしも救いではない。忘却の中にいれば痛まなかったものが、思い出した瞬間に刃物になる。


 だが——ルカの拳が、窓枠の上で白くなっていた。


 ——忘れられた側は、どうなるんですか。


 声には出さなかった。だが胸の中で、その言葉が反響していた。忘れた方が楽だと言う人がいる。だが忘れられた人は——写真の中で、名前を呼ばれるのを待っている。姉のように。七年間、誰にも名前を呼ばれず、写し世の底で笑い続けていた姉のように。


 記憶は祝福にも呪いにもなる。だが——忘却は、いつだって片方からの沈黙だ。


 蓮が隣に来た。何も言わなかった。ルカも何も言わなかった。

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