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第35話 遺品のフィルム

 再開から三週間が経った。


 客は少しずつ増えていた。写祓の依頼が二件。記念写真が五件。写真の修復が一件。蓮は受付と現像の助手を務め、ルカはカメラを握った。二人の連携は日を追うごとに滑らかになっていく。


 その日の午後、予約なしの客が来た。


 三十代の男性。目尻にうっすらと皺が刻まれている。穏やかな顔立ちだが、どこか空虚な影がある。ルカの目が自然に絞りを開いた。被写界深度が浅くなる。男の目の奥に、長い時間をかけて堆積した寂しさが浮かぶ。背景がぼけて、その寂しさだけが鮮明になった。


「橋爪さんの写真館と聞いて。現像をお願いしたいんですが」


 男は鞄から、古いフィルムケースを取り出した。金属の缶。蓋に錆が浮いている。


「これは……ずいぶん古いですね」


「ええ。実は、どこで手に入れたのか覚えていないんです。診療所の机の引き出しに、ずっと入っていたらしくて。毎年大掃除のたびに手に取るんですが、なぜか開けずにまた戻してしまう。今年、ようやく——」


 男は言葉を探すように目を泳がせた。


「ようやく、開けなければと思ったんです。理由は分かりません」


 まるで指先が、その中に自分を救う光があると知っていたかのように——ルカにはそう見えた。記憶を失っても、体が覚えている。この人もまた、忘れたはずの誰かに導かれている。


 ルカはフィルムケースを受け取った。手に持った瞬間、微かな温もりを感じた。金属の缶が、長い間体のそばに置かれていた温もり。誰かのポケットの中で、何年も温められていた温度。


 受け取ったとき、ルカの指に健司の右手が触れた。


 ——冷たい。


 氷のような冷たさ。五月の午後なのに。血の気が引いているのではない。芯から冷えている。人間の手の温度ではない。


「先生の手、氷みたいに冷たいですね」


 思わず言った。健司は自分の右手を見た。困ったような、でも少し安堵したような顔で。


「ああ——そうなんです。なぜか右手だけが、ずっと冷たくて。七年前くらいから、だと思います。何かをした覚えはないんですが、気がついたら治らなくなっていて」


 七年前。


「お預かりします。明日の夕方にはお渡しできます」


「ありがとうございます。上條と申します」


 上條。


 ルカの指が、フィルムケースの上で止まった。


 上條健司。静江が言っていた名前。手紙にあった名前。


「……上條健司さん、ですか」


 男の目が揺れた。


「ええ。どうしてフルネームを」


「いえ……失礼しました。この町の方ですよね」


「生まれも育ちも久遠木です。診療所で働いています」


 男は——健司は——穏やかに笑った。だがその顔の端に、何かが欠けていた。笑い方を忘れかけているような、不完全な笑顔。


 ルカは黙った。チヨのことは言えない。この人はチヨを覚えていない。記憶が封印されている。だが——静江の言葉が蘇った。「あの男だけは、何かを待ち続けているような顔をしている」。


 健司が帰った後、ルカは現像室に入った。


 フィルムを現像液に浸す。古いフィルムだ。七年前のもの。乳剤が劣化しているが、像はまだ残っている。


 像が浮かび上がってくる。


 最初の一枚。川辺の風景。夕暮れ。平凡な一枚。


 二枚目。古い建物。旅館のようなもの。


 三枚目。


 ルカの手が止まった。


 若い女性が写っている。黒い髪。穏やかな笑顔。巫女装束ではなく、藍染めの着物。カメラを手に持ち、こちらを見て笑っている。その隣に——若い男。眼鏡はかけていない。笑っている。二人とも、心の底から笑っている。


 チヨと健司。


 七年前の二人が、フィルムの中で笑っていた。


 ルカは現像液の中の像を見つめたまま、しばらく動けなかった。姉が、こんな顔で笑っていた。こんなに自然に、こんなに幸せそうに。日記の中のチヨは、責任感と覚悟に満ちていた。だがこの写真の中のチヨは、ただの——恋をしている若い女性だった。


 定着液で洗い、乾かした。


 翌日の夕方、健司が写真を取りに来た。


 ルカは封筒を渡した。「きれいに写っていましたよ」


 健司は封筒を開け、写真を一枚ずつ見ていった。風景。建物。そして——


 三枚目で、健司の手が止まった。


 長い間、写真を見つめていた。表情が変わっていく。困惑。動揺。そして——何かが、奥底から浮かび上がってくるような表情。名前は思い出せない。顔も知らない。でも胸の奥で、何かが痛む。


「この人は……」


 健司の声がかすれた。


「私には分かりません。あなたのフィルムに写っていた方です」


 嘘ではない。だが全部の真実でもない。手紙の言葉が、ルカの喉元まで上がってきた。「健司さんに伝えてください。待たなくていい、と」


 言えなかった。待たなくていい、と言う権利が自分にあるのか。この人は、記憶がないのに待っている。理由も分からず待ち続けている。その待つ姿勢そのものが——チヨへの愛の証なのだとしたら。


「大切にします」


 健司は写真を封筒に戻し、深く頭を下げた。


「不思議なんです。この女性の顔を見ていると、胸が痛いんです。知らない人のはずなのに」


 ルカは何も答えなかった。ただ、写真館の入口まで見送った。


 健司が通りの角を曲がるまで、見ていた。霧の中に消えていく背中。河内俊介の背中を見送ったあの夜と同じだった。忘れられた存在を求める人の背中。この物語の最初と最後に、同じ影が立っている。


 蓮が隣に来た。


「あの人、泣いてましたよ。角を曲がったところで」


「……そう」


「それと——小さな声で、何か言ってました。『誰に会いたいのか分からないけれど、誰かに会いたい』って」


 ルカの手が、胸ポケットの懐中時計を握った。忘れているのに、待っている。名前も顔も知らないのに、会いたいと思っている。それが——封印よりも強い何かの証拠だった。


「知り合いですか」


「いいえ。でも——姉が愛した人だと思う」


 蓮は問わなかった。ルカの横に立ち、同じ方向を見ていた。


 健司が消えた方角を見つめながら、ルカは思った。忘れているのに、待っている。理由も分からず、誰を待っているのかも知らないのに、毎年同じ引き出しを開けてしまう。それは——封印よりも強い何かがある証拠だった。記憶を消しても消せないものがある。チヨはそれを知っていたから、手紙に「待たなくていい」と書いた。待たなくていいと書いたのに、「きっとあの人は待つでしょうね」と付け加えた。姉は、自分の愛した人を信じていた。その信頼が——七年間、正しかった。


 姉が誰かを愛していた。ルカは無意識に、隣に立つ蓮の横顔を一瞬だけ見た。それから目を逸らした。あの写真の中のチヨの笑顔——恋をしている女性の顔。ルカは胸の奥に小さな棘を感じた。嫉妬ではない。羨ましさでもない。ただ——自分が知らなかった姉がいた。記憶を奪われたことで、姉の恋も、姉の幸せも、姉の涙も、全部知らずに生きてきた。それが——少しだけ、悔しかった。

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