表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/39

第34話 魂写真館

 写真館を再開したのは、夕霧村から戻って一ヶ月後のことだった。


 蓮が看板を書き直した。「ハシヅメ写真館」の下に、小さな文字で「魂写真館」。彼の字は几帳面で、祖父のノートの字に似ていた。


「魂写真館……」


「いい名前でしょう」蓮は少し照れたように笑った。「ルカさんが撮る写真には、魂が写っていますから」


 大げさだと思ったが、否定はしなかった。


 開店の朝。ルカは白い小袖に緋の袴を着た。巫女装束。チヨが着ていたのと同じもの。鏡の前に立つと、姉の面影が重なった。目の形は違う。髪の長さも違う。だが袴の結び方だけは、チヨに教わった通りだった。体が覚えていた。


 現像室を確認する。魂写機。乾板。霧露液。すべて準備できている。壁の八枚の鏡は磨いてある。月見窓から朝の光が差し込んでいる。


 客間のテーブルに花を活けた。庭の椿。赤い花びら。チヨの部屋にあった桜の匂いとは違うが、生きた花があるだけで、部屋の空気が変わる。


 蓮が受付に座った。ノートと装置を脇に置き、予約帳を開いている。


「今日の予約は一件です。十時に、家族写真」


「一件だけ?」


「再開初日ですから。口コミが広がるまで時間がかかります」


 チクワが窓辺に飛び乗り、外を見つめている。猫は落ち着いている。今日は普通の日だ。写し世の気配もない。ただの、写真館の朝。


        *


 十時に、客が来た。


 三十代の夫婦と、小学校に入ったばかりの男の子。父親が受付で蓮と話している間、男の子は客間を走り回り、壁の写真を見上げていた。


「おじさん、この写真の人、笑ってる」


「笑ってるね」蓮が答えた。


「でも目が泣いてる」


 蓮はルカを見た。ルカも聞いていた。子供は見える。大人が見落とすものが見える。


「こちらへどうぞ」


 ルカは三人を撮影室に案内した。背景の白い壁。窓からの自然光。椅子を三つ並べる。


「楽にしてくださいね。かしこまらなくていいです」


 父親はぎこちなく笑い、母親は息子の髪を整えた。男の子は椅子に座ったまま足をぶらぶらさせている。普通の家族だった。特別な依頼ではない。写祓でもない。ただの、入学記念の家族写真。


 ルカはファインダーを覗いた。


 三人が映っている。父親の肩に力が入っている。母親は少し心配そうだ。男の子だけが、まっすぐカメラを見ている。怖がっていない。好奇心に満ちた目。


 ルカはファインダーから目を離さず、深呼吸した。三呼吸——だが、三度目で自分を閉じなかった。開けたまま。


 ファインダーの中の三人を見ながら、ルカの胸の中で何かが動いた。温かいもの。この三人は今日、ここに来ることを選んだ。息子の入学を祝い、家族の姿を写真に残すことを選んだ。それは小さな決断だが、確かな意味がある。


 いつか、この写真を見返す日が来る。息子が大きくなって、父親が年を取って、この日のことを忘れかけたときに。そのとき、写真が思い出させる。この日の光と、このときの笑顔を。


 それが写真の仕事だ。記憶を守る仕事。


「はい、撮りますよ」


 ルカは笑った。自然に。客の前で笑うのは、久しぶりだった。以前は営業用の顔すら作れなかった。唐辛子で頭を黙らせ、感情に蓋をして、写祓だけをこなしていた日々。


「お父さん、もう少し肩の力を抜いてください」


 父親がぎこちなく肩を落とした。母親が笑った。男の子が「お父さん、変な顔」と言って、父親がさらに力が抜けた。


 その瞬間。三人の表情が、自然になった。


 カシャリ。


 シャッターを切った。一枚。それだけで十分だった。


 切った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。夕霧村の帰路に感じた「名前のない感覚」——あれが、今、名前を持った。


 うれしい。


 この家族の笑顔を撮れたことが、うれしい。ルカは二十二年間生きてきて、この感情に名前をつけたのは初めてだった。


 同時に、少し怖かった。うれしいという感情が、こんなに大きいとは思わなかった。胸がいっぱいになる。辛さに似ている。唐辛子が舌を灼くのと、うれしさが胸を灼くのと——同じくらい、息が苦しい。


 現像は蓮が手伝った。乾板を液に浸し、像が浮かび上がるのを二人で見た。蓮の手つきは正確だった。液の温度を確かめ、乾板を浸す角度を調整し、揺らす速度を一定に保つ。祖父のノートに記されていた橋爪家の現像手順を、蓮は自分の手で再現していた。科学者の手が、夢写師の助手の手に変わっている。その変化に、蓮自身は気づいていないのかもしれない。


 像が浮かぶ。三人の笑顔。父親の肩の力が抜けた瞬間。母親の柔らかい目。男の子のまっすぐな視線。


 普通の写真だった。写し世の影も、魂の光も写っていない。ただの、家族写真。


 だが——その「ただの」が、今のルカには何よりも大切に感じられた。


 写真を客に渡したとき、母親が少しだけ目を潤ませた。


「きれいに撮っていただいて……ありがとうございます」


「こちらこそ」


 ルカの声が、かすかに揺れた。名前をつけたばかりの感情が、喉を通り抜けるときの、慣れない感覚。


 客が帰った後、ルカは客間の椅子に座り、天井を見上げた。蓮がお茶を淹れてきた。


「いい写真でしたね」


「うん」


「泣きそうでしたよ、ルカさん」


「泣いてない」


 蓮はカップに口をつけた。何も言わなかった。ただ眼鏡の奥の目が、少しだけ笑っていた。分かっている、という顔だった。ルカも分かっている、と分かっていた。言葉にする必要のないことが、二人の間に増えていた。


 チクワが膝に乗ってきた。猫は丸くなり、喉を鳴らし始めた。窓から午後の光が差し込み、客間が金色に染まっていく。


 光と影のバランスが、ちょうどいい午後だった。


 写真館の扉が閉まっている。でも、「OPEN」の看板は出したまま。明日も客が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいい。ここにいる。カメラがある。現像液がある。隣に蓮がいて、膝にチクワがいる。


 奥宮のクロミカゲは、月の夜に会える。夕霧村には、また行く。五枚の写真の続きを撮りに。


 まだ終わっていないことが、たくさんある。だが今日は——今日は、家族写真を一枚撮った。それだけで、十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ