第34話 魂写真館
写真館を再開したのは、夕霧村から戻って一ヶ月後のことだった。
蓮が看板を書き直した。「ハシヅメ写真館」の下に、小さな文字で「魂写真館」。彼の字は几帳面で、祖父のノートの字に似ていた。
「魂写真館……」
「いい名前でしょう」蓮は少し照れたように笑った。「ルカさんが撮る写真には、魂が写っていますから」
大げさだと思ったが、否定はしなかった。
開店の朝。ルカは白い小袖に緋の袴を着た。巫女装束。チヨが着ていたのと同じもの。鏡の前に立つと、姉の面影が重なった。目の形は違う。髪の長さも違う。だが袴の結び方だけは、チヨに教わった通りだった。体が覚えていた。
現像室を確認する。魂写機。乾板。霧露液。すべて準備できている。壁の八枚の鏡は磨いてある。月見窓から朝の光が差し込んでいる。
客間のテーブルに花を活けた。庭の椿。赤い花びら。チヨの部屋にあった桜の匂いとは違うが、生きた花があるだけで、部屋の空気が変わる。
蓮が受付に座った。ノートと装置を脇に置き、予約帳を開いている。
「今日の予約は一件です。十時に、家族写真」
「一件だけ?」
「再開初日ですから。口コミが広がるまで時間がかかります」
チクワが窓辺に飛び乗り、外を見つめている。猫は落ち着いている。今日は普通の日だ。写し世の気配もない。ただの、写真館の朝。
*
十時に、客が来た。
三十代の夫婦と、小学校に入ったばかりの男の子。父親が受付で蓮と話している間、男の子は客間を走り回り、壁の写真を見上げていた。
「おじさん、この写真の人、笑ってる」
「笑ってるね」蓮が答えた。
「でも目が泣いてる」
蓮はルカを見た。ルカも聞いていた。子供は見える。大人が見落とすものが見える。
「こちらへどうぞ」
ルカは三人を撮影室に案内した。背景の白い壁。窓からの自然光。椅子を三つ並べる。
「楽にしてくださいね。かしこまらなくていいです」
父親はぎこちなく笑い、母親は息子の髪を整えた。男の子は椅子に座ったまま足をぶらぶらさせている。普通の家族だった。特別な依頼ではない。写祓でもない。ただの、入学記念の家族写真。
ルカはファインダーを覗いた。
三人が映っている。父親の肩に力が入っている。母親は少し心配そうだ。男の子だけが、まっすぐカメラを見ている。怖がっていない。好奇心に満ちた目。
ルカはファインダーから目を離さず、深呼吸した。三呼吸——だが、三度目で自分を閉じなかった。開けたまま。
ファインダーの中の三人を見ながら、ルカの胸の中で何かが動いた。温かいもの。この三人は今日、ここに来ることを選んだ。息子の入学を祝い、家族の姿を写真に残すことを選んだ。それは小さな決断だが、確かな意味がある。
いつか、この写真を見返す日が来る。息子が大きくなって、父親が年を取って、この日のことを忘れかけたときに。そのとき、写真が思い出させる。この日の光と、このときの笑顔を。
それが写真の仕事だ。記憶を守る仕事。
「はい、撮りますよ」
ルカは笑った。自然に。客の前で笑うのは、久しぶりだった。以前は営業用の顔すら作れなかった。唐辛子で頭を黙らせ、感情に蓋をして、写祓だけをこなしていた日々。
「お父さん、もう少し肩の力を抜いてください」
父親がぎこちなく肩を落とした。母親が笑った。男の子が「お父さん、変な顔」と言って、父親がさらに力が抜けた。
その瞬間。三人の表情が、自然になった。
カシャリ。
シャッターを切った。一枚。それだけで十分だった。
切った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。夕霧村の帰路に感じた「名前のない感覚」——あれが、今、名前を持った。
うれしい。
この家族の笑顔を撮れたことが、うれしい。ルカは二十二年間生きてきて、この感情に名前をつけたのは初めてだった。
同時に、少し怖かった。うれしいという感情が、こんなに大きいとは思わなかった。胸がいっぱいになる。辛さに似ている。唐辛子が舌を灼くのと、うれしさが胸を灼くのと——同じくらい、息が苦しい。
現像は蓮が手伝った。乾板を液に浸し、像が浮かび上がるのを二人で見た。蓮の手つきは正確だった。液の温度を確かめ、乾板を浸す角度を調整し、揺らす速度を一定に保つ。祖父のノートに記されていた橋爪家の現像手順を、蓮は自分の手で再現していた。科学者の手が、夢写師の助手の手に変わっている。その変化に、蓮自身は気づいていないのかもしれない。
像が浮かぶ。三人の笑顔。父親の肩の力が抜けた瞬間。母親の柔らかい目。男の子のまっすぐな視線。
普通の写真だった。写し世の影も、魂の光も写っていない。ただの、家族写真。
だが——その「ただの」が、今のルカには何よりも大切に感じられた。
写真を客に渡したとき、母親が少しだけ目を潤ませた。
「きれいに撮っていただいて……ありがとうございます」
「こちらこそ」
ルカの声が、かすかに揺れた。名前をつけたばかりの感情が、喉を通り抜けるときの、慣れない感覚。
客が帰った後、ルカは客間の椅子に座り、天井を見上げた。蓮がお茶を淹れてきた。
「いい写真でしたね」
「うん」
「泣きそうでしたよ、ルカさん」
「泣いてない」
蓮はカップに口をつけた。何も言わなかった。ただ眼鏡の奥の目が、少しだけ笑っていた。分かっている、という顔だった。ルカも分かっている、と分かっていた。言葉にする必要のないことが、二人の間に増えていた。
チクワが膝に乗ってきた。猫は丸くなり、喉を鳴らし始めた。窓から午後の光が差し込み、客間が金色に染まっていく。
光と影のバランスが、ちょうどいい午後だった。
写真館の扉が閉まっている。でも、「OPEN」の看板は出したまま。明日も客が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいい。ここにいる。カメラがある。現像液がある。隣に蓮がいて、膝にチクワがいる。
奥宮のクロミカゲは、月の夜に会える。夕霧村には、また行く。五枚の写真の続きを撮りに。
まだ終わっていないことが、たくさんある。だが今日は——今日は、家族写真を一枚撮った。それだけで、十分だった。




