第33話 自画像
二枚目を撮ろうとして、ルカは手を止めた。
ファインダーの中に、自分の顔が映っている。
井戸の水面は鏡でもあった。村の記憶を映すと同時に、覗き込む者の姿も映す。ルカの顔が、村の風景に重なっている。笑う老人の上に、ルカの灰銀の瞳。子供たちの走る姿の上に、ルカの黒い髪。二つの世界が、水面の上で一枚の絵になっていた。
灰銀の瞳。いや——一瞬、青く光った。影写りの巫女の証。その目が、水面の向こうの村人たちと重なり、混ざり合っている。ルカの顔の上に村の記憶が透けて見え、村の記憶の上にルカの顔が重なっている。
自画像だ。
写真は自分自身を写すこともある。写祓は対象の記憶を写し取る行為だが、同時に写し手自身も写真に刻まれる。写す者と写される者が、一枚の写真の中で出会う。かつてルカは空の器になって写祓をしていた。自分を消して、相手の想いだけを写していた。だが今——自分の顔が写り込んでいることを、拒否していない。ここにいる自分を、認めている。
「……私も、この村の記憶の一部になるのかもしれない」
小さく呟いた。
クロミカゲの声が返ってきた。風よりも静かに。
「写祓は等価交換だ。過去を引き上げる者は、自分の一部をそこに置いていく。チヨもそうだった」
「姉さんも?」
「ああ。封印の夜、チヨは村の想いを吸い上げる代わりに、自分の存在を村に刻んだ。だからこの村に姉の気配が残っている」
ルカは水面を見つめた。村の風景の中に、もう一つの影が見えた。白い小袖の少女。手を広げて笑っている。チヨ。祭りの写真と同じ姿。水面の底で、姉が笑っている。七年間、ここで笑い続けていたのだ。忘れられた村の、忘れられた記憶の底で。
この村の記憶の底に、チヨがいる。
ルカはファインダーを覗き直した。
水面のチヨが——こちらを見た。
祭りの写真のときとは違う。あのときのチヨは群衆の中にいて、こちらに気づいていないように見えた。だが今——水面の向こうから、チヨがまっすぐにルカを見ている。ファインダー越しに。カメラという媒体を通して。ピントが合っている。姉の顔に。睫毛の一本一本まで見える鮮明さ。記憶の中の姉は、いつもどこかぼやけていた。封印がかけた永遠のピンぼけ。それが今——水面というレンズを通して、初めて結像している。
チヨの口が動いた。声は聞こえない。だが唇が読める。
——元気にしてた?
ルカの視界が滲んだ。ファインダーの中でチヨの輪郭がぼやける。涙のせいだ。だが目を拭わなかった。拭けばチヨが消えてしまう気がした。
ファインダー越しに、声にならない声で答えた。
「してないよ。全然」
チヨが笑った。水面の向こうで。困ったような、嬉しいような笑顔。姉の笑顔だった。あの日記を書いた人の顔。熱を出したルカを看病しながら泣きそうになっていた人の笑顔。
ルカは話し続けた。聞こえていないかもしれない。水面越しだから。でも止められなかった。七年分の空白が、喉から溢れ出している。
「姉さん、日記読んだよ。全部。桜の話も、唐辛子の話も、私の寝顔の話も。あと——味噌汁。毎朝二つ作ってる。一つは捨てちゃうけど、やめられないの」
チヨが口元を押さえた。笑っている。笑いながら、泣いている。姉の肩が震えていた。
「客間の花瓶、姉さんが直したの? 金継ぎの線——なぜか、私、あの線の引き方を知ってる気がする。指が覚えてる。あれも、姉さんが置いてくれたもの?」
チヨが頷いた。水面の向こうで、何度も、何度も。
チヨの目が揺れた。
「唐辛子の煮込み、まだ作ってる。でも最近はコーヒーの方が多い。蓮って人がいるの。科学者で、ちょっと不器用で、ノートにコーヒーこぼすの。でも——いい人。姉さんが好きなタイプだと思う。
味噌汁、姉さんの作り方で作るようにした。甘め。私の好みじゃないのに、なぜかこの甘さが落ち着く。蓮が飲んでくれる。『おいしい』って言ってくれる。——姉さん、その椀は、あなたの代わりに蓮が飲んでる」
チヨが口元を押さえた。笑っている。声は聞こえないけれど、肩が震えている。
「チクワも元気。あと——写真館、続けてる。お客さん、来るようになった」
チヨの口が動いた。何か言っている。読めない。でも——たぶん「よかった」と言っている。
「あと——」
ルカの声が詰まった。
「——ずっと、会いたかった」
水面が揺れた。チヨが泣いているのだ。水面の向こうで。姉が泣くと、井戸の水が震える。
ルカは井戸の縁から身を乗り出した。手を伸ばした。水面に指が触れた——透けた。チヨの頬に触れようとした指が、水と光を突き抜けて、何にも届かない。
——触れられない。
だが、ルカが見下ろすと、井戸の縁に二つの影が落ちていた。朝の光がルカの影を水面に投げかけ、水面の向こうからチヨの影が立ち上がり——二つの影が重なっていた。抱き合っているように。
体には触れられない。でも影は——想いの定着は——重なることができる。
チヨの口がもう一度動いた。
——でも、もう大丈夫でしょう?
ルカは頷いた。泣きながら。ファインダーの中で、二つの顔が重なっていた。姉の顔とルカの顔。水面が鏡になり、姉妹が一つのフレームに収まっている。
姉さんの笑顔に、ようやくピントが合った。けれどシャッターを切った瞬間——胸の奥で、また何かが一つ、静かにこぼれ落ちていくのを感じた。得ることと失うことは、同じシャッター音の表と裏だ。
これが——この物語で唯一の、二人の自画像だった。
ルカの目から涙が落ちた。水面に波紋が広がり、チヨの姿が揺れた。一度だけ。すぐに静まった。波紋が収まったとき、姉の顔はもういなかった。代わりに、ルカ自身の顔が映っている。泣いている顔。でも——笑っている顔。
「泣くな」クロミカゲの声。だが優しかった。「涙は水面を乱す。写祓の精度が落ちる」
「分かってる」
ルカは袖で目を拭い、カメラに戻った。
二枚目を撮った。井戸端で笑う女性。シャッターを切ると、水面が金色に光り、空に一筋の色が走る。乾板を蓮に渡す。蓮が現像する。像が浮かぶ。女性の笑顔。
三枚目、四枚目、五枚目。一枚ごとに、水面が光り、空に色が戻る。一筋、二筋。
五枚目のシャッターを切った後、ルカは自分の手を見た。手は震えていない。だが——目の奥に、熱い光が残っている。以前は写祓の直後に一瞬だけ浮かんで消えていた瞳の金色が、今は数秒長く残るようになっていた。蓮が気づいた。
「ルカさん、目が——少し金色です。前より長い」
ルカは瞬きした。金色が消えた。だが確かに、前より長かった。写祓を重ねるたびに、封印に眠らされた力が少しずつ目を覚ましている。白黒の村に、夕暮れの光が斜めに差し込む。光だけは色を保っている。橙色の夕日が、灰色の屋根を照らしている。奇妙な美しさだった。白黒の写真にカラーフィルターを一枚だけ載せたような景色。
「今日はここまでにしよう」
ルカは魂写機を片付けた。五枚の乾板。五人分の面影。百人以上のうちの、五人。
「何度も来なければ」
「ええ。でも道は覚えた」
蓮は祖父の地図を折りたたみ、鞄にしまった。祖父の乾板も一緒に。
二人は村を出る準備をした。チクワが先に立ち、来た道を戻り始めた。
村の入口で、ルカは一度振り返った。白黒の家々。止まった時計。閉ざされた窓。だが——井戸のあたりだけ、空気がわずかに違って見えた。かすかに色がある。井戸を囲む石柱の一本が、灰色ではなく茶色に見える。石の茶色。地味な色だが、この白黒の世界では革命だった。五人分の記憶を写し取ったことで、ほんの少しだけ、村に色が戻りかけている。
「……見える?」
「ええ」蓮も見ていた。「井戸の周りだけ、薄く色がついている」
「少しずつ、戻るのよ。想いが写真に定着されれば、村に色が戻る」
蓮はノートに書き込んだ。「写祓による記憶の定着=色彩の回復。五枚で約0.3%の色彩回復を目視確認」。科学者の目と、記録者の手。彼はペンを置き、もう一度村を見つめた。それからノートの余白に、小さなスケッチを描いた。井戸と、その周りのわずかな色。白黒の世界に浮かぶ、小さな色の島。
霧を抜け、山道を下る。色のある世界に戻ると、空気の匂いが鮮烈に感じられた。土の匂い、草の匂い、夕暮れの湿った風。白黒の村にいた間、感覚が鈍っていたことに気づいた。木の葉の緑がまぶしい。空の青が痛い。色があるということが、こんなにも贅沢だと、あの村に行く前は知らなかった。
「帰りましょう。久遠木に」
「はい」
チクワが前を歩いている。猫は振り返らない。前だけを見ている。
ルカもそうした。前を向いて歩いた。鞄の中に五枚の乾板。村に残したルカ自身の影。そして頭の中に、姉の笑顔。
胸の奥に、名前のない感覚があった。悲しみではない。怒りでもない。もっと軽い。もっと温かい。井戸の底でチヨと向き合ったとき——「元気にしてた?」と聞かれたとき——泣いたのに、笑ったのに、その後に残ったもの。何と呼ぶのか分からなかった。ルカの感情の辞書には、まだその言葉が登録されていなかった。
久遠木までは三日。その間に、ルカは決めていた。
写真館を再開する。ただの写真館ではなく、人の想いを癒す場所として。夕霧村の記憶を少しずつ取り戻しながら、久遠木の人々の日常の想いにも寄り添う。写祓は浄化だけではない。想いを定着させ、色を取り戻し、つなぎ直す仕事。
「蓮さん」
「はい」
「写真館を手伝ってくれない?」
「もちろんです。僕にできることなら」
「現像と記録。それから——祖父のノートの整理」
蓮は少し笑った。
「それは僕の専門です」
山道を下りながら、二人の影が夕日に長く伸びていた。二つの影が、並んで歩いている。




