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第38話 自画像の夜

 先週の月の夜、奥宮に行った。


 一人で山道を登った。蓮は写真館で留守番をしている。この道はもう覚えた。苔むした石段。傾いた鳥居。椎の木のトンネル。月明かりの下では、木々の影が道の上に紋様を描いている。足元の石段が白く浮かんで見える。巫女の目が——あの青い光が——暗闇の中で道を照らしている。


 奥宮の扉を開けると、鏡が月光を反射して青く光っていた。九枚の鏡が、月の光だけで神殿の中を照らしている。電灯はない。必要もない。


 クロミカゲがいた。鏡の前に立っていた。以前より姿が安定している。青白い髪。狐の耳。右目の紋様と、金色の左目。半透明の体が月光を透かし、壁に九つの尾の影を落としている。


「元気そうだな」


「ええ。あなたも」


 長い会話はしなかった。必要もなかった。クロミカゲは鏡の中のルカの姿をしばらく見つめ、それから言った。


「写真館が繁盛していると聞いた」


「誰から」


「チクワから」


 ルカは笑った。クロミカゲも笑った。姉の笑い方と、クロの笑い方が、一つの表情の中に共存していた。見るたびに少しずつ馴染んでいく。二つの魂が一つの器に慣れていく過程を、ルカは月ごとに見守っている。最近では、姉の声音でクロのような皮肉を言うようになった。「お前の唐辛子の匂いが奥宮まで届く」。チヨはそんな言い方をしなかった。クロならした。だがその口調の奥に、姉の温もりがある。


「夕霧村の進捗は?」


「三十二枚。まだ先は長い」


「急ぐな。記憶は——」


 クロミカゲの口が、一瞬止まった。表情が揺れた。クロの口調で始まった言葉が、途中でチヨの声に変わりかけ、また戻る。二つの意志が、一つの文の中で微かに綱引きをしている。


「——逃げない」


 言い終えて、クロミカゲは自分の口元に手を当てた。まだ慣れていないのだ。一つになったとはいえ、二つの魂が完全に同化したわけではない。チヨが言いたいことと、クロが言いたいことが、ときどき違う方向を向く。輪郭も安定しない。右半身がチヨの線で描かれ、左半身がクロの線で描かれている瞬間がある。肩の高さが左右で違う。声の高さが一音だけ揺れる。


 その不完全さが——不思議と、愛おしかった。完璧に溶け合っていたら、二人がそこにいる証拠がない。ぎこちなく混ざり合っているからこそ、チヨもクロも、確かにここにいる。


「知ってる」


 蓮が先日言っていた。「祖父のノートの余白が、少しずつ埋まっていきます。祖父が書けなかったページを、僕が書いている。そんな気がします」。祖父の観測記録の続きを、孫が写祓の記録として書き続けている。別の方法で、同じ世界を記録している。


 クロミカゲの姿が薄くなり始めた。月が雲に隠れかけている。


「来月も来るわ」


「ああ。待っている」


 鏡に溶けるように消えていった。金色の左目が最後に光って、消えた。


 ルカは手のひらを見た。何かに触れた感覚が残っている。鏡に手を伸ばしたわけではない。だが手のひらの真ん中に、冷たいような温かいような——何に触れたのかも分からない感触が、しばらく消えなかった。


        *


 朝の一杯を飲み終え、ルカは写真館の玄関に立った。蓮が看板を「OPEN」に変える。


「魂写真館、本日も開店です」


 ルカは何か言おうとして、やめた。蓮もルカを見て、何か言いかけて、やめた。二人とも同じことを考えていたのかもしれない。違うことだったのかもしれない。どちらでもよかった。


 その言葉が、もう日常になっている。


 ルカは胸ポケットに手を入れた。懐中時計。取り出して、文字盤を見た。


 針が動いている。秒針が、かちかちと刻んでいる。正しい時刻。八時十五分。普通の朝の、普通の時刻。


 七時四十二分で止まっていた時計が、今は普通に動いている。封印の時刻から解放され、現在を刻んでいる。


 文字盤のガラスに、自分の目が映った。灰銀の瞳——のはずだが、朝の光の加減か、縁がかすかに金色を帯びているように見えた。


 ルカは時計をポケットに戻した。


 口の中に、少し苦い後味が残っていた。蓮の淹れた、いつも少し濃い一杯。その苦味が舌の上で、ルカの現在いまを繋ぎ止めている。かつては唐辛子の辛さで頭を黙らせていた。今は、コーヒーの苦さで目を覚ましている。灼くのではなく、醒ます。それだけの違いで、朝の味が全く変わった。


 朝食の食卓には、椀が二つ並ぶ。味噌汁。甘めに作る。——辛い方が好きなはずなのに、なぜか甘く作ってしまう。自分の好みではない味を、毎朝体が選ぶ。これは私の体ではないのかもしれない。姉の体が、私の中で味噌汁を作っているのかもしれない。


 一つは蓮が飲む。「おいしい」と言ってくれる。もう一つは——毎朝、作ってしまう。誰のための椀か、もう分かっている。座る人はいないが、湯気だけは立てる。


 ——時々、唐辛子が恋しくなる。蓮のコーヒーの方がいいと分かっているのに。たぶん完全には治らない。治らなくていい。


 なぜか分からないけれど、今はこれでいい。空っぽではないし、満杯でもない。そのことが、なぜか怖くない。


 最初の客が見えた。通りの向こうから、女性が一人歩いてくる。手に古い写真を持っている。何かの相談だろう。


 ルカは写真館の入口に立ち、客を迎える準備をした。


 朝の光が写真館の窓を通り抜け、客間の床に影を落としている。光が強くなれば影も濃くなり、光が弱くなれば影は薄れる。どちらが欠けても、写真は成り立たない。


 女性が近づいてくる。写真を胸に抱え、少し不安そうな顔をしている。ルカは無意識にピントを合わせようとした。だが——まだ合わない。この人の物語は、これから始まる。像が結ぶのは、もう少し先だ。


 ルカはかつてのように表情を消さなかった。少しだけ——本当に少しだけ——微笑んだ。


 胸ポケットの懐中時計が、かちりと時を刻んだ。灰銀の瞳の縁に、金色の光が、ほんの一瞬だけ、朝霧のように揺れた。


 光が強すぎると、影は写らない。


 だから私は、曇りの日を好んだ。


 ——けれど今は、晴れの日も悪くないと思う。


        *


 その夜、写真館が閉まった後。


 ルカは現像室に一人で入った。蓮は帰った。チクワが足元にいる。


 木戸を閉めた。こつん、と引っかかる。枠が少し反っている。父の代からそうだ、と誰かが言っていた気がする。直そうと思いながら、ずっと放置していた——そう、誰かが。


「……直さなきゃ」


 呟いた。誰の言葉だろう。自分の口から出たはずなのに、自分の言葉ではないような。この引っかかりは、誰かの未解決の宿題のようだった。受け継いでしまった宿題。


 魂写機を据えた。三脚を立て、蛇腹を伸ばし、セルフタイマーを仕掛ける。レンズの前に立つ。鏡の八枚が、自分の姿を八方向から映している。


 ファインダーを覗こうとして——左手が、髪を耳の後ろにかけた。


 ルカは動きを止めた。


 自分の指先を見つめた。いつからこの癖があったのだろう。右手でも左手でもなく、必ず左手。耳の上を通して後ろに。ファインダーを覗く直前に。


 鏡の一枚に映った自分が、同じ仕草をしている。——誰かの真似をしているような気がした。誰か。見たことがある仕草。自分の母ではない。もっと、身近な誰か。


 自画像を撮る。


 カシャリ。


 閃光はなかった。写し世の影も映らなかった。ただの写真。暗い現像室に立つ、二十二歳の女性。灰銀の瞳。少しだけ金色の縁。白の小袖は着ていない——黒のタートルネックに、現像液の染みがついたエプロン。


 現像液に乾板を浸す。像が浮かぶ。


 自分の顔。


 ——その背後に、かすかに、笑っている姉の輪郭が重なっていた。写し世の像ではない。光の加減でもない。ルカの心の中に定着した記憶が、銀塩の上に滲み出したのだ。忘れていた姉を思い出し、思い出したことが写真に焼きついた。


 チクワが鏡の一枚を見つめていた。猫の金色の目に、鏡の奥の暗がりが映っている。そこに——かすかに——狐の影が見えた。黒い狐。だが猫は耳を倒さなかった。喉の奥で、低い音も立てなかった。目を細めていた。安心した顔で。


 ルカは乾板を光に透かし、しばらく見つめた。


 それから、「不良」の箱ではなく——客間の壁に掛けた。


 壁に掛けた写真の中で、姉の輪郭が、まるで笑っているように見えた。写し世の像ではない。ルカが思い出したから、ここにいる。


 思い出してもらえたことで、姉は——もう一度、ここにいる。


 忘れられた人は消える。だが思い出された人は、戻ってくる。写真の中に。記憶の中に。名前を呼ぶ声の中に。


 数日後の朝。ルカがお茶を持っていくと、蓮は客間の椅子でノートに何かを書いていた。壁の自画像を時々見上げながら。横目で覗くと、走り書きが見えた。


『魂写機 + 残留感光密度計 = ?』


 問いの答えは、まだない。だが蓮の目が、未来を見ている。それでいい。ルカは過去を写す。蓮は未来を測る。二つの視線が交差する場所に、この写真館がある。


 ルカはお茶を置き、窓の外を見た。霧が晴れかけている。朝の光が、写真館の壁を照らし始めていた。壁に掛けた自画像の中で、姉が笑っているように見えた。


 ——ねえ姉さん。私、もう大丈夫だよ。


        ——そして、新たな物語へ——

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