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第31話 井戸の底

 村の中央に、広場があった。


 その真ん中に、古い井戸。石造りの円筒形。周囲を八本の石柱が取り囲んでいる。柱にはそれぞれ異なる紋様が刻まれていた。


 チクワが井戸の縁に飛び乗り、中を覗き込んだ。猫は一度鳴いて、ルカを見た。


 ルカも井戸の縁に手をかけ、中を覗いた。


 水があった。深い。底は見えない。だが水面に——何かが映っている。


 村の姿だった。だが白黒ではない。色がある。


 水面に映る夕霧村には、赤い屋根があり、緑の木々があり、青い空があった。人々が行き交っている。井戸端で笑う女性たち。畑から戻る男たち。走り回る子供たち。収穫祭の準備をしている。すべてに色があり、音があり、生命がある。


 失われた記憶が、井戸の底に沈んでいる。


「これが……彼らの記憶」


 蓮が横から覗き込んだ。水面の映像を見て、息を詰めた。


「祖父が探していたものは、これだったのか」


 蓮は井戸の縁を手で撫でた。そして、指が何かに触れた。石に刻まれた文字。


「これは——」


 風化した文字。だが読める。几帳面な字。蓮の手が震えた。


「祖父の……字です」


 刻まれていたのは短い文だった。


『ここに記憶あり。取り出すには、巫女の写祓が要る。——風見柊介』


 その下に、日付。七年前。


「祖父は、ここまで来ていた」


 蓮の声がかすれた。眼鏡を外し、目を拭った。科学者ではなく、祖父を失った孫の顔だった。


「来て……答えを見つけて……でも帰れなかった」


 ルカは蓮の肩に手を置いた。何も言わなかった。言葉より、手の温もりの方が今は必要だと思った。


 しばらくして、蓮は眼鏡をかけ直した。


「ルカさん、祖父の字が残っているということは——この場所では記憶が消えない。刻んだものは残る。写したものも残るかもしれない」


「写祓」


「そうです。祖父は巫女の写祓が必要だと書いている。あなたの力が、この村の記憶を取り戻す鍵なんだ」


 ルカは井戸を見つめた。水面の映像がゆっくりと変わっていく。季節が移り変わるように。春の桜。夏の祭り。秋の収穫。冬の雪。七年分の記憶が、水の底で生き続けている。


「どうすればいい?」


 クロミカゲの声が答えた。今度は少し鮮明だった。この井戸のそばでは、写し世との接続が強い。


「井戸の底に降りる必要はない。水面に向かって写祓を行え。魂写機で、水面に映る記憶を撮影する。それが記憶を定着させ——現世に引き戻す最初の一歩になる」


「でも、欠片はもうない」


「欠片は不要だ。お前自身が——影写りの巫女が——媒介になる」


 ルカはカメラバッグを下ろした。魂写機を取り出す。乾板をセットする。手順はいつもと同じ。だが相手が違う。一人の魂ではなく、村まるごとの記憶。


「一度にはできない」クロミカゲが言った。「一枚の写真に、一つの記憶。何度も撮る必要がある」


「何枚くらい」


「村の人口分。百人以上」


 蓮が口を開いた。


「僕が手伝います。乾板の準備と現像は僕にもできます」


「現像液の調合は——」


「祖父のノートに橋爪家の調合法が記されていました。完全ではないかもしれませんが」


 ルカは蓮を見た。蓮は真剣な顔をしていた。科学者ではなく、助手として。祖父が辿り着けなかった場所で、祖父が見つけた答えを、別の方法で実現しようとしている。


「……ありがとう」


「お礼はすべて終わってからで」


 蓮は少しだけ笑った。


 ルカは魂写機を井戸の縁に据えた。ファインダーを覗く。水面に映る村の景色。色のある、生きた記憶。


 最初の一枚を、何にするか。


 水面の映像が変わった。一人の老人が映っている。井戸端に座り、子供たちに何かを語っている。笑顔。その笑顔には、この村のすべてが詰まっているように見えた。


「この人から始めよう」


 ルカは深呼吸した。


 ファインダーの中で、老人がルカを見上げた。水面の向こうから、こちらを見ている。何かを言おうとしている。口が動いた。


 ——忘れないでくれ。


 ルカは指をシャッターにかけた。


 チクワが井戸の縁で、静かに見守っていた。

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