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第30話 凍結された日常

 井戸に向かう前に、ルカは村の中を歩くことにした。


 家々の引き戸は閉まっている。だが鍵はかかっていない。指をかけると、乾いた木が軋んで開く。七年間、誰も触れなかった建具の感触。


 最初の家。玄関に並んだ靴。大人が二足、子供が一足。泥がついたまま乾いている。七年前の泥。三和土の上に薄く埃が積もっているが、不思議と量が少ない。この村では埃すら色を失い、存在が希薄になっているのかもしれない。


 茶の間に上がった。卓袱台の上に茶碗が三つ。箸が三膳。朝食の途中で止まっている。味噌汁の碗の中は空だが、底にうっすらと出汁の跡が残っていた。壁に掛かった時計。針は——七時四十二分。


 ルカの呼吸が止まった。


「蓮さん」


「はい」


「あの時計。何時を指してる」


 蓮が見上げた。「七時四十二分……あ」


 封印の時刻。この村のすべての時計が、あの瞬間で止まっている。


 次の家。老夫婦の家らしい。布団が敷きっぱなしで、枕元に眼鏡が置いてある。壁には写真が飾られている——白黒の中で、写真だけがかすかに色を帯びていた。セピアに近い淡い色。家族写真。三世代が笑っている。


 ルカが写真に触れると、声が聞こえた。


「今年の稲は出来がいいねえ」


 断片的な残響。名前のない声。顔も名前も失われているのに、感情だけが壁に染みついていた。温かい声だった。この家は、幸せだったのだ。


 別の家。若い夫婦の家。台所に食器が積まれ、流しに水がない。冷蔵庫の扉が半開きで、中は空っぽだった。壁に子供の絵が貼ってある。灰色のクレヨンで——いや、もともとは色があったはずだ。赤や青や黄色で描かれていたはずの絵が、灰色になっている。


 この家の気配は違った。温かくない。張り詰めている。何かを待っている気配。まだ帰ってきていない人を、待ち続けている家。


「この家は……怒っている」


 蓮が呟いた。装置を見ている。


「怒っている?」


「数値が他の家と違います。波動が鋭い。穏やかじゃない」


 ルカは台所の壁に手を当てた。冷たい。他の家より冷たい。


「この家の人は、奪われたことに気づいていたのかもしれない。他の人たちは何も分からないまま村を出た。でもこの家の人だけは——」


「抵抗した?」


「分からない。でも、怒りが残っている」


 蓮はノートに書き込んだ。「家屋ごとに残留する気配が異なる。穏やかな家、怒りの家、悲しみの家。忘却は均一ではない」


 二人は村を歩き続けた。学校の跡。黒板にチョークの字が残っている。「きょうのもくひょう」。その下に子供の字で何かが書いてあったらしいが、文字が消えている。チョークの粉だけが白く残っていた。


 神社の跡。小さな祠。鳥居は半分崩れている。賽銭箱の中に、七年前の五円玉が一枚。


 祠の向こうに、石造りの塔の残骸があった。時計塔だったらしい。文字盤は割れ、針は失われ、石の胴体だけが灰色の空に突き出している。蓮が装置を向けると、針が大きく振れた。「この塔、異常な数値です。記憶の密度が他の建物の倍以上ある」。何の記憶が詰まっているのかは、ルカにも分からなかった。


「ここにも写真が」


 蓮が祠の裏側を指した。壁に、古い奉納写真が貼られている。村の祭りの写真。白黒の中で、この写真だけがわずかに色を保っていた。


「写真は想いの定着媒体だから、色を保つのか……」


 蓮は写真を覗き込み、目を見開いた。


「この写真。撮影者の名前が——『橋爪チヨ』」


 ルカの心臓が跳ねた。


 チヨはこの村に来ていた。封印の前に。この村の祭りを撮っていた。この村と、姉は繋がっていた。


        *


 日が暮れた。


 白黒の村に夜が来ると、変化が起きた。風鈴の音が増えた。一つだったのが、二つ、三つ。四方から聞こえてくる。夜の村は昼より「生きている」。月の光が写し世の力を引き出しているのだろう。


 蓮が焚き火を起こした。枯れ木を集め、マッチで火をつける。炎が立ち上がった瞬間——二人は息を呑んだ。


 炎だけが、色を持っていた。


 白黒の世界の中で、焚き火の橙色だけが鮮烈に浮かんでいる。赤。橙。黄。炎の色彩がゆらめき、灰色の家々の壁を橙に染めている。影が踊る。色のある影。


「きれい……」


 ルカは火を見つめた。色があるということが、こんなに美しいとは知らなかった。普段は当たり前に見ている赤や青や緑が、ここでは贅沢品だった。炎の色に照らされた蓮の顔は、ここに来て初めて「生きている人間の顔」に見えた。


「怖くないの」


 ルカが聞いた。


「怖いです」蓮は火に手をかざしながら答えた。「でも、祖父が最後に見た世界を見ていると思うと——怖さより、近さを感じます」


 火の粉が舞い上がり、白黒の空に消えていく。橙色の点が灰色の闇に溶ける瞬間、一瞬だけ空に色が戻った。すぐに消えたが。


「蓮さんは、おじいさまのことが好きだったのね」


「ええ。尊敬していました。でも、今は——」蓮は言葉を探した。「今は、理解したいんです。祖父が最後に見つけたものを」


 チクワが二人の間に座り、火を見つめていた。猫の瞳に炎が映っている。金色の目に、橙色の火。この猫の目だけは、どこにいても色を失わない。


 風鈴がまた鳴った。夜風に乗って、遠くから——声が聞こえた。


 笑い声ではなかった。囁き。


「帰りたい」


 風の音かもしれない。だが耳を澄ませると、別の声も混ざっている。


「思い出したい」「ここはどこだったか」「名前を——名前がない——」


 村の底から染み出してくる声。名前のない声。顔もない声。記憶を奪われた人々の残響が、夜の空気に溶けている。意志を持ちかけている。姿はない。言葉も断片だけ。だが確かに、この村はまだ生きようとしている。


「明日、井戸で写祓を始めます」


 ルカは火を見つめたまま言った。


「手伝います」


「ありがとう」


 焚き火が小さくなっていく。炎が消えれば、この村はまた白黒に戻る。色は火の中にしかない。——いや、写真の中にもある。そしてこれから、ルカが撮る写真の中にも。


 目を閉じた。明日のことを考えた。井戸の水面に向かって魂写機を構える自分の姿が、瞼の裏に浮かんだ。

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