第29話 色のない村
出発の前夜、ルカは影写りの粉の袋を開けた。
残りが少ない。地下鉄で自分の足元に撒いた分だけ、確実に減っている。桜色の絹袋の底に、銀色の粉が薄く残っている。指先で量る。一つまみ、二つまみ——三回分あるかどうか。夕霧村の入口を開くのに一回。あと二回。百人以上の村人の記憶を取り戻すのに、二回分の粉で足りるのか。
足りなくても、行くしかない。
三日間、北へ歩いた。
久遠木を出て、山を越え、谷を渡り、また山を越えた。蓮の祖父の地図が頼りだった。古い地図には赤ペンで「夕霧村」と記され、その横に走り書き——「霧の密度異常。記憶の沈殿層」。
一日目。県道を外れ、獣道に入った。道幅が人一人分しかない。両側から笹が迫り、露が袖を濡らす。蓮が先頭で地図を読み、ルカが後を歩く。チクワはどちらの足元にもつかず、二人の間の茂みを好んで歩いた。
昼食は蓮が持ってきたおにぎり。山の中腹の岩の上に座り、二人で食べた。蓮のおにぎりは塩が強い。「登山のときは塩分を多めに」と祖父に教わったのだそうだ。ルカは黙って二つ食べた。唐辛子の煮込みが恋しくなった。
——だが、悪くなかった。誰かが握ったおにぎりを食べるのは、いつ以来だろう。自分で作るものは、味が分かっているから驚きがない。蓮のおにぎりは塩が強い。その予想外の塩辛さが、舌の上で「他人の味」として存在していた。他人と食事をするとは、こういうことだった。
二日目。尾根を越えたところで、景色が変わった。木々の種類が違う。久遠木周辺の杉や檜ではなく、楢や栗の落葉樹林。光の入り方が変わり、森の匂いが甘くなった。蓮の装置が反応し始めた。「数値が上がっています。まだ遠いですが、方向は合っている」
夜は山小屋で眠った。二つの寝袋を並べ、チクワが間に座る。蓮は眠る前にノートに一日の記録をつけた。気温、湿度、風向、歩行距離。その横に、小さな字で何か書いている。ルカは覗かなかった。覗きたくなかったわけではない。蓮が自分だけの言葉を書いている時間を、邪魔したくなかった。
三日目の朝。霧が違った。これまでの霧は白か青だったが、今朝の霧は——灰色だった。色を失った霧。
道中、ルカはほとんど話さなかった。蓮も無理に会話を求めなかった。チクワだけが二人の間を行き来し、時折立ち止まっては北の方角を見つめた。
クロがいない。それが三日間、ずっと体の中にあった。隣に誰かがいたはずの空間が、空いたまま埋まらない。蓮がいてくれることは助かる。だが蓮はクロではない。当たり前のことが、こんなに痛い。旅の間、ルカは何度も左側を見た。半歩前に誰かがいる気がして。いない。そのたびに、胸の中の空洞がほんの少しだけ広がる。
三日目の夕方、蓮が足を止めた。
「地図ではこの辺りのはずですが……何もない」
蓮は装置を叩いた。針が振れない。地図を回し、方位を確かめ、もう一度前方を見た。何もない。三日間歩いてきた先に、何もない。
「座標は合っています。間違いない。祖父の記録では——ここに村がある」
だが目の前にあるのは荒れた野原だけだった。石垣の残骸がわずかに見える。それ以外は草と土。風が吹いている。冷たい風。
沈黙が落ちた。チクワが蓮の足元に座り、前方をじっと見つめている。猫は何かを見ている。蓮とルカには見えないものを。
ルカは目を細めた。目の奥で、何かが動いた。光が——青い光が、視界の縁をかすめた。廃教会で、祭りの夜に、何度か起きた現象。見えないものが見えかける瞬間。
「蓮さん、装置を出して」
「え?」
「この場所の数値を測って」
蓮は装置を取り出した。針が大きく振れた。
「異常値です。目には見えませんが、この場所は濃い霧に包まれている。祖父の記録と一致します」
ルカは影写りの粉を取り出した。残りはわずかだった。桜色の絹袋の底に、銀色の粉が薄く残っている。掌に載せると、粉が体温に反応してほのかに光った。姉が作った粉。姉の手が、七年前にこの粉を練り、乾かし、袋に詰めた。
前方に向かって撒いた。
粉が風に乗って広がった瞬間——世界が、変わった。
変わり方は一瞬ではなかった。粉が空気に触れた場所から、波紋のように。最初に変わったのは地面だった。草と土だった場所に、石畳の模様が浮かび上がる。次に左右。空気の密度が変わり、何もなかった場所に壁の影が立ち上がる。そして上。空が——灰色に変わった。
荒れ地が消えた。
代わりに、村があった。
古い家々が並んでいる。道路、井戸、広場、崩れかけた神社。すべてが存在している。だが——色がない。白と黒と灰色だけの世界。モノクロ写真の中に入り込んだような景色。空も、屋根も、木々も、すべてが灰色の階調で描かれている。
音も薄い。風が吹いているはずなのに、音が遠い。自分の足音すら、綿に包まれたように鈍い。匂いもない。土の匂いも、草の匂いも、何もない。
感覚が剥がされた世界。忘れるとは、こういうことなのかもしれない。色が消え、音が遠ざかり、匂いが薄れる。世界から意味が抜け落ちる。
「見えます……」蓮が囁いた。「村が」
彼の顔は蒼白だった。科学者の目が、説明できないものを見ている。装置の針は振り切れ、もう動いていない。
「人は?」
「いない。ここにあるのは村の……殻だけだ」
クロミカゲの声が、風のように届いた。姿は見えない。だが声だけが、写し世の気配が強いこの場所で、かろうじて聞こえる。
「七年前、姉が封印したとき、村の想いごと写し世に閉じ込めた。住民たちは記憶を失い、各地に分散移住させられた。ここに残ったのは、想いだけの村だ」
ルカは村の中を歩き始めた。チクワが先を行く。猫は迷わない。まるでこの村を知っているかのように、路地を抜け、角を曲がる。
家々の窓は閉ざされている。中を覗くと、生活の痕跡が凍結されている。茶碗が並んだ食卓。壁に掛かった時計(針は止まっている)。畳の上に置かれた座布団。人がいなくなった瞬間のまま、七年間止まっている。
郵便局の前を通った。赤いポストが灰色に色褪せている。投函口に手紙が一通、挟まったまま残っていた。配達されなかった手紙。宛先の墨が滲んで読めないが、封の裏に押し花が一枚、茶色く変色しながらも形を保っている。
ルカは手紙に触れなかった。触れてはいけない気がした。この手紙には、誰かの想いが詰まっている。届かなかった想いが。この村では——届かなかった想いが、建物の中で七年間待ち続けている。
ただし、すべてが白黒だった。色がない。赤い座布団も、緑の茶碗も、すべてが灰色の濃淡でしか見えない。
「記憶が色を持っていたのに、その色が抜かれている」
ルカは呟いた。
「色は感情の記録なんだ」クロミカゲの声。「感情が消えれば、色も消える」
遠くから、かすかに風鈴の音が聞こえた。この白黒の世界で唯一の音。どこかの軒先に、まだ風鈴が残っている。風が吹くたびに、チリン、と鳴る。それだけが、この村がかつて生きていた証だった。




