第28話 新しい旅
現像室を出ると、写真館の廊下に光が差していた。午前の光。埃が光の中を舞い、きらきらと輝いている。
ふと、空気が変わった。
「ルカ」
声が聞こえた。一つの声。二つの音色。
振り返ると、廊下の奥にクロミカゲが立っていた。半透明。朝の光が体を通り抜けている。青白い髪、狐の耳。右目に青い紋様、左目に金色の光。昨夜と同じ姿だが、より薄い。
「長くはいられない」
「分かってる」
「写真を見たな」
「ええ。チヨとクロが、並んで写っていた」
クロミカゲの表情が、わずかに揺れた。二つの感情が交差したように。
「あの写真は……二人がまだ別々だった頃の記憶だ。封印の前。チヨは狐神の存在を知っていた。恐れながらも、対話しようとした。その結果が——」
「あなた」
「ああ。私だ」
沈黙が落ちた。廊下の光の中で、クロミカゲの輪郭がさらに薄くなっていく。
「一つ、伝えておきたいことがある」
「何」
「手紙の続き。チヨが書こうとした言葉」
ルカの心臓が跳ねた。
「彼女はこう書きたかった——『クロのことです。彼は私の一部であり、あなたを導く者です。どうか憎まないでください。彼もまた、失い続けてきた存在なのです』」
ルカの目が熱くなった。だが泣かなかった。もう十分に泣いた。代わりに、頷いた。
「憎んでない」
「知っている」
クロミカゲが微笑んだ。チヨの笑顔とクロの笑顔が重なった、見たことのない表情。
「次に会えるのは」
「月の夜。奥宮で。あるいは——」
「写真の中に」
「そうだ」
クロミカゲの姿が完全に透けた。光の中に溶けるように消えていく。最後に見えたのは、金色の左目だけだった。それもすぐに消えた。
廊下には、ルカだけが立っていた。
朝の光が窓から差し込み、廊下の板張りに四角い光の枠を落としている。埃が光の中を舞っている。クロミカゲがいた場所には何も残っていない。足跡も、温度も、匂いも。写し世の存在は、現世に痕跡を残さない。
だが——声は残っている。「どうか憎まないでください。彼もまた、失い続けてきた存在なのです」。チヨの言葉が、クロミカゲの声で。二人分の想いが、一つの文の中に。
ルカは廊下の壁に背をつけた。目を閉じた。光が瞼を透かして赤く見える。
失ったものを数えた。声の記憶。願いの記憶。時間の記憶。真実の記憶。影の記憶。五つの代償。何を失ったのか正確には分からないものもある。だが、得たものも数えられる。姉の名前。クロの笑顔。蓮のコーヒー。夕霧村の風鈴。井戸の水面に映る色のある世界。
差し引きは——まだ合わない。合わなくていい。帳簿は閉じなくていい。開いたまま、書き足していけばいい。
*
客間に戻ると、蓮が地図を広げていた。
「ルカさん、少し話があるんですが」
「何?」
「祖父のノートに、もう一つ気になる記述がありました」
蓮は古いノートのページを開いた。風見柊介の几帳面な字。
「『霧梁県北部、夕霧村。封印以後、住民の記憶に異常。調査を要す』——日付は、封印の三日後です」
「夕霧村……」
「祖父はこの村を調査しようとしていたようです。だが、この記述の後、ノートに空白のページが続いて——次に書かれているのは、まったく別の話題です。まるでこの村のことを忘れたかのように」
蓮の目が鋭くなった。
「祖父も、記憶を奪われたんじゃないかと思うんです」
ルカは窓の外を見た。北の山々が霞んでいる。その向こうに、地図にない村がある。チヨの封印の代償で記憶を失った村。
「行くべきかしら」
「僕はそう思います。祖父が見つけようとして——見つけられなかったものが、そこにあるかもしれない」
チクワがテーブルに飛び乗り、地図の上に座った。蓮が慌てて地図を引き出そうとしたが、猫は動かない。北を向いて、じっとしている。
「チクワも賛成みたい」
「猫に聞いたんですか」
「この子は、ただの猫じゃないから」
ルカは立ち上がった。鞄の準備を始める。カメラ。フィルム。現像液。懐中時計。影写りの粉の残り。
欠片はもうない。奥宮に返した。力はない。あるのは自分の目と、カメラと、少しだけ目覚めた巫女の力。
「蓮さん」
「はい」
「一緒に来てくれる?」
「もちろんです」
蓮は即答した。ノートと装置を鞄に入れ、地図を折りたたむ。
「祖父が辿り着けなかった場所に、僕は行きたい。科学者としてではなく——記録者として」
二人は写真館を出た。朝の光の中、久遠木の町が広がっている。人々が日常を営んでいる。昨夜のことを、誰も覚えていない。
ルカは一度だけ振り返った。写真館の二階の窓——かつてクロが立っていた場所。誰もいない。窓にはルカ自身の姿が薄く映っているだけだった。
前を向いた。北へ。夕霧村へ。
チクワが先を歩き始めた。猫は迷わなかった。




