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第27話 クロのいない朝

 朝、目が覚めて最初に感じたのは、不在だった。


 窓辺に誰もいない。廊下に足音がない。写真館の空気が、昨日までと違う。欠けている。半歩前を歩く人影が、もうどこにもない。


 ルカはしばらく布団の中で天井を見つめていた。昨夜のことを反芻する。奥宮。九枚の鏡。クロが面を外した。


 ルカの視線が、クロの首筋に止まった。白い痣がある。一箇所だけ、毛が生えていないような、色が抜けたような痕跡。月光の下で、青く鈍く発光して見えた。


「それ——噛み跡?」


「千年前の少女に噛まれた跡だ」


 クロはそれ以上は説明しなかった。ただ、首筋の痣に、指を当てた。今夜も疼いているのだ。その仕草が——とても人間らしかった。チヨの目を持つ男の顔。告白。融合。光が弾けて、二つの輪郭が一つになって——クロミカゲが生まれた。そしてクロミカゲの姿が薄くなり、鏡の中に消えていった。


 クロはもういない。


 起き上がり、階段を降りた。客間のテーブルに蓮が座っていた。苦い香りが漂っている。


 蓮の姿を見て、ルカは初めて気づいた。この男は昨夜から一睡もしていない。目の下に隈があり、ノートの上にペンを置いたまま、カップを手で包んでいた。手が硬くなっている。寒いからではない。昨夜の奥宮で見たものを、まだ処理できていないのだ。科学者の頭が、科学で説明できないものを受け入れようとして、軋んでいる。


 蓮はルカを見ると、少し笑った。ルカに心配させまいとする笑顔だった。


「おはようございます。コーヒー、淹れました」


 カップを渡す手が滑った。中身がテーブルに跳ね、蓮のノートの端が茶色く染まった。


「あ——」


 蓮が慌ててノートを持ち上げた。スケッチの一枚に、コーヒーの染みが丸く広がっていく。昨夜の記録の端が滲んでいる。


 二人とも、広がっていく染みを黙って見ていた。茶色い円がゆっくりと紙の繊維に沈み込んでいく。クロミカゲ誕生の瞬間のスケッチに、染みが重なった。輪郭が少し滲んだ。でも、消えてはいない。


「……ありがとう」


 二人分のカップ。昨日までは三つ並んでいた。蓮はそれに触れなかった。ルカも触れなかった。


 三つ目のカップは棚にしまわれている。洗って、乾かして、棚の奥に。使う人がいないカップ。だがルカは捨てなかった。捨てる理由がない。——いや、捨てたくなかった。棚の扉を閉めるとき、ルカはいつも少しだけ隙間を残した。理由は分からない。——いや、捨てたくなかった。三つ目のカップがあることが、クロがここにいた証拠だった。面をつけた男がこのテーブルの横に立ち、コーヒーに手をつけず、窓の外を見ていた。その姿が、もうない。


 ルカは立ち上がり、窓辺の椅子に歩み寄った。座面に薄く埃が積もっている。手を伸ばして払おうとした。——途中で止めた。なぜ払おうとしたのか、自分でも分からなかった。椅子に座る人はいないのに。手を下ろし、テーブルに戻った。


 チクワが足元に来て、ルカの足首に額を押しつけた。猫はクロがいた場所——窓辺の椅子——を一度だけ見て、それから目を逸らした。


「町の人たちは、何も覚えていないみたいです」


 蓮がカップを啜りながら言った。


「祭りの光のことも、奥宮のことも。僕のノートだけが記録を保っています」


「あなたの記憶は残っている?」


「ええ。影写りの粉の効果なのか、それとも——僕自身が変わったのか。分かりませんが」


 蓮はノートを開いた。昨夜の出来事が、丁寧な字で記録されている。クロミカゲ誕生の瞬間のスケッチもあった。二つの輪郭が重なる様子が、数枚の連続した絵で描かれている。スケッチの線が途中から乱れていた。描いている手が定まらなかったのだ。だが最後の一枚——クロミカゲが完全に形を成した瞬間の絵——だけは、線が安定していた。震えが止まった瞬間があったのだ。恐怖を超えた場所で、蓮の手は科学者の手に戻っていた。


「科学者として記録しました。でも正直に言うと——」蓮は眼鏡を直した。「——これを論文にする気はありません。これは記録であって、論文ではない」


「なぜ」


「証明する相手がいないからです。これは僕たちだけが知っていればいい」


 その言葉に、ルカは少し驚いた。祖父の研究を継ぎ、科学で見えない世界を証明しようとしていた蓮が、それを手放した。


「祖父は証明しようとして、最後まで誰にも信じてもらえなかった」蓮は窓の外を見た。「でも僕は——信じてくれる人がいる。それだけで十分です」


「……スケッチ、後で見せてくれない?」


 蓮はすぐには答えなかった。朝の光が月見窓から差し込み、二人の間に浮かぶ埃をゆっくりと照らしていた。埃の粒子が光の中で回っている。現像液の匂いがする。いつもの匂い。いつもの朝。だが、今朝だけ少し違う。


 蓮の耳が赤くなった。


「恥ずかしいな。あれは記録であって、絵としては……」


「記録でいいの。あなたが見たものを、私も見たい」


 蓮はしばらくカップを回してから、小さく頷いた。


「祖父は測ることで世界を知ろうとした。僕も最初はそうだった。でも——今は違います」


「何が変わったの」


「撮ることで世界に触れるあなたを見ていて、記録の意味が変わった。測定じゃなく——証言がしたいんです。あなたがここにいたことの」


 蓮はそれ以上言わなかった。だがスケッチブックを閉じるとき、表紙の祖父のイニシャルに一瞬だけ指を触れた。祖父が測り続けた世界を、孫は別の方法で記録しようとしている。数式ではなく、隣にいた人間の姿として。眼鏡の奥の目が、窓の外を見ている。何かを見ているのではなく——何かを決めた目だった。ルカは何も言わず、コーヒーを飲んだ。苦い。蓮の淹れるコーヒーは、いつも少し濃い。


        *


 朝食の後、ルカは現像室に入った。


 一人で。


「くらやみ」の扉を開ける。薬品と古い木の匂い。八枚の鏡。月見窓から差し込む朝の光。すべてがいつも通りだった。だが——クロの気配がない。これまで現像室に入るとき、クロは必ず廊下で待っていた。入らないが、そばにいた。扉の隙間から、かすかにコートの布擦れの音が聞こえていた。あるいは、面の下の呼吸が。


 今日は、誰もいない。扉の向こうは空の廊下。ルカの靴音と、自分の呼吸だけが現像室を満たしていた。護符の端がめくれる音さえしない。クロが廊下にいた頃は、彼の存在が空気を揺らし、護符の端が微かに震えていた。今は完全に静止している。何も動いていない部屋。


 朝の光が月見窓から入り、八枚の鏡に反射して部屋の中に光の筋を描いている。夜の写祓のときとは違う光。穏やかで、温かい。護符の朱色が朝日に照らされて鮮やかに見えた。昼の現像室は、夜とはまるで別の場所だった。怖さがない。代わりに、静けさがある。寺の内陣に似た静けさ。


 ルカは祭りの夜に現像した写真を取り出した。和紙の封筒に入れてある。封筒を開けると、現像液の残り香がした。中の乾板を光に透かした。


 チヨが写っていた。あの夜と同じ。白い小袖に緋の袴、手を広げて笑う姿。町民たちの間に、鮮明に。乾板のガラス越しに見る姉の姿は、月見窓の光を透かして青みがかっている。写し世の存在が写真に写ると、銀塩の粒子がわずかに青方向にずれる。それが姉の姿に、現世の人々とは異なる質感を与えていた。そこにいるのに、ここにはいない。写真の中だけに存在する姉。


 だが——今朝、改めて見ると、気づいたことがあった。


 チヨの隣に、もう一つの影がある。


 昨夜は見えなかった。あるいは、見えていたのに認識できなかった。クロの姿だ。面をつけた長身の影が、チヨの横に立っている。二人は並んでいる。チヨが笑い、クロが——面の下で——何かの表情をしている。面の輪郭がわずかに歪んでいる。笑っているのかもしれない。面をつけたまま笑う人間の顔は、面だけが無表情に残り、顔の下半分が歪む。その不均衡が、クロの感情を裏切っていた。


 二人は、最初から一つだったのだ。


 ルカは乾板を長い間見つめていた。姉と、姉の中にいた存在。それが並んで写真に写っている。封印の前、この二人はどんな関係だったのだろう。チヨはクロをどう思っていたのだろう。クロは——狐神の半身は——チヨをどう見ていたのだろう。


 手紙の最後の一文が浮かんだ。「クロのことです。彼は——」。姉が書こうとして、涙で書けなくなった言葉。


 彼は、私の一部だった。


 あるいは。


 彼を、愛していた。


 答えは分からない。チヨにしか分からない。だが写真の中の二つの影は、確かに隣に立っていた。互いの存在を知っている者同士の、自然な距離で。


 ルカは写真を封筒に戻し、引き出しにしまった。


 現像室の壁の鏡を見た。自分の顔が映っている。目が——一瞬だけ、青く光った。蓮が言っていた「影写りの巫女の証」。チヨにもあった変化。


 ルカは鏡から目を逸らさなかった。青い光はすぐに消えたが、今度は怖くなかった。

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