第26話 狐神の契約
「手紙の最後の一文」ルカが言った。「『クロのことです。彼は——』。姉は何を書こうとしていた?」
クロは目を閉じた。チヨの目が閉じられると、金色の左目だけが残り、それは狐の目のように鋭く光った。
「俺が——お前を利用していたということを」
蓮のペンが止まった。
「最初から、目的は封印を解くことだった。彼女と再び一つになるために。欠片を集めるには橋爪の血が必要で、俺自身では代償を払えない。だから——お前を導いた」
ルカは動かなかった。知っていた。完全にではないが、薄々感じていた。クロの焦り。欠片への執着。姉の名を口にするときの声の震え。
「でも」クロは目を開けた。二つの異なる色の目が、ルカを見た。「旅を続けるうちに、変わった」
「何が」
「お前が——大切なものを手放しながら、それでも前に進む姿を見た。代償を払い続けても止まらない。温泉で声を失い、遊園地で願いを失い、観測所で時間を失い、教会で真実を失い、地下鉄で影を失った。それでも立ち上がって、次の場所に向かった」
クロの声がかすれた。面のない顔が、初めて人間のように歪んだ。
「お前の姿を見て——思い出したんだ。姉が封印を選んだ理由を。チヨは守りたかったんだ。お前を。この町を。誰かのために何かを失うことを、恐れなかった」
鏡に映るクロの横顔に、涙の筋が見えた。狐の金色の目から流れる涙は、青い光を帯びていた。
「チヨは、お前を守るために消えた。俺は——お前を利用して彼女を取り戻そうとした。正反対だ」
クロは自分の手を見下ろした。
「地下鉄で、お前の影が動いただろう。あれは俺だ。俺の中の——封印を守ろうとする意志が、お前に警告を出していた。利用しておきながら、同時に守ろうとする。矛盾した存在だ、俺は。彼女の愛とクロの欲が、同じ体の中で引き裂かれていた」
神殿の鏡が震えた。五つの欠片の光が強まり、台の上で渦を巻き始めた。
「だから、提案がある」
クロは台の前に立ち、ルカに向き直った。面のない顔。チヨの目と狐の目。
「チヨの手紙には二つの選択肢があった。封印を強化するか、解くか。だが——もう一つある」
「もう一つ?」
「俺とチヨが、一つになる」
ルカは息を呑んだ。
「二つに割れた意識を、元に戻す。狐神として。だが——暴走しない狐神として。彼女の意志と、俺がこの旅で学んだものを持って。新たな契約を、お前と結ぶ」
「あなたは——消えるの?」
「クロという個は、消える。チヨという個も、消える。二つが一つになった、新しい存在が生まれる」
蓮が口を開いた。
「それは……死ぬということですか」
「死ではない」クロは蓮を見た。金色の目が蓮の祖父に似ていた——理解しようとする目。「変容だ。だが——クロとして、チヨとして、個別に存在することは二度とない」
ルカは手紙を握りしめた。姉が書こうとした言葉。「彼は——お前を利用していた」。だが、その後に続くはずだった言葉も、ルカには分かった。姉なら、こう書いただろう。
——でも、彼を憎まないで。
「代償は何」
「欠片を、奥宮に返す。集めた力を手放す。お前の中で変化した力——影写りの巫女の力は残る。だが欠片そのものは、融合の触媒として消える」
「それだけ?」
「それだけだ。ただし——」
クロの声がかすれた。
「——俺はもう、お前の隣を歩けなくなる」
ルカの涙が落ちた。
誰も口を開かなかった。鏡が青い光を反射し続けている。チクワがクロの足元で、小さく鳴いた。
ルカは涙を拭わず、立ち上がった。
「封印を強化すれば、姉は永遠にあのまま。封印を解けば、町が壊れる」
自分の声を聞いていた。震えてはいない。
「でも融合すれば——クロもチヨも、個としては消える。それは……嫌だ」
クロが目を見開いた。
「だけど」ルカは続けた。「二人が欠けたまま苦しむのも見ていられない。だから——私が選ぶ。融合を受け入れる」
手紙を胸に押し当てた。
「その代わり、一つだけ約束して。クロとしてのあなたと、チヨとしてのあなたが別々だった時間——私はそれを覚えている。写真に残す。残す限り、あなたたちは消えない」
クロは微笑んだ。チヨの目が細くなり、金色の目が柔らかくなった。初めて見る、クロの笑顔だった。
「ありがとう」
クロは一歩、台に向かって踏み出した。そして立ち止まった。振り返らないまま、低い声で言った。
「……楽しかったぞ。旅」
ルカの胸が詰まった。
「お前の淹れる不味い茶も、鼻を突く唐辛子の匂いも……案外、退屈しのぎにはなった」
声がかすれた。クロの声が。面のない顔を、ルカは初めて正面から見ていた。笑っている。泣いているのかもしれない。狐の目から涙が出るのかどうか、ルカは知らない。
「あとの記録は、あの男に任せろ」
蓮を見た。蓮は唇を噛み、頷いた。
クロは台の上の五つの欠片に手を置いた。
光が弾けた。
青白い光が神殿を満たした。音があった。低い唸り。九枚の鏡が同時に振動し、それぞれが異なる音程を発している。九つの音が和音になった。体の芯が震える。骨が共鳴している。
鏡がすべて同じ映像を映した——チヨの笑顔。そして、その顔がゆっくりとクロの顔に重なっていく。二つの輪郭が一つになり、男でも女でもない、人でも狐でもない、新たな形が生まれていく。
温度が変わった。石の台が熱を持ち、足元から冷気が立ちのぼる。熱と冷が同時に。神殿全体が、一つの坩堝になっていた。
匂いも変わった。桜の匂い——チヨの匂い。その下に獣の匂い——毛皮と土と月の夜の匂い。二つが混ざり、新しい匂いになっていく。
ルカは目を逸らさなかった。
光の中で、クロの体が透けていった。チヨの輪郭が浮かび上がり、重なり、溶け合う。声が聞こえた——二つの声が、一つになっていく。
「ルカ」
最後に聞こえた声は、クロでもチヨでもなかった。二つが完全に混ざった、聞いたことのない声。
「覚えていて」
光が収束した。
台の上に、一つの存在が立っていた。
青白い髪。狐の耳。九つの尾の影が、壁にゆらめいている。右目に青い紋様、左目に金色の光。男でも女でもない顔に、姉の優しさとクロの鋭さが共存していた。
「クロ——ミカゲ」
ルカが呟いた。名前が自然と出た。記憶が名前を教えたのか、あるいは存在そのものが名乗ったのか。
「ああ」
クロミカゲが答えた。声は一つ。だがその一つの声に、二つの魂の温もりがあった。
「新たな契約だ、橋爪ルカ。私はこの地の記憶を守る。お前は、夢写師として想いを写し続ける。互いに、境界を保つ」
ルカは頷いた。台の上の欠片は消えていた。五つの結晶は、融合の触媒として使い果たされた。
蓮がスケッチブックを閉じた。描いたものを見せる気はないらしい。だが彼の手はもう震えていなかった。スケッチブックの表紙に、祖父のイニシャルが刻まれている。祖父が使っていたものを、蓮は引き継いでいた。今夜この帳面に、科学者では説明できないものが描かれた。それでも蓮は描いた。見たものを記録する——それだけが、彼にできる仕事だった。
「帰りましょう」ルカが言った。
クロミカゲの姿が薄くなっていった。現世に長く留まれないのだろう。鏡の中に溶けるように、青い光と共に消えていく。
「また会える?」
「奥宮で。月の夜に。あるいは——お前の写真の中に」
最後の光が消え、神殿は暗くなった。天窓から朝の光だけが差し込んでいる。台の上には何もない。鏡は普通の鏡に戻り、ルカの顔を映していた。
ルカの目が、刹那だけ青く光った。蓮がそれを見た。
チクワが鳴いた。一度だけ、短く。
三人は奥宮を出て、山道を下り始めた。クロがいた場所に、誰もいない。半歩前を歩く人影がない。それが——クロの不在が——奇妙なほど重く感じられた。
山の空気が、奥宮の中とは違って温かかった。鳥が鳴いている。木漏れ日が足元に斑模様を作っている。世界は昨日と何も変わっていない。変わったのは、ルカたちだけだった。
蓮が隣を歩いている。沈黙を守っている。その沈黙が、今のルカには何より助かった。何を言えばいいか分からない。クロが消えた——いや、変わった。チヨも消えた——いや、変わった。二人が一つになった。それは喪失なのか、再生なのか。まだ整理がつかない。
山を下りながら、ルカは懐中時計を取り出した。
針は動いていた。秒針が、かちかちと規則的に時を刻んでいる。七時四十三分から、四十四分、四十五分——止まっていた時計が、ゆっくりと正しい時刻に追いついていく。
封印は、解かれたのではなく、変わった。新たな契約に置き換わった。
ルカは時計をポケットにしまい、前を向いた。
写真館が、霧の向こうに見えた。朝の光に照らされて、古い木造の建物が、ほんの少しだけ新しく見えた。
——半歩前が、空いている。
その空白が、こんなに痛いとは思わなかった。クロが面の下で笑ったかもしれない場面を、もう見ることはない。唐辛子の匂いが嫌いじゃないと言った声を、もう聞くことはない。チヨの記憶を持ちながら、チヨとは別の存在として歩いていたあの男は、もういない。代わりに——クロミカゲがいる。新しい存在。新しい契約。それが正しいのか間違っているのかは、まだ分からない。分からなくても、前に歩くしかない。
写真館の扉を開けた。チクワが飛び出してきて、足首に額を押しつけた。




