表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/39

第24話 チヨの手紙

 地上に出ると、夕暮れだった。


 最初に感じたのは風だった。地下にはなかった空気の流れが、顔に当たる。温かい。生きている空気。地上の空気は動いている。草の匂い、土の匂い、夕日に温められた石の匂い。地下の無臭の闇から戻ってきた体が、一つ一つの匂いを過剰に拾い上げる。


 次に光。西の空が燃えている。橙と赤と、その上に薄い紫。地下では懐中電灯の白い光しかなかった。今、空全体が光源になっている。影が長い。自分の影が。普通の影が、普通に伸びている。それだけのことが、ひどく安心した。


 蓮が入口の横に座っていた。装置を抱え、ノートを膝に載せたまま眠りかけていた。ルカの足音で目を覚まし、飛び起きた。頬にノートの跡がついている。何時間もそうしていたのだ。


「戻ってきた——大丈夫ですか」


「ええ」


 ルカは蓮の横に座り込んだ。しばらく何も言えなかった。空が赤い。鳥が鳴いている。地上の音が、不思議なほど鮮明に聞こえた。遠くで犬が吠えている。川の音。風が木の枝を揺らす音。地下にいた数時間が、音のない世界にいた数年のように感じられた。


「欠片は」


「ある」


 掌を開いて見せた。暗い結晶。蓮は覗き込み、装置を向けたが、何も言わなかった。ルカの顔色を見て、それ以上の質問を飲み込んだのだろう。


 クロが近づいてきた。木の幹に寄りかかっていたらしい。


「五つ揃った」


「ああ」


「代償は」


「……分からない。何かを失ったけど、何を失ったかが分からない。ただ——温泉の匂いが、さっきまで懐かしかったのに、もう何も感じない。お湯の温度を覚えているのに、温かかった気持ちだけが消えている」


 願いの欠片。代償は——温もりの記憶。温度そのものではなく、温かいと感じたときの安堵の感情。それが抜け落ちている。


 クロは黙った。その沈黙が、理解を示していた。彼もまた、同じ経験をしたことがあるのだろう。


 三人は写真館に戻った。夕闇が町を包み始めている。写真館の玄関でチクワが待っていた。猫はルカを見ると駆け寄り、足首に額を押しつけた。


 手を洗いながら、ルカは思った。地下鉄で影に飲み込まれかけたとき、自分を救ったのは影写りの粉だった。姉が部屋に残しておいた粉。——姉さんは、私がいつか自分自身に飲み込まれることまで知っていたのだろうか。影写りの巫女が己の影と戦う日が来ることを。それとも、ただ万が一のために残しただけなのか。どちらにしても、姉の手が七年後の今夜、ルカの足元に届いた。過酷なまでの慈愛だった。


 客間のテーブルに、五つの欠片を並べた。声、願い、時、光、影。それぞれが異なる色合いで、微かに明滅している。五つが近づくと共鳴するように光が強まり、テーブルの上に青い影が落ちた。


 ルカは鞄から姉の手紙を取り出した。


 黄ばんだ封筒。表に「ルカへ」。裏に「全部思い出してから読んでね」。桜の押し花が、褪色して茶色くなりながらもまだ形を保っている。封筒を鼻に近づけると、かすかに桜の匂いが残っていた。七年間、姉の部屋の箪笥の底で、この匂いは待っていた。


 手に持つと、封筒が温かい気がした。体温ではない。もっと古い温もり。チヨがこの封筒に手紙を入れ、封をし、桜の花びらを貼ったときの手の温度が、紙の繊維に残っている。


 全部思い出したのか。ルカは自問した。姉の声は取り戻した。姉の存在を知った。部屋に入り、日記を読み、写真を見た。祭りで姉の姿を写した。五つの欠片を集めた。その代わりに五つの何かを失った。


 全部か。分からない。だが、これ以上待つ理由もなかった。


「読むわ」


 クロが窓辺から振り返った。蓮がペンを置いた。チクワがテーブルに飛び乗り、封筒の横に座った。


 ルカは封を切った。


 中から一枚の和紙。チヨの筆跡。桜の匂い。


        *


『愛するルカへ


 この手紙を読んでいるということは、あなたは欠片を集めてくれたのね。ありがとう。そして、ごめんなさい。


 私は明日、封印の儀式を行います。狐神を封じなければ、この町の記憶がすべて消えてしまう。私にはそれを止める力がある。だから、行きます。


 封印には代償があります。私の魂が、狐神と共に閉じ込められます。そして——あなたの記憶から、私は消えます。


 怖いです。消えることが、ではなく、あなたに忘れられることが。


 でも、それがあなたを守る唯一の方法です。封印の力は、近しい者の記憶を最も強く奪います。もし私の記憶があなたの中に残っていたら、封印は不完全になり、狐神はいずれ蘇る。だから、完全に消えなければならない。


 ただ、一つだけ残しました。懐中時計。あの時計は、私の最後の写祓で使ったものです。七時四十二分に針が止まったのは、封印が完成した瞬間です。あなたがあの時計を手放さなかったなら——それは、私の記憶が完全には消えなかった証拠です。体が覚えていたのです。


 ルカ、お願いがあります。


 欠片を集めたあなたには、選択肢があります。


 一つ目。欠片を影向稲荷の奥宮に返し、封印を強化する。私は永遠に封じられたまま。でも、町は安全です。


 二つ目。欠片を使って封印を解く。私は戻れるかもしれない。でも、狐神も解放されます。再び暴走すれば、今度は止められないかもしれない。


 どちらを選んでも、私はあなたを愛しています。


 健司さんに会えたら、伝えてください。待たなくていい、と。でも——きっと、あの人は待つでしょうね。ごめんなさい。健司さんの診療所の机に、フィルムを一本隠してあります。いつか、あなたが届けてくれると信じています。


 一つだけ、伝えておきたいことがあります。クロのことです。


 彼は——』


 手紙は、そこで途切れていた。


 文字が滲んでいる。インクではなく、書いた人の涙の跡だった。最後の一文は途中で終わり、その後の紙は空白だった。


 ルカは手紙を裏返した。


 ——あった。


 裏面の隅に、小さな文字。几帳面な字。「味噌汁の作り方」。昆布十五分。鰹節。豆腐さいの目。味噌甘めに。——辛い方が好きなはずの妹のために、甘めに作る方法。手順だけを、メモのように書き残してあった。


 ルカの胸が震えた。姉は、遺書の隅に、味噌汁の作り方を書き残していた。二十二歳の姉が、十五歳の妹のために。「忘れても、体が覚えていれば大丈夫」——そう信じて。


 だから私は、毎朝二つの椀を出そうとするのか。


 ルカは手紙を持ったまま、動かなかった。


 クロが窓辺に立っている。彼の体がわずかに震えているのが、月明かりの中で見えた。


「クロのこと……何を書こうとしていたの」


 クロは答えなかった。


 長い沈黙。チクワだけが、低く喉を鳴らしていた。


「明日」クロがようやく口を開いた。「奥宮に行く。全てを話す」


 その声は、二つの音色が完全に分離していた。男の声と、女の声。別々の言葉を同時に言っているようにも聞こえた。


 ルカは手紙を胸に押しつけた。桜の匂いがする。姉の匂い。


 ——怒りが来た。


 涙ではなく、怒りだった。手紙を握る手が震えている。


「勝手だよ、姉さん」


 声が出た。自分でも止められなかった。


「勝手に守った気にならないでよ。忘れて生きてる間、私の心にはずっと正体不明の穴が開いてた。何が足りないのか分からないまま、唐辛子で舌を灼いて、感情を殺して、七年間——姉さんを忘れて平気な顔をしてた七年間が、何よりも苦しいの」


 蓮が立ち上がりかけた。クロが手で制した。


「……言わせてやれ」


 ルカは手紙を読み返した。「あなたを守るために」。その一文が、今は刃物のように見えた。守られた側は、知らない間に大切なものを奪われていた。姉の存在を。自分の感情を。金色の瞳を。全部。


 だが——怒りの底に、もう一つの感情があった。


 姉さんは、私を愛していた。だからこそ、こんなに痛い方法を選んだ。


 ルカは手紙を膝の上に置いた。涙が一滴、桜の押し花の上に落ちた。封印を強化するか、解くか。だがその前に——クロの正体を知らなければならない。手紙の最後に書かれるはずだった言葉。「彼は——」の続き。


 五つの欠片がテーブルの上で共鳴し、青い光が部屋を満たしていた。


 その夜、階段の三段目に、クロが座っていた。


 いつも鳴る段だ。ルカが近づくと、クロが珍しく先に口を開いた。


「この三段目は、チヨもよく座っていた」


「……知ってるの」


「俺がここにいると、チヨがよく隣に座った。黙って。二人とも何も言わず、ただ座っていた。あの頃は——」


 クロの声が途切れた。面の下で、何かをこらえている。


 ルカは、クロの隣に座った。三段目が軋んだ。二人とも何も言わなかった。階段の木の冷たさが、袴越しに伝わってくる。遠くで犬が吠えている。近所の柴犬だ。


 しばらくして、クロが立ち上がった。


「明日、奥宮に行く」


「うん」


 クロは階段を上がっていった。足音が三段目を踏まずに飛ばしたのを、ルカは聞いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ