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第23話 影の問い

 見つめている。顔がないのに。目がなくても見ている。それが分かる。影の顔面——あるべき場所——が、ルカの方を向いている。そこに何かの意志がある。冷たい意志。興味ではなく、確認。お前は何者だ、と問うている。


 地下鉄の空気が動いた。ルカの懐中電灯の光が揺れ、影の輪郭も揺れた。だが光と影の動きが一致していない。光が右に揺れたとき、影は左に動いた。独立した存在。光に従わない影。


「あなたは何」


 声が反響した。コンクリートの壁に当たり、何度も戻ってくる。「何」「何」「何」——自分の声が、違う人間の声のように聞こえた。影は答えなかった。だが——動いた。片手を上げ、ルカを指した。長い指。爪のない指。黒い平面が三次元に立ち上がったような、奇妙な質感の手。


 指されたルカの体が、内側から冷えた。影がルカを指すことで、ルカの中の何かが——封じ込めていた何かが——目を覚ましかけた。


 その瞬間、広場全体に映像が走った。壁一面に、影絵のように。


 崩落する天井。逃げ惑う人影。叫び声。昭和の工事現場。安全対策を省いた突貫工事。そして崩落。埋まっていく人々。助けを求める声が、やがて沈黙に変わる。


 この場所で死んだ人々の記憶だった。地上が忘れた記憶。報告書から削除された犠牲者の数。隠蔽された真実が、地下に沈殿していた。


 影がさらに指を伸ばし、柱の上方を示した。


 柱と天井の接合部に、青い光。五つ目の欠片。他の結晶より暗く、内部で何かが渦巻いている。


 ルカは影写りの粉を取り出した。


「最後の欠片」


 粉を撒こうとした瞬間——影が動いた。


 柱から剥がれた影が、床を滑るようにルカに向かってきた。速い。懐中電灯を向けても止まらない。光を突き抜けて。


 影がルカの足に触れた。


 足が動かなくなった。


 縫い付けられている。靴の底が床に張りつく。右手の指が一本ずつ開く。カメラを離そうとしている。自分の意志ではない。


 影が体を乗っ取ろうとしている。


 足。腰。腹。胸。首筋。冷たさが下から這い上がってくる。視界の端が暗い。懐中電灯が弱まっている——違う。影が目を覆い始めている。


「——させない」


 ルカは左手で影写りの粉の袋を掴み、自分の足元に撒いた。銀色の粉が青く光り、影を灼いた。影が悲鳴のような音を立てて足から剥がれる。感電に似た衝撃が全身を突き抜け、ルカは膝をついた。


 足が動く。手がカメラを握っている。自分の体だ。戻った。


 ——やめたい。


 一瞬だけ、その思いが頭を貫いた。結晶を投げ捨てて、階段を駆け上がって、地上に出て、写真館に帰って、鍋に唐辛子を入れて、全部忘れて眠りたい。もう十分だ。四つの代償を払った。四つの何かを失った。これ以上失うものはない——いや、ある。次は何を奪われるのか。分からないことが、一番怖い。


 一瞬だった。呼吸一つ分。次の瞬間には消えていた。消えたのではなく、別のものに置き換わった。姉の声。「引き継いで」。胸の結晶が、微かに温かくなった。


 だが——影写りの粉が減った。袋の中に残っている量が、目に見えて減っている。夕霧村で使う分が足りなくなるかもしれない。


 影は後退したが、消えていない。柱の裏で蠢いている。待っている。


 ルカは立ち上がった。膝の力が抜けかけている。だが手はぶれていない。カメラを構える手だけは、震えない。写祓の鉄則。術者が揺れれば、魂は定着しない。


 粉を撒いた。残りの粉を、惜しまずに。青い光が広場に広がり、壁の映像が鮮明になる。崩落の瞬間。埋まっていく人々の顔が——見えた。一人一人の顔が。名前は分からない。だが確かに、ここにいた。


 粉の光が柱に沿って上昇し、欠片に触れた。


 結晶が柱から離れ、ゆっくりと降りてくる。ルカの掌の高さまで来て、停止した。


 手を伸ばす。


 触れた瞬間——影が動いた。壁に張りついていた自分の影が、剥がれるようにルカに向かってきた。


 影がルカの体に重なった。


 冷たかった。全身が凍るような冷たさ。影の欠片が体に沈み込んでいく。


 ルカの頭の中に、封じていた記憶が噴出した。


 姉が変わっていく姿。夜中に一人で鏡に向かう姉。見えない誰かと会話する姉。怖かった。教会で向き合った真実——だがその真実の記憶自体は既に代償として消えている。消えたはずなのに、影の欠片がそれを一瞬だけ引き戻し、もう一度見せ、そして永遠に消した。


 今度は失ったものの内容ではなく、何かがあったという感覚そのものが消えた。


 教会で何かに向き合ったという事実。それすら薄れていく。「あの教会で何かがあった」——それが「教会に行った」だけになり、やがて教会の印象すら曖昧になる。


 結晶が手の中にあった。暗い。他の欠片より冷たい。内部の渦が、まだ動いている。


 影は消えていた。壁に、ルカの影が普通に映っている。懐中電灯の光が当たる場所に、普通の影が。


 足がふらついた。壁に手をついて、体を支えた。頭の中に穴が開いている。何があったのか分からない穴。これまでの代償は「何を失ったか」が分かった。今回は分からない。何かがあったはずの場所に、何もない。何もなかったかのように。


 ルカは階段に向かって歩き始めた。来た道を戻る。足音の反響は、もう長引かなかった。

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