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第22話 地下鉄の闇

 祭りの翌日、町は静かだった。


 写真館の廊下に、もう一つ止まった時計があった。客間の掛け時計。七時四十二分。居住棟の柱時計と同じ時刻で止まっている。町中の時計が、一つずつ封印の時刻に引き寄せられている。ルカは時計の文字盤を見つめ、それから目を逸らした。


 人々は昨夜の光を覚えていた——まだ。だが会話は曖昧になりつつある。「何か光った気がする」「不思議な夢を見た」。数日後には、それすら消えるだろう。写し世の記憶は、一般の人間からは消える。それが自然の摂理だと、クロは言った。


 蓮のノートだけが、消えずに残っていた。影写りの粉の効果なのか、あるいは彼自身の資質なのか。


「地下鉄建設跡は、久遠木の東にあります」


 蓮が地図を広げた。昭和初期に計画され、事故で中断された地下鉄工事の現場。祖父のノートに「意識の沈殿層」と記された場所。


 三人は午後に出発した。工場地帯の外れに、錆びた鉄格子で塞がれた入口があった。鎖は腐食して、引けば外れた。


 地下への階段が、暗闇の中に続いている。


「ここからは一人で行く」


 ルカが言った。クロを見た。


「入れないんでしょう」


 クロは黙って頷いた。今回は言い訳をしなかった。


「地下には、事故で死んだ人間の想いが沈殿している。何十年分も。俺がそこに入れば——」


 クロの声が低くなった。面の下で、何かを押さえつけている声。


「——全部、吸い込んでしまう。飢えているんだ、俺は。狐神の半身として。記憶を食う。人の想いを食う。チヨと一緒にいたときは、チヨが制御してくれていた。今は——制御する者がいない」


 蓮が息を呑んだ。装置のデータ——「クロの近くでルカの波動が減衰する」——の意味が、ここで繋がった。


「お前の記憶も、少しずつ吸っている。自覚はある。止められない」


 ルカの指が、袖の端を握りしめた。


「……知ってた?」


「蓮の装置が教えてくれた。でも——それより前から、なんとなく。あなたの隣にいると、ときどき頭の中が白くなる瞬間がある」


 クロは面の下で、長く息を吐いた。


「だから半歩前を歩く。近づきすぎないように。——すまない」


 謝罪の声が、初めてクロの口から出た。


 蓮が入口に装置を設置した。


「地上から測定を続けます。何か異常があれば——」


「呼んでも聞こえないと思う」


「……分かっています。でも、記録は残します」


 蓮の手が強張っていた。科学者として送り出す側の無力さ。ルカはその緊張を見て、少しだけ微笑んだ。


「大丈夫。戻ってくるから」


 懐中電灯を一つ。カメラ。影写りの粉。四つの欠片。そしてチヨの手紙。


 ルカは階段を降り始めた。


 背後で、遠くから新聞配達のバイクの音が聞こえた。エンジンの二拍子が朝靄の中を走っていく。日常の音。この地下に何があるかも知らず、今日もバイクは走り、新聞は届く。その普通さが、ルカの背中を押した。帰る場所がある。普通の朝がある。


        *


 暗い。


 懐中電灯の光が届くのは三メートル先まで。それ以外はすべて闇。闇には質感がある。地上の闇は空っぽだが、地下の闇は詰まっている。空気が粘る。壁が近い。天井が低い。自分を包んでいるのが空間ではなく、何かの内臓のように感じる。


 階段を降りるたびに空気が重くなり、湿気が増す。コンクリートと錆と地下水の匂い。それだけではない。土の匂い。何十年も陽の光を浴びていない土の、暗く冷たい匂い。鼻の奥で、その匂いが金属の味に変わる。


 階段が終わり、広い空間に出た。未完成の地下鉄駅。コンクリートの柱が列をなし、部分的に敷かれたレールが闇の奥に続いている。天井から水が滴っている。一滴、二滴。その間隔が不規則で、耳に残る。水滴が落ちるたびに、闇の中に小さな音の波紋が広がっていくのが分かる。音だけの波紋。目には見えないのに、体が感じる。


 足音が反響した。自分の足音。だがその反響が、通常より長く続く。踏み出した音が壁に当たり、戻ってきて、また壁に当たる。何度も。まるで自分が何人もいるように。


 ルカは立ち止まった。懐中電灯を壁に向ける。光が当たった場所に、自分の影が映った。


 影が、動いた。


 ルカが動いていないのに。


 影が、こちらを振り返った。頭部にあたる部分がゆっくりと回転し、ルカの方を向いた。顔のない頭が、それでも確実にこちらを見ている。懐中電灯の向きを変えても、影は独立して動き続けている。壁の凹凸に沿って伸び縮みしながら、トンネルの奥へ向かっていく。


 ルカの背筋を冷たいものが走った。温泉の熱い水や、遊園地の壊れた音楽とは違う恐怖。自分の影が自分でないものになっている——それは存在の根底を揺さぶる感覚だった。


 影を追った。


 トンネルを進む。天井が低くなり、壁が近づいてくる。閉所の圧迫感。空気が薄くなった気がする。実際に薄いのか、それとも恐怖がそう感じさせるのか。呼吸が浅くなる。


 レールが途切れた先に、円形の広場があった。複数の路線が交差する予定だった場所。中央に巨大な柱。その柱に——自分の影が張りついていた。


 影は柱の表面で人の形を取り、ルカに向かって立っていた。ルカと同じ背格好。同じ髪の長さ。だが顔がない。のっぺらぼうの黒い人型が、彼女を見つめている。

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