第21話 写し世の写真
写真館に戻り、現像室に入った。
屋根を雨が叩いていた。祭りの間は降っていなかったのに、帰り道で降り始めた。雨粒が土蔵の瓦を打つ音が、不規則なリズムで天井から降りてくる。トン、トトン、トン。写祓の静寂とは無関係な音。だがその無関係さが、かえって現像室の孤立を際立たせていた。
クロが後ろからついてきた。いつもは入りたがらないこの部屋に、今夜は自ら足を踏み入れた。何も言わなかった。ただ、壁の鏡の一枚の前に立ち、動かなくなった。
ルカは乾板を現像液に浸した。手順はいつもと同じ。だが、液面に乾板を沈めた瞬間、薬品の匂いとは違う香りが立ちのぼった。桜。姉の部屋と同じ匂い。
像が浮かび上がってくる。
最初は境内に集まる人々の姿。通常の集合写真。だが像が鮮明になるにつれ、人々の間に——半透明の人影が現れた。写し世の住人たちが、写真に写り込んでいる。
そして、中央に。
チヨ。
白い小袖に緋の袴。手を広げて笑っている姿が、町民たちの間に、鮮明に定着していた。他の影はぼんやりとしているのに、姉だけがくっきりと写っている。まるで彼女自身がそこに立っていたかのように。
ルカは現像液の中の乾板を見つめたまま、長い間動かなかった。
「……写ってる」
声が震えていた。
「チヨが、写ってる」
クロが鏡の前から動いた。乾板を覗き込む。彼の体がわずかに揺れた。面の向こうで、息を呑む音が聞こえた。
「これは……記録だ」
クロの声がかすれていた。
「七年前、姉が最後に立った場所に、彼女の記憶が残っていた。お前の写祓が、それを写し取った」
ルカは乾板から目を離せなかった。姉の笑顔。こちらに向かって手を広げている。その口元が動いているように見えた。「もう少し」と。
定着液で洗い、乾かす。完成した写真を光に透かした。姉の姿は消えていなかった。乾板の上に、確かに、七年間忘れていた姉がいた。
ルカは写真を胸に押しつけた。泣きたかったが、目は乾いたままだった。日記を読んで泣いた。教会でも泣いた。今夜はもう出ない。代わりに、胸の奥で何かが静かに燃えていた。怒りに近い。なぜこの人を忘れていたのか。なぜこの笑顔を七年間知らずにいたのか。
「保管しておけ」クロが言った。「最後の欠片を見つけた後で、必要になる」
ルカは頷き、写真を和紙の封筒に入れた。
そのとき、クロの体が揺れた。
壁に手をつき、膝が折れかけた。ルカが駆け寄ろうとしたとき——クロの面がずれた。片方の紐が外れ、面が横にずれて、右半分の顔が露出した。
月見窓からの光が、その顔を照らした。
若い男の顔。だがその目元に、見覚えがあった。優しい曲線。チヨに似ている。いや——チヨそのものの目元だった。男の顔に、姉の目。
クロが慌てて面を直した。手が震えていた。
「見るな」
声が裂けていた。男の声と女の声が完全に分離して、同時に発せられた。
ルカは立ちすくんだ。見てしまった。見てはいけないものを見た。クロの面の下に、チヨの面影がある。それは——何を意味するのか。
「クロ、あなたは——」
「今はその時じゃない」
クロは面を押さえたまま、現像室を出ていった。足取りがふらついている。月見窓から差す光の中で、彼の影が一瞬だけ不自然に伸びた。九つに分かれたように見えた。
ルカは現像室に一人残された。手の中に写真の封筒。ポケットに四つの欠片。そして頭の中に、たった今見たクロの素顔。
蓮が廊下から顔を覗かせた。
「何かあったんですか。クロさんが——」
「大丈夫。少し疲れただけ」
嘘だった。だが今は、整理する時間が必要だった。
蓮は追及しなかった。代わりに、自分のノートを見せた。
「今夜の測定データです。装置が途中で壊れましたが、それまでの記録が残っています。祖父の理論を裏付けるデータが——いや、それを超えるものが」
蓮の手も硬くなっていた。科学者として測定できないものを目の当たりにした動揺。だがその目には、恐怖よりも静かな確信があった。
「祖父は正しかった。見えないものは、確かにある」
ルカは窓辺に立ち、月を見上げた。町は静まり返っていた。祭りの余韻だけが、空気に残っている。明日になれば、人々は今夜の異変を忘れ始めるだろう。写し世の記憶は、一般の人間からは数日で消える。
だがルカは忘れない。写真がある。姉が写った写真が。
「あと一つ」
五つ目の欠片。それを手に入れれば、チヨの手紙を開ける。
そして——クロの正体と向き合わなければならない。あの面の下にあったもの。チヨの目元を持つ男の顔。
ルカは写真の封筒を机の引き出しにしまい、灯りを消した。
*
翌朝。写真館の客間。
三人が朝食の席についている。クロはカップに手をつけない。蓮がトーストを齧りながらノートに何かを書いている。ルカは茶碗を持ったまま、窓の外を見ていた。
昨夜、クロの面がずれた。
姉の目元を持つ男の顔。あれは何だったのか。ルカは食卓でクロの方を見ることができない。視線が、勝手に逸れる。封印の力と同じだ——見てはいけないものから意識が滑っていく。だが今度は封印のせいではない。自分自身が、見ることを避けている。
蓮が何かに気づいたように顔を上げた。
「ルカさん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」
「大丈夫。少し眠れなかっただけ」
嘘ではない。一晩中、天井を見つめていた。あの面の下にあった顔が、瞼の裏に貼りついて離れなかった。
「何かあったんですか」
蓮の問いはまっすぐだった。ルカは一瞬迷い、正直に答えた。
「見てはいけないものを見た気がする」
蓮はペンを置き、少し考えてから言った。
「祖父の遺品を整理したとき、見てはいけないノートを見つけたことがあります」
「どんな」
「祖父が最後に書いた記録です。科学者としての冷静さが完全に崩れていて、走り書きで……怖かった。でも見てしまった以上、見なかったふりはできなかった。だから僕は、その続きを読みました」
ルカは蓮を見た。彼の目は穏やかだった。怖さを経験した人間の穏やかさ。
「見なかったふりはできない」
「ええ。見たなら、最後まで見る方がいい。途中で止めると、想像が真実より怖くなります」
その言葉が、ルカの中で何かを押した。小さなスイッチ。
「……行きましょう。地下鉄建設跡に」
クロが窓辺で微かに動いた。今朝から一言も話していなかった彼が、初めて体の向きを変えた。




