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第20話 影写りの祭り

 久遠木に戻ったのは昼過ぎだった。


 町は祭りの準備に包まれていた。通りに提灯が並び、店先に飾りがつけられ、子供たちが走り回っている。空気に夏の熱気と屋台の匂いが混じり、遠くから太鼓の音が聞こえる。


 影写りの祭り。毎年夏至の夜に行われる影向稲荷の大祭。八百年続く、人々の想いを共有し定着させる儀式。そして今年は——十年に一度の強い月が重なる年だった。


 だが準備の最中、異変があった。神主が祝詞を忘れた。八百年続いてきた祝詞を、朝の稽古で三度つまずき、四度目で中断した。「おかしいな」と老神主は額を拭いた。「昨日まで覚えていたのに」。横で見ていた巫女の一人が、不安そうな顔をしていた。


 町の記憶が、蝕まれている。時計が止まり、看板が消え、祝詞が失われる。チヨの封印がほころぶにつれて、久遠木の記憶が写し世に引きずり込まれていく。


「橋爪さん、今年もよろしくお願いします」


「写真、きれいに撮ってくださいね」


 道行く人々がルカに声をかける。彼女は写真館の娘として、この夜の撮影者として、町に組み込まれた存在だった。蓮はその様子を物珍しそうに見ている。クロは終始無言で、ときどき右目を押さえる仕草をしていた。


 写真館に戻り、ルカは準備を始めた。白い小袖に緋の袴——巫女装束に着替える。チヨも同じ装束で、同じ準備をしていた。七年前までは。


 魂写機を点検する。乾板をセットする。手に力が入った。この機材を祭りの場に持ち出すのは初めてだった。これまでは父が、その前はチヨが担っていた役目。


「緊張している?」


 蓮が現像室の入口から声をかけた。中には入らない。前回注意されたことを覚えている。


「少し」


「祖父は祭りの記録を残していました。でも彼は外側から観察するだけだった。あなたは——中心にいる」


「そうね。今夜は、私がやるしかない」


 鏡の前に立った。白い小袖の衿を合わせ、緋の袴を腰に締める。帯の結び方は体が覚えていた。教わった記憶はない——いや、あったはずだ。封印に消された過去の中に。だが指は迷わない。左手で帯を支え、右手でたすきを掛ける。その手順の正確さ自体が、姉からの贈り物だった。


 手が止まった。


 ——会いたい。


 声に出していた。自分でも驚いた。鏡の中の自分が、口を開けたまま固まっている。誰に? 誰に会いたい? 名前が出かかっている。喉の奥まで来ている。七年間ずっと、知らないふりをしていた渇きが、今夜、帯を結ぶ指先から溢れた。


 巫女装束の袖を通すと、腕に冷たい絹の感触がある。そして——かすかに桜の匂い。姉の部屋と同じ匂い。この装束も、姉が着ていたものなのかもしれない。


 魂写機の手入れをした。レンズを布で拭き、蛇腹の動きを確認し、暗箱に乾板をセットする。霧露液を小瓶に入れて鞄に詰める。影写りの粉も。


 夕方。影向稲荷の境内に三人で向かった。チクワは写真館に残した。祭りの人混みは猫には厳しい。


 境内には提灯の光が揺れ、人々が集まり始めていた。鳥居の朱色が夕闇に沈み、代わりに提灯の橙色が浮かび上がる。月はまだ低い位置にある。空が紫から濃紺に変わっていく。


 提灯は手作りだった。和紙を張った木枠に、蝋燭が灯されている。電気ではない。本物の火が、一つ一つの提灯の中で揺れている。風が吹くと提灯が傾き、影が地面を走る。数百の提灯の数百の影が、境内の砂利の上で踊っていた。


 屋台が並んでいる。焼きとうもろこしの煙。綿あめの甘い匂い。金魚すくいの水槽に月が映っている。子供たちが走り回り、浴衣の裾をはためかせている。祭囃子が遠くから聞こえる。笛と太鼓。その音が霧の中で反響し、どこから聞こえているのか分からなくなる。


 普通の祭りだった。久遠木の、普通の夏祭り。だが——提灯の光がときどき青く変わる瞬間がある。ほんの一瞬。気のせいかと思うほど短い。砂利の上の影が、人の形と違う形に揺れる瞬間も。九つの尾を持つ何かの影が、一瞬だけ提灯の下を走って消えた。


 神主の祝詞。巫女たちの神楽。太鼓と笛。儀式が進む間、ルカは台の上で魂写機の最終調整をしていた。ファインダーを覗くと、集まった人々の姿が逆さまに映る。数百人。笑顔。提灯の光。普通の祭りの光景。


 だが——月が昇り始めた瞬間、ファインダーの中の景色が変わった。


 人々の間に、半透明の影が見えた。一つ、二つではない。数え切れないほどの人影が、町民たちの隙間に立っている。足がない者もいる。明治の着物を着た者もいる。過去の祭りの参加者たちの記憶が、月の光に引き出されて現世に漏れ出していた。


 ルカの心臓が跳ねた。ファインダーから目を離し、肉眼で境内を見る。影は見えない。再びファインダーを覗く。影がいる。魂写機のレンズだけが捉えている。


 蓮が台の下から小声で言った。


「ルカさん、僕の装置が振り切れています。何か起きていますか」


「……見えるの。写し世の人たちが」


 蓮の顔が引き締まった。怖いのではなく、自分が測定しているものの正体を初めて知った科学者の顔だった。


「撮ってください。記録を」


 ルカは頷いた。深呼吸する。手を落ち着かせる。


「みなさん、こちらを向いてください」


 数百の顔がルカを見上げた。ファインダーの中では、数百の顔と、もう数百の半透明の顔が、重なるように彼女を見つめていた。過去と現在が、同じ枠の中に収まっている。


 そのとき——群衆の真ん中に、一つだけ鮮明な影があった。


 白い小袖に緋の袴。黒い髪。穏やかな笑顔。他の半透明の影とは違い、ほぼ実体に近い輪郭。こちらを見ている。口が動いた。


「ルカ……選んで……」


 声は聞こえなかった。だが唇の形が読めた。選んで。何を。


 ルカの指がシャッターに触れた。


 姉が微笑んだ。


 カシャリ。


 閃光が走った。


 境内全体が青白い光に包まれ、一瞬——すべてが止まった。音が消え、風が止み、提灯の炎が凍りついた。人々の口が開いたまま固まっている。空中に舞っていた綿あめの繊維が、静止している。子供が投げた風船が、空の途中で止まっている。時間が止まっている。


 ルカの鼓動だけが、その静寂を刻んでいた。自分の心臓の音が、止まった世界の中で唯一の時計だった。空気が重い。手を伸ばすと、空間が現像液のように粘りついた。振り上げられた拍手の手と手の間の空気に、指が触れる。固い。時間が止まった空気は、固体に近かった。


 その静止の中で、ルカだけが動いていた。ファインダーから目を離し、境内を見渡す。止まった人々の間に、半透明の影が立っている。何十人も。何百人も。過去の祭りの参加者たち。明治の着物、大正の袴、昭和の浴衣。あらゆる時代の人々が、この一瞬に集まっている。


 チヨが、静止した群衆の真ん中に立っていた。こちらを見ている。口が動いた。声は聞こえない。だが唇の形が読めた。——ありがとう。


 そして、光が弾けた。


 音の津波が押し寄せた。太鼓の音、笛の音、笑い声、叫び声——何十年分もの祭りの音が一斉に響き、人々の足元から色とりどりの光が立ち上った。提灯が青く変色し、鳥居の赤が深紅に変わり、地面の色が反転した。


 写し世が、溢れた。


 光は境内を超えた。鳥居を抜け、石段を駆け下り、町の通りに流れ込んだ。ハシヅメ写真館の柱時計が、一瞬だけ針を動かした。影向稲荷の裏手にある診療所の窓ガラスが青く光り、上條健司は夜勤のカルテから顔を上げた——鋭いものが胸を貫いた気がした。久遠木の町全体が、一瞬だけ写し世と繋がった。


 人々がどよめいた。「影が見えた」「先祖の姿が」「あの光は」——普段は見えない世界を、町民たちが一斉に目撃していた。混乱の中、蓮は壊れかけた装置を抱えてデータを記録し続けている。


 そのとき、ルカの視界の端で——クロが膝をついた。


 境内の隅。石灯籠の影。クロの体が半透明になっている。面が内側から押し出されるように浮き上がり、罅の間から青白い光が漏れていた。彼の中のチヨの部分が、写し世の噴出に呼応して暴走しかけている。


「クロ!」


 ルカが駆け寄ろうとした。クロが片手を上げた。


「近づくな——今の俺に触れたら、お前の記憶が——」


 声が割れていた。二つの声が完全に分離し、男の声と女の声がばらばらに喋っている。クロの手が自分の顔を押さえ、面を押し戻そうとしている。指の隙間から、チヨの目が覗いていた。


 そして——声が変わった。


「ルカ、助けて」


 姉の声だった。クロの喉から出ているのに、完全に姉の声だった。温かく、優しく、少しだけ震えている。日記を書いたあの人の声。部屋に桜の匂いを残したあの人の声。


 ルカの足が一歩、前に出た。


 ——本当にチヨなのか。それともクロが姉の声を使っているのか。その区別がつかないことが、何よりも怖かった。


 蓮が装置を向けた。「数値が振り切っています。あと数秒で——」


 ルカは影写りの粉を一つまみ取り出し、クロに向かって撒いた。銀色の粉がクロの体にかかった瞬間、光が収まった。面が元に戻り、体の透明度が下がっていく。


 だが——面に新しい罅が入っていた。右目の紋様を横切る、細い亀裂。融合への時間制限が、面の上に刻まれた。


 そして——光が引いた。月明かりだけが残り、境内は静まり返った。


 ルカは台の上に立ったまま、魂写機を抱えていた。乾板の中に、今夜のすべてが閉じ込められている。

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