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第18話 廃教会

 出発の朝、ルカは影向稲荷の前を通った。


 鳥居の朱色が褪せていた。先週通ったときは赤錆の混じった朱だった。今は——灰色に近い。一週間で十年分褪せたように。苔の緑さえ色を失いかけている。


 封印がほころんでいる。チヨが命をかけて閉じた蓋が、少しずつ開いている。時間がない。


 山を越え、谷を下り、また登った。半日かけて辿り着いた丘の上に、白い建物があった。


 小さな教会だった。木々に囲まれ、尖塔だけが梢の上に出ている。明治期に外国人宣教師が建てたもので、戦時中に放棄されたと蓮が教えてくれた。壁は苔に覆われ、屋根の一部が崩れている。だがステンドグラスだけは健在で、午後の光を受けて色とりどりの光を地面に投げかけていた。赤い光の筋。青い光の斑点。緑の光の帯。森の中に、色彩の飛沫が散らばっているように見えた。


 扉は開いていた。蝶番が錆びて、閉まらなくなっていたのだ。


 中に入る。木製の長椅子が列をなし、正面に石の祭壇がある。天井は高く、梁が暗闇の中に渡されている。足音が反響した。自分の足音と、それに半拍遅れてついてくる反響。三人分の足音が、六人分に聞こえる。


 空気に、古い香木の残り香がした。何十年も前に焚かれた香の匂いが、石の壁に染みついている。その下に、もう一つ別の匂い。蜜蝋。かつて灯されていた蝋燭の蝋が、石の燭台に溶け残っている。指で触れると、爪の先に白い蝋がつく。何十年も前に、誰かの祈りとともに灯された火の名残。


 長椅子の座面には、かすかに体の形が残っていた。何百人もの人が座り、祈り、膝の上で手を組んだ。その痕跡が、木の繊維に刻まれている。ルカは一つの長椅子に手を置いた。冷たいが、不思議と拒絶的ではない。ここは怒りのない場所だった。温泉の苦痛も、遊園地の悲しみもない。ただ——祈りがある。届くかどうか分からない祈りを、何十年も重ねてきた場所。


「誰かの気配がする」


 蓮が小声で言った。ルカも感じていた。無人のはずなのに、ここには「誰か」がいる。


 祭壇の奥から、足音がした。


 杖をつく音。ゆっくりとした、だが確かな歩み。石の床を叩く杖の先が、教会の壁に反響する。


 老人が姿を現した。白髪。八十を超えている。質素な麻の服。裾が擦り切れている。背筋はまっすぐで、深い皺の奥に鋭い目がある。青い目。西洋人の顔立ちだが、肌は日本の陽光で焼けている。この土地に何十年も住んだ人間の肌の色。杖は樫の木。表面が手の脂で光っている。


「よく来たな、旅人たち」


 声は力強く、教会の天井に反響した。日本語は流暢だが、母音の響きに微かな癖がある。長い年月この国で暮らしても消えない、母国語の名残。


「ジョセフ・ブラウン。この教会の最後の司祭だ」


 ルカは警戒しながらも、老人の目を見た。そこには敵意がなかった。長い時間、何かを待ち続けてきた人間の目だった。


「光の欠片を守ってきた」ジョセフは祭壇を指した。「正しい者が来るのを待っていた」


「どうして私たちが来ると——」


「影向稲荷の神主から聞いている。橋爪の娘が欠片を集め始めたと」


 ジョセフの目がクロに移った。面の奥まで見透かすような視線。


「お前のことも知っている。狐神の片割れ」


 クロの体が硬くなった。だがジョセフは穏やかに続けた。


「敵ではない。理解者だ。五十年以上、この地にいる。見てきたものは多い」


 老人は祭壇の方へ歩き始めた。三人がついていく。祭壇の上方に、巨大な薔薇窓のステンドグラスがあった。赤と金、青と緑が複雑に重なり、中心に白い光が灯っている。午後の陽光がガラスを通り抜け、床に色とりどりの模様を描いていた。


「光の欠片はあの中にある」ジョセフは薔薇窓を見上げた。「だが、手に入れるには条件がある」


「代償ですか」


「それとは別だ。ステンドグラスの下に立ち、光を浴びる。すると、自分自身の——隠したい真実が見える。それを受け入れられなければ、欠片は降りてこない」


 ルカは薔薇窓を見上げた。色彩の中心の白い光が、まるで目のように彼女を見下ろしている。


「隠したい真実……」


「恐れることはない」ジョセフは微笑んだ。「真実は痛むが、人を壊しはしない。壊すのは嘘の方だ」


 クロが一歩前に出た。


「俺が先に行く」


「いいえ」ルカは首を振った。「私が行く」


 クロを見た。面の向こうで、何かが揺れた気配。


「欠片は私を求めている。他の場所もそうだった」


 クロは黙って頷いた。蓮がルカに小さな水晶のペンダントを差し出した。


「祖父の形見です。お守りみたいなものですが……」


「ありがとう」


 ルカはペンダントを受け取り、祭壇に向かって歩き始めた。足元の色彩の模様が、彼女の歩みに合わせて揺れるように見えた。聖歌の残響音が——実際には鳴っていないのに——頭の中で響き始めた。

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