第17話 祖父の遺産
「ルカさん、目が——右目が赤い。大丈夫ですか」
「大丈夫。もう見えてる」
嘘ではなかった。白い靄は薄れていた。だが蓮の顔に、自分の記録に没頭して仲間の異変を見落とした科学者の罪悪感が浮かんでいた。祖父と同じだ——と、蓮は思っただろう。測定に夢中になりすぎて、大事なものを見落とす。
蓮は棚の奥からガラスケースを取り出した。小さな台座の上に、青い結晶が載っている。他の二つより少し小さく、光の明滅が速い。脈拍のように。
「祖父がこの山頂で見つけたものです。封印の直後に。ノートにはこう書かれていました——『この結晶は時間に関わるものだ。触れた者に未来の断片を見せるが、重要な選択の記憶を奪う』」
ルカは結晶を見つめた。三つ目の欠片。また何かを失う。
「祖父はこれを……ここに置いたまま死にました。触れなかった。自分の記憶を失うことを恐れたのか、それとも正しい持ち主を待っていたのか」
蓮はケースを開き、結晶をルカの前に差し出した。
「あなたが来ると分かっていたのかもしれません」
ルカは手を伸ばした。
結晶に触れた瞬間、視界が白くなった。
映像が走る。断片的で、順序がない。光の射す廃教会。鏡に囲まれた円形の部屋。自分自身が立っている——白い小袖に緋の袴、巫女装束。そしてクロの面が外れ、その下に——
映像が途切れた。
同時に、何かが引き抜かれた。頭の中で、ある場面が色を失っていく。分かれ道に立っている。二つの選択肢がある。どちらかを選んだ。何を選んだのかは覚えている。だがなぜ選んだのかが消えていく。決断の理由。覚悟の根拠。それが溶けて、なくなった。
結晶が手の中にあった。光は消えていない。ほのかに明滅を続けている。他の二つとは違う——まだ活きている。
「……何が見えた?」クロの声。
「断片的に。廃教会。鏡の部屋。それと——」
ルカは言いかけて止めた。クロの面が外れる映像。それを今言うべきかどうか。
「——先のことが、少しだけ」
「代償は」
「覚悟の記憶。何かを選んだ理由が……分からなくなった」
蓮がノートにペンを走らせていた。科学者の目で、目の前の現象を記録している。だがその手が震えていた。怖いのだ。見えない世界が、目の前で実体を持って動いている。それを怖いと感じる正直さが、彼にはあった。
「僕も……一緒に行っていいですか」
クロが振り向いた。
「断る理由がない」蓮は続けた。「祖父が記録した世界を、この目で見たい。それに——」
彼はルカを見た。
「一人で忘却を重ね続けるのは、危険だと思います。誰かが覚えていないと」
その言葉に、ルカは不意を突かれた。
誰かが覚えていないと。ルカが失った記憶を、誰かが外側から記録しておく。科学者の発想。だがそれは、ルカが最も必要としていたものだった。
クロはしばらく蓮を見つめていた。それから、小さく頷いた。
「来い。だが、足を引っ張るなら置いていく」
「了解です」
蓮は荷物をまとめた。祖父のノート数冊と、古い測定器——懐中時計のような形をした装置。
「祖父の発明品です。霧の濃度と……その他のものを測定します」
蓮は装置の文字盤を見せた。通常の気圧計や湿度計とは違う目盛りが刻まれている。
「祖父はこれを『残留感光密度計』と呼んでいました。感光性銀塩が異常な波長に反応する現象——つまり、あなた方が『写し世の気配』と呼ぶものを、数値として記録できます」
科学者の言葉。同じ現象を、別の言語で記述している。ルカが「青い靄」と見るものを、蓮は「異常波長の感光反応」と読む。どちらが正しいということではない。二つの言語が、一つの世界を挟んで向かい合っている。
三人は観測所を出た。霧が晴れ始め、山の下に広がる景色が見えた。遠くに、久遠木の町の屋根が霧の切れ間に光っている。
ルカはポケットの三つの欠片を確かめた。三つの結晶。三つの空洞。
蓮が隣を歩いている。祖父のノートを鞄に入れ、測定器を首から下げて。彼の足取りには、怖さと好奇心が同居していた。
クロは半歩前を歩く。いつもの距離。だがその背中が、ほんの少しだけ軽くなったように見えた。三人目が加わったことで、何かが変わったのかもしれない。あるいは、変わったのはルカの目の方か。
蓮が足を止め、装置を覗き込んだ。眉が寄った。
「ルカさん、少し気になることがあるんですが」
「何?」
「クロさんの近くにいるとき……あなたの波動が、微かに減衰しています」
ルカは立ち止まった。クロの背中が、三歩先で止まった。振り返らない。
「減衰?」
「数値でいうと、三から五パーセント。クロさんから離れると戻る。近づくと下がる。まるで——」蓮は言葉を選んだ。「まるで、少しずつ吸い取られているように」
クロが振り返った。面の奥の目が、蓮を射抜いていた。数秒の沈黙。
「気のせいだろう」
クロの声は平坦だった。だがルカは、写真館であの夜聞いた言葉を思い出していた。「お前の匂いが強すぎる」。あのとき感じた獣の飢え。——蓮のデータは、あの直感を裏付けている。
三人は歩き続けた。だがルカの中で、何かが変わった。クロの半歩前に、もう一つの意味が加わった。距離を保っているのは、ルカを守るためかもしれない。あるいは——自分を制するためかもしれない。
山を下りながら、ルカは時の欠片が見せた映像を反芻していた。廃教会。鏡の部屋。クロの面の下。
次の場所が、決まった。
*
山を下り、谷沿いの道を南へ向かう。三人旅の初日。
蓮は少し後ろを歩いている。ノートを開き、歩きながら書いている。時々つまずく。ルカが振り返ると「大丈夫です」と笑い、またノートに目を落とす。クロは先頭。二人の間にルカがいる。以前は「半歩前のクロ」と「その後ろのルカ」だった。今は三つの影が道に並んでいる。
日が暮れ、山小屋で夜を明かすことになった。板張りの床に寝袋を広げ、蓮がバーナーで湯を沸かす。粉末のスープを三つ分。
「祖父はよく山に登りました」蓮がスープを配りながら言った。「観測のために。いつもこういう粉末のスープを持って行って、僕にも分けてくれた」
クロはスープを受け取ったが、飲まなかった。カップを手で温めるように持っているだけだった。
「祖父は死ぬ直前、不思議なことを言ったんです」
蓮は火の明かりに照らされながら、眼鏡を外した。目を拭っているのではなく、レンズの曇りを取っている。
「『測れないものこそ大切だ』と。科学者として失格の言葉です。でも僕は——それが祖父の最も正直な言葉だったと思うんです」
沈黙が落ちた。火がぱちぱちと鳴る。
「科学者が測定を放棄するのは、敗北ではない」
クロの声が闇の中から聞こえた。低く、静かに。
「見えるものだけが真実ではない。お前の祖父は、それを知っていた」
蓮がクロの方を見た。面の向こうの表情は見えない。だが声にこもった重みは、ただの慰めではなかった。
「……ありがとうございます」
蓮は初めて、クロに対して敬語以外の何かを——感謝を、向けた。
ルカはスープを啜りながら、二人を見ていた。クロが蓮を認めた瞬間だった。小さな、だが確かな変化。火の光が三つの影を壁に落としている。




