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第16話 時の結晶

 中に入ると、空気が変わった。外の湿った冷たさとは違う、乾いた冷たさ。何十年も閉じ込められていた時間の温度。コンクリートの壁が冷気を蓄えていて、吐く息が白くなった。外より寒い。建物の中だけが、時間の進み方が違うかのように。


 廊下には落ちた天井材が散乱し、壁には古い気象図が貼られたまま残っている。等圧線の曲線、風向きの矢印。その上に埃が積もり、指で触れると線が浮かび上がった。黄ばんだ紙の手触りは脆く、強く触れれば崩れそうだった。気象図の端に、手書きの数字と日付。最後の記録の日付は——昭和四十年。それ以降、誰もこの図を更新していない。


 蓮が先導して二階の観測室に入った。壁一面に計器と図表。気圧計、湿度計、風速記録計。すべて針が止まっている。だが一つだけ——壁の隅に設置された自記温度計だけが、かすかに針を動かしていた。インクが乾いて久しいはずなのに、記録紙の上に、淡い線が引かれている。この建物の温度をまだ測り続けている。誰も見ていなくても。


 中央に大きな作業台。天板に円い跡が残っている。コーヒーカップの跡。何百回と置かれたカップが、木の表面に環を刻んでいた。この台で、柊介は毎朝コーヒーを飲みながらデータを記録していたのだろう。


 蓮は作業台に手を置いた。祖父が触っていた場所に、自分の手を重ねるように。しばし、目を閉じた。何かを探すような表情。指先が、木の表面のコーヒーの染みをなぞった。祖父の朝の習慣の痕跡。蓮は同じ場所に、自分のコーヒーカップを——持ってきていないことに気づいた。だが気づいた瞬間、なぜか喉が詰まった。祖父がここで毎朝コーヒーを飲んでいた。自分も毎朝コーヒーを淹れる。知らないうちに、同じ習慣を引き継いでいた。


 それから目を開け、引き出しから古いノートを次々と取り出した。引き出しの底に、錆びた老眼鏡が一つ残っていた。蓮はそれを手に取り、しばらく見つめてから、自分の鞄にしまった。


「これが祖父の記録です」


 蓮はノートを開いた。几帳面な筆跡。数値データの横に、短い走り書き。「今日の霧は重い。何かを覚えている霧だ」「午前三時、壁の向こうで誰かが泣いている。計器に反応なし。だが確かに聞こえた」


 科学者の記録と、科学では説明できない体験の記録が、同じページに並んでいた。


「祖父は……見えない世界を測ろうとしていたんです」蓮はノートを閉じ、眼鏡を直した。「見えないからこそ測定する。それが彼の科学だった」


 クロは部屋の隅に立ち、蓮を観察していた。警戒は解いていないが、敵意は薄れている。


「お前の祖父は、封印の夜にいたのか」


 蓮が顔を上げた。


「……知ってるんですか」


「答えろ」


「はい。祖父は目撃者でした。科学者として記録するつもりだったけれど、見たものは科学では説明できなかった」


 蓮は部屋の奥の棚から、別のノートを取り出した。革の表紙。開くと、精密なスケッチがあった。神社の境内。白い着物の少女。その周囲に渦巻く霧と光。そして——光が九つに分かれて飛び散る瞬間。


 別のページには、チヨの横顔のスケッチが一枚。ファインダーを覗いている横顔。髪を耳の後ろにかけた瞬間。科学者の手は精密だ。睫毛の一本一本まで描かれている。その下に、走り書き。


『私は彼女の祈りを記録する』


 柊介の肉筆だった。


 ルカの呼吸が止まった。


「チヨ……」


「橋爪チヨ。あなたの姉ですね」


 蓮の目がまっすぐにルカを見た。


「祖父のノートに名前がありました。それと、『橋爪ルカ——封印の継承者』という記述も」


 蓮はページをめくった。別の頁に、走り書きがあった。『橋爪チヨとの対話記録。記憶の波長について。彼女の理論は科学を超えている——だが間違っていない』。柊介はチヨと、科学と神秘の境界で対話していたのだ。


 沈黙が落ちた。壁の古い時計が、風圧で微かに揺れている。


「あなたは……最初から知っていたの」


「いいえ。あなたの名前は聞いていないし、顔も知らなかった」蓮は正直に答えた。「でもこの山で、この時期に、写し世に関わる人間に会ったら——それは祖父のノートに書かれていた人物だろうと」


「風見蓮」クロが低い声で言った。「信用していいのか判断がつかない」


「それは僕も同じです」蓮はクロを見た。「あなたが何者なのか、僕にはまだ分からない」


 二人の間に緊張が走った。ルカはその間に立ち、どちらも見た。


「欠片のことも知っているの」


「祖父が記録しています。『神の力の欠片』について。そして——」


「待って」ルカはカメラバッグから魂写機を取り出した。「先にここで写祓を試みたい。この建物にも痕跡が残っているなら——」


 蓮は少し驚いたが、頷いた。クロは何も言わなかった。


 ルカは観測室の中央に魂写機を据えた。八キロの真鍮が三脚の上で揺れる。蛇腹を広げ、ピントを合わせる。指先で影コロジオンの膜を確かめた——まだ湿っている。あと十二分。ファインダーを覗く。壁の計器類に、かすかな青い靄がまとわりついている。


 三呼吸。閉じる。指をかける。


 カシャリ。


 乾板が割れた。


 ガラスの砕ける音。手に走る衝撃。同時に閃光——カメラからではない。壁の計器から。光が目を灼いた。白い。何も見えない。


「ルカさん!」


 蓮の声。遠い。


「出ろ」クロの声が鋭く響いた。


 手を引かれ——蓮の手だった——観測室から廊下に引きずり出された。冷たいコンクリートの壁に背中がつく。目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返す。


 三十秒ほどで視界が戻った。蓮の顔が目の前にあった。蒼白。眼鏡が曇っている。


「……大丈夫です」


「乾板が耐えきれなかった」クロが廊下の闇の中から言った。「ここの記憶は特殊だ。怒りでも悲しみでもない——執着だ。測り続ける執着。終わりのない反復。写祓で浄化しにくい」


 ルカは手を見た。震えている。写祓で失敗したのは初めてだった。


「もう一度——」


「待ってください」蓮が装置を操作していた。「今のデータが取れています。残留波動にパターンがあります。ピークは三十秒周期。その谷間を狙えば、圧力が最小になる」


 ルカは蓮を見た。科学者の目が、計器の数値をルカのために翻訳している。


「三十秒周期……」


「次の谷間まであと十二秒。そこから四秒が窓です。僕がカウントします」


 ルカは新しい乾板をセットした。手の震えが止まった。一度失敗した。その恐怖が、逆に集中力を研ぎ澄ませていた。


 蓮が装置の数値を読む。「五、四、三、二——今」


 カシャリ。


 今度は乾板が保った。閃光が走り、壁の計器が一斉に震えた。だが割れなかった。四秒の窓の中で、記憶を捉えた。


 蓮はノートに書き込んでいた。「写祓と科学の協働。残留波動パターン分析。——祖父の夢の続き」。興奮で字が走っている。数値を書き、矢印を引き、余白にスケッチを始めた。科学者の脳が全開になっている。


 ルカは壁にもたれ、天井を見上げた。右目がまだ白くぼやけている。一度目の閃光の名残だ。まばたきを繰り返しても、視界の右端に白い靄が残っている。乾板が割れた衝撃が、まだ指先にも残っている。


 蓮は気づいていなかった。ノートに夢中で。


 ルカは何も言わなかった。言う必要がなかった。写祓を始めてから、失敗は初めてだった。自分は完璧ではない。一人では足りない。——その事実が、不思議と怖くなかった。隣に蓮がいて、彼のカウントに合わせて撮り直した。誰かの声に合わせて動くという経験が、ルカには新しかった。今まで写祓は常に一人の仕事だった。


 蓮がようやくノートから顔を上げた。ルカの目を見て、表情が変わった。

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