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第15話 霧の中の男

 山を登るにつれて、霧が濃くなった。


 視界が十メートルを切り、五メートルになり、やがて手を伸ばした先が霞むようになった。足元の石が見えず、一歩ごとに地面の感触を確かめながら進む。湿った空気が肌にまとわりつき、コートが重くなっていく。


「観測所はもうすぐだ」


 クロの声が霧の向こうから聞こえた。姿は見えない。声だけが方角を示す。


 ルカは黙って登り続けた。胸ポケットに二つの欠片。声と願い。それぞれの代償として空いた穴が、登りの疲労と重なって、胸を圧迫する。


 霧の中では音が変わる。自分の足音が遠く聞こえ、呼吸が近く聞こえる。ときどき、自分のものではない足音が混じっていた。石を踏む音。前でも後ろでもない、横から。


 ルカは足を止めた。


「クロ、今——」


「ああ。いる」


 クロの声が低くなった。


 霧の中から、人影が現れた。


 ルカの体が強張った。温泉旅館の湯気の人影、遊園地の子供たちの影——写し世の存在を何度も見てきた。だがこの人影は違った。足が地面についている。重さがある。生きている。


「あ……人がいた」


 若い男の声だった。驚いているが、恐れてはいない。霧が薄れた瞬間、姿が見えた。二十代前半。長身で痩せ型。茶色い髪を後ろで束ね、丸眼鏡。手に古い地図。首から双眼鏡。


「こんな山の中で会うとは思いませんでした」


 ルカはクロと目を合わせた。クロは一歩前に出て、ルカを背後にかばう位置を取った。


「何者だ」


 クロの声に警戒が剥き出しだった。


「風見蓮です。霧見気象観測所に向かってるんですが……道がよく分からなくて」


 二十代半ば。細身で、金縁の眼鏡をかけている。コートのポケットからノートの角が覗いている。手には古い革のバッグ。バッグの持ち手が使い込まれて光っている——祖父のものを引き継いだのだろう。髪は少し長めで、風に乱れている。霧の中を歩き続けてきた様子が、靴についた泥と額の汗に見えた。


 蓮は地図を広げて見せた。所々に赤ペンで書き込みがある。几帳面な字。地図の余白には数式と図が描き込まれていた。気象観測のデータらしい。


「祖父の遺品を回収しに来ました。彼はここの最後の観測員だったんです」


「祖父の名は」


「風見柊介」


 クロの体が一瞬、硬くなった。ルカにはそれが見えた。彼はその名前を知っている。


「……私たちも観測所に向かっているの」


 ルカが答えた。蓮は少し安心したように笑った。霧の中で、その笑顔だけが妙に鮮明だった。——職業病だった。ルカは人を見るとき、無意識にピントを合わせてしまう。背景の霧がぼけて、蓮の眼鏡の奥にある光だけが像を結ぶ。まっすぐな目。何かを探している人間の目。


「ご一緒してもいいですか? 一人だと心細くて」


 クロは黙っていた。ルカは頷いた。


 三人で登り始めた。蓮は歩きながら話した。大学院で気象学を研究していること。祖父の記録を解読していること。祖父が「霧の濃さと人間の記憶の鮮明さには相関がある」という奇妙な仮説を残していたこと。


「面白い仮説ね」


「変人扱いされるんですけどね」蓮は苦笑した。「論文にもできない。データはあるのに、仮説が非科学的だと」


 その声には軽さがあったが、その下に硬いものがあった。何年もそう言われ続けてきた人間の硬さ。


「でもやめない?」


「やめられないんです。祖父が見たものを、僕も見たい」


 蓮の横顔に、ルカは既視感を覚えた。何かに取り憑かれたように一つのことを追いかける人間。チヨもそうだった。写し世の声を聞こうと、誰にも理解されずに一人で廃墟を歩いていた姉。


 霧が少し薄くなり、前方に建物の輪郭が浮かんだ。コンクリート造りの三階建て。屋上に風速計と無線塔。壁面に苔。窓の多くが割れている。


 建物は霧の中に浮かんでいるように見えた。地面との境界が曖昧で、土台が霧に溶けている。壁のコンクリートは元は白かったのだろうが、今は苔と雨染みで斑模様になっている。風速計の羽根が一枚だけ残っていて、風が吹くたびにかろうじて回る。錆びた軸が軋む音が、霧の中で金属的に響いた。無線塔は傾いており、そこから垂れ下がったアンテナ線が蜘蛛の巣のように空中に残っている。


 霧見気象観測所。

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