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第14話 願いの木馬

 月が昇り始めた瞬間、遊園地が変わった。


 最初に音が来た。遠くから、オルゴールのような旋律。壊れていたはずの音響設備から、かすれた音楽が流れ出す。「星の世界へ」——古い童謡。音が割れて歪んでいるが、確かに聞こえる。


 次に光。朽ちた電球が一つ、二つと灯り始めた。白熱球の橙色の光が、錆びた鉄骨を照らす。すべてが灯るわけではない。ところどころ、飛び飛びに。暗闇と光が交互に続く回廊。


 そして——メリーゴーランドが動き出した。


 音はなかった。電力などない。なのに、木馬たちがゆっくりと回転し始めた。上下に揺れる動きが加わる。塗装の剥げた馬が、月光の中で妙に生々しく見えた。割れたガラスの目が、光を反射する。一頭、二頭と目に光が宿っていく。ガラスの目に月が映り、小さな満月が十二個、円を描いて回っている。


 天蓋の電球がさらに灯った。橙色の光の列がゆっくりと回転する。光と闇が交互に顔を照らす。遊園地の夜。何十年も前の夜が、今ここに重なっている。


 音楽が聞こえ始めた。オルゴールの旋律。「星の世界へ」——壊れた調べ。途中で音程が狂い、一音だけ低く沈む。だがそれが、壊れているからこそ美しかった。完全な音は記憶に残らない。壊れた音は——一度聞いたら忘れられない。


 ルカの足元で、地面が微かに振動していた。メリーゴーランドの回転ではない。もっと深いところからの振動。この場所の底にある何かが、月の光に呼応している。


 空気が変わった。甘い匂い——綿あめ、ポップコーン。古い匂いだった。三十年、四十年前の匂い。それが現在の錆と黴の匂いに重なり、二つの時間が同じ空間に存在していた。


 入口のアーチが見える。鉄骨のアーチ。かつては電飾が巻きつけられていたのだろう。今は骨だけが残っている。アーチの天辺に、遊園地の名前が残っていた。「月影遊園地」。文字の半分が錆に食われ、残った部分が月光を反射していた。


 入口を抜けると、闇の中に遊具の輪郭が浮かんだ。観覧車の骨格が空に円を描いている。ゴンドラはいくつか落ち、地面に潰れたまま錆びている。ブランコの鎖が風に揺れ、きぃ、きぃ、と鳴る。コーヒーカップの乗り物が傾き、カップの縁から草が生えていた。


 すべてが壊れている。だが、すべてがまだ「ここにいる」。遊園地は死んだのではなく、眠っているのだ。来る人がいなくなっただけで、遊具たちは今も動きたがっている。風が吹くたびに、錆びた関節が軋み、かつての音楽を思い出そうとしている。


 子供の笑い声が聞こえた。透明な影が、遊具の間を走り抜ける。足は地面に触れていない。かつてこの場所で遊んだ子供たちの記憶が、月の光に引き出されている。


 田村の姿が変わっていた。作業着の老人ではなく、制服姿の若い技術者。彼自身が過去の姿に戻っている。


「乗りな」


 田村が星の馬を指した。若い顔に、老いた目があった。


 ルカはメリーゴーランドに近づいた。回転する木馬の一頭に手を伸ばす。星の馬。触れた瞬間、木の表面が温かかった。体温のような温もり。彫られた星の溝に沿って、かすかな青い光が走った。


「中に欠片がある」


 クロの声が後ろから聞こえた。彼はメリーゴーランドの外にいる。入ろうとしない。温泉の大浴場と同じだ。近づけない——あるいは、近づかないことを選んでいる。


「乗ったら、何が起きるの」


「欠片が現れる。そして代償を選ぶ」


 間があった。


「——俺も乗る」


 ルカは振り返った。クロが一歩、踏み出していた。彼の体がわずかに揺れている。足元の影が、月光の中で不自然に伸びていた。


「入れるの」


「分からない。だが、試す」


 その声には、今まで聞いたことのない覚悟が混じっていた。


 クロは星の馬の隣——黒い塗装の馬に手をかけた。木に触れた瞬間、彼の体が一瞬透けた。輪郭が霧のように薄くなり、すぐ戻る。苦しそうに息をついたが、手は離さなかった。


 二人は同時に馬に跨った。


 メリーゴーランドの回転が速くなった。音楽が鮮明になる。「星の世界へ」の旋律が、壊れていない完全な形で響き渡る。木馬たちの目に光が宿り、塗装が一瞬だけ元の鮮やかさを取り戻した。


 星の馬の胸元が光った。


 青い結晶が、木の内側から浮かび上がるように姿を現した。彫られた星の中心。声の欠片より一回り大きく、光がより鮮やかだった。


 ルカは手を伸ばした。


 結晶に触れた瞬間——


 記憶が剥がれた。今度は前回より速かった。何かが引き抜かれていく感覚。教室の窓。桜。誰かが振り返る。笑顔。胸が高鳴る感覚。初めて誰かを特別だと思った日。名前。声。交わした言葉。それらが色を失い、輪郭が溶け、最後には——何の感情も残らなかった。


 結晶が手の中にあった。温かさも冷たさもない。ただ、ある。


 隣で、クロの体が激しく震えていた。


 黒い馬の胸元は光っていなかった。欠片は現れていない。だがクロは何かを失っていた。木馬に触れたことで、彼の中の何かが引き出されたのだ。面がずれかけ、右目の横——頬のあたりに、青い光の筋が一本走った。涙のように。


「クロ」


 声をかけた。返事がなかった。


 メリーゴーランドが止まった。音楽が途切れ、電球が一つずつ消えていく。子供たちの影が薄れ、田村の姿も霧のように溶けていった。遊園地が、廃墟に戻っていく。


 クロが馬から降りた。足がふらついた。柵に手をつき、体を支える。面を直す手が震えている。


 ルカはクロの面を見た。最初に会ったときの罅——漆が剥げかけた古い亀裂——が、わずかに広がっている気がした。気のせいかもしれない。月光の加減かもしれない。だが面の端を走る罅が、前より深く見えた。


「何を失ったの」


 誰も口を開かなかった。月がゆっくりと空を移動していく。


「——分からない」


 声がかすれていた。


「分からないけど、胸に穴が開いた。何かがあった場所に、もう何もない」


 ルカには、その感覚が分かった。昨日、自分が経験したばかりだ。何を失ったかも分からない喪失。分からないということだけが分かる空洞。


「チヨと……関係のあるものだった気がする」


 クロの声が、一瞬だけ別の音色を帯びた。低い男の声と、高い女の声が重なるように。すぐに消えた。


「でも、何だったか……もう……」


 それ以上は言わなかった。ルカも聞かなかった。


 二人はメリーゴーランドを離れた。遊園地の出口に向かって歩く。朝はまだ遠い。だが、もうここに用はなかった。


 振り返ると、星の馬だけが月光の中に浮かんでいた。ガラスの目に、月が映っている。その光の中に、笑顔の少女が一瞬見えた気がした。バレリーナになりたかった少女。


 ルカは前を向き、歩き続けた。ポケットに二つの欠片。胸に二つの空洞。


 次の場所が、霧の向こうで待っている。

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