第7話「かつて、この世界に人間がいた」
朝。
Hotel Aequitasの従業員用宿舎。
「…………」
アラタ・ナナサキは目を覚ました。
正確には。
ほとんど眠れなかった。
「……眠い」
ベッドから身体を起こす。
原因は分かっている。
昨夜。
黒衣の宿泊客から聞いた言葉。
――知っている。
人間を知っている。
そして。
――明日、話してやる。
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
「人間、か……」
アラタは自分の手を見る。
この世界に来てから。
何度も言われた。
珍しい。
見たことがない。
何族だ。
角がない。
翼がない。
尻尾がない。
フレーレオを歩いても。
Hotel Aequitasで働いても。
自分と同じ姿をした者は一人もいない。
人間は。
アラタただ一人。
少なくとも。
今は。
だが。
昔は違った。
「……どういうことなんだ」
人間は、かつてこの世界にいた。
それなら。
なぜ今はいない。
滅びたのか。
どこかへ行ったのか。
そして。
なぜ。
別世界で死んだ自分が。
人間のいない世界へ来た。
「…………」
考えても答えは出ない。
「仕事行くか」
アラタは立ち上がった。
こういうときでも勤務はある。
世界の謎より。
出勤時間。
悲しいほどホテルマンだった。
◇
「おはようございます」
従業員用通路。
すれ違ったスタッフへ挨拶する。
「おはようございます」
返ってくる。
昨日までは。
アラタを見るたびに二度見する者が多かった。
今日も見る者はいる。
ただ。
少しずつ。
“人間”ではなく。
“新人スタッフのアラタ”として見られ始めている。
そんな気がした。
「慣れるの早いな……」
このホテルには。
それだけ多種多様な種族がいるからなのかもしれない。
「ナナサキ」
声。
振り返る。
ナナリー。
「おはようございます」
「おはようございます」
今日も隙がない。
「本日の研修予定です」
紙を渡される。
「午前はフロント補助」
「はい」
「午後は客室部門」
「はい」
「夕方より料飲部門」
「はい」
「以上です」
アラタは紙を見る。
「……詰まってますね」
「研修ですので」
「その言葉、万能ですね」
ナナリーは無視。
歩き出す。
アラタもついていく。
「そういえば」
ナナリーが言う。
「昨夜」
アラタの目が少し動く。
「例のお客様とお話をしたそうですね」
「もう情報回ってるんですか」
「業務上必要な範囲です」
「なるほど」
「何を?」
アラタは少し考える。
「人間について」
ナナリーが止まった。
振り返る。
「……何と?」
「昔、この世界に人間がいたらしいです」
「…………」
ナナリーの表情が変わる。
「知らなかった?」
「少なくとも私は」
「ブラッドリーさんは古い文献に似た記述があるって」
「総支配人が?」
「はい」
ナナリーは少し考える。
そして。
「そのお話」
一拍。
「他のスタッフには、むやみになさらないでください」
「……どうしてです?」
「まだ事実か確認できていません」
「なるほど」
「それに」
ナナリーはアラタを見る。
「あなた自身の安全にも関わる可能性があります」
アラタの表情が止まる。
「私の?」
「はい」
ナナリーはそれ以上言わない。
「行きましょう」
歩き出す。
アラタは。
その背中を見る。
(私の安全……)
また。
一つ。
気になることが増えた。
◇
午前。
フロント。
チェックアウトの時間帯。
「ありがとうございました」
「またのお越しをお待ちしております」
アラタは少し離れた場所から、スタッフの動きを見ていた。
まだ一人で精算業務はできない。
通貨。
魔導決済。
種族ごとの契約形式。
覚えることが多すぎる。
そのため今日は。
荷物。
案内。
簡単な問い合わせ対応。
「ナナサキ」
スタッフに呼ばれる。
「はい」
「こちらのお客様のお荷物を」
「承知しました」
アラタが向かう。
宿泊客。
四本腕。
大きな荷物が六個。
「…………」
一瞬。
止まる。
客が見る。
「どうした?」
「いえ」
アラタは笑顔。
「お預かりいたします」
心の中。
(多いな……!)
六個。
一人。
四本腕だからなのか。
荷物も多い。
「こちら、すべてでございますか?」
「ああ」
「承知いたしました」
タグを確認。
荷物を運ぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
重い。
「…………」
後ろ。
サンディーが見ている。
笑っている。
アラタが睨む。
「手伝ってください」
「研修」
「支配人ですよね?」
「支配人だから見守ってる」
「便利な役職だな!」
客が笑った。
「新人か?」
「はい」
「頑張れ」
「ありがとうございます……」
異世界に来て。
初めて。
普通に応援された。
少し嬉しかった。
◇
昼。
休憩。
従業員食堂。
アラタが席に座る。
目の前には。
大量の料理。
「食え」
低い声。
ガンゼフ・スキアボーネ。
料飲・調理部長。
「多いです」
「足りん」
「昨日も言いましたよね?」
「細い」
「これ普通です」
「細い」
「基準がおかしいんですよ」
ガンゼフは腕を組む。
アラタの皿を見る。
「残すな」
「分かりましたよ……」
食べる。
美味い。
それが腹立つ。
「……美味しい」
「当然だ」
即答。
「自信すごいですね」
「不味い料理を客に出す料理人がいるか」
「まあ」
正論。
ガンゼフが向かいに座る。
椅子が少し軋む。
「人間」
「アラタです」
「アラタ」
訂正した。
意外と素直。
「お前の世界では何を食う」
「色々ですよ」
「肉は?」
「食べます」
「魚」
「食べます」
「野菜」
「食べます」
「虫」
「……私はあまり」
ガンゼフが眉をひそめる。
「偏食か」
「こっち基準で判断しないでください!」
近くのスタッフが笑う。
少しずつ。
アラタにも。
Hotel Aequitasの中に。
居場所らしきものができ始めていた。
◇
午後。
客室研修。
そして夕方。
料飲部門。
研修を終えた頃には。
「……疲れた」
アラタは。
完全に消耗していた。
だが。
忘れていない。
約束。
黒衣の客。
人間について。
「ナナサキ」
ブラッドリーが来る。
「はい」
「これから?」
「行こうと思っています」
ブラッドリーは頷く。
「そうですか」
「止めないんですね」
「お客様自身がお話しになると仰ったのでしょう?」
「はい」
「でしたら」
ブラッドリーは言う。
「私が止める理由はありません」
少し間。
「ただし」
「はい」
「何を聞いても」
ブラッドリーの声が低くなる。
「すぐに信じないでください」
アラタが眉をひそめる。
「嘘をつくってことですか?」
「そうではありません」
「じゃあ?」
「歴史とは」
ブラッドリーが言う。
「見る者によって姿を変えます」
「……」
「彼が知る歴史が」
一拍。
「この世界のすべてとは限りません」
アラタは。
その言葉を覚えておく。
「分かりました」
◇
夜。
客室前。
コンコン。
「失礼いたします」
返事。
「入れ」
扉を開ける。
黒衣の客は。
昨日と同じ場所。
窓際。
テーブルには。
昨日アラタが持ってきた夜露酒。
ほとんど減っていない。
そして。
隣には。
空になったカップ。
月蜜のホットドリンク。
アラタが。
少し笑う。
「そっちは飲んだんですね」
黒衣の客が。
カップを見る。
「悪くなかった」
「気に入ってるじゃないですか」
「座れ」
無視された。
「はい」
アラタは椅子に座る。
今日は。
ホテルスタッフとしてではなく。
一人の人間として。
話を聞く。
黒衣の客が。
アラタを見る。
「何から聞きたい」
「…………」
聞きたいこと。
多すぎる。
なぜ人間はいない。
いつまでいた。
どうやって消えた。
自分が来た理由。
だが。
最初は。
「人間って」
アラタは言った。
「この世界では、どんな種族だったんですか」
黒衣の客が。
少し意外そうに見る。
「そこからか」
「はい」
「なぜ」
アラタは。
少し考える。
「消えた理由より」
一拍。
「まず、どんな人たちだったのか知りたい」
黒衣の客は。
しばらく黙る。
そして。
窓を見る。
二つの月。
「……変わらん」
「え?」
「お前と」
アラタの目が少し開く。
「角はない」
「はい」
「翼もない」
「はい」
「魔力も」
黒衣の客が。
アラタを見る。
「ほとんど持たない」
「……やっぱり私、魔法使えないんですね」
「少なくとも今はな」
「ちょっと期待してたんですけど」
「諦めろ」
「早いなあ」
黒衣の客は。
ほんの少しだけ。
笑った。
ように見えた。
「人間は」
話が戻る。
「弱かった」
「弱い」
「身体能力も」
「はい」
「魔力も」
「はい」
「寿命も」
「……」
「多くの種族に劣った」
アラタは苦笑。
「散々ですね」
「だが」
黒衣の客の声が。
少し変わる。
「異常だった」
「……何が?」
「適応する」
「適応?」
「どこにでも」
黒衣の客は続ける。
「暑い土地」
「……」
「寒い土地」
「……」
「山」
「……」
「海辺」
「……」
「魔力の薄い地域」
「……」
「他種族の都市」
アラタは。
静かに聞く。
「人間は」
黒衣の客が言う。
「弱いからこそ」
一拍。
「考えた」
「……」
「道具を作り」
「……」
「仕組みを作り」
「……」
「他者と協力した」
アラタは。
少しだけ。
胸が熱くなる。
「もちろん」
黒衣の客は続ける。
「愚かな者も多かった」
「台無しだ」
「争う」
「……」
「奪う」
「……」
「裏切る」
「……」
「自分たち同士でも戦う」
アラタは。
苦笑する。
「それも」
小さく。
「変わってないですね」
黒衣の客が。
アラタを見る。
「そうか」
「私の世界でも」
少し間。
「人間は、そんなに立派な生き物じゃありません」
「……」
「でも」
アラタは。
窓の外を見る。
「悪い人ばかりでもなかった」
黒衣の客は。
何も言わない。
「あなたが知ってる人間も」
アラタが聞く。
「そうだったんですか」
沈黙。
黒衣の客の手が。
夜露酒の瓶へ伸びる。
触れる。
だが。
注がない。
「……一人」
「はい」
「知っていた」
声が。
少しだけ。
遠くなる。
「変な男だった」
「男性?」
「ああ」
「どんな人?」
「よく喋る」
「はい」
「余計なことをする」
「はい」
「頼んでもいないことをする」
「…………」
黒衣の客が。
アラタを見る。
「お前に似ている」
アラタは顔をしかめる。
「昨日の飲み物のこと根に持ってます?」
「持っていない」
「絶対持ってる」
「だが」
黒衣の客は。
少しだけ。
目を細めた。
「悪くなかった」
アラタは。
黙る。
それは。
飲み物の話ではない。
たぶん。
昔の人間のことだ。
「その人は」
アラタが聞く。
「どうなったんです?」
長い沈黙。
そして。
「死んだ」
短い答え。
アラタは。
それ以上聞かなかった。
「……そうですか」
黒衣の客が。
夜露酒を見る。
「これを好んでいた」
「だから昨日」
「ああ」
「飲みたくなった?」
「違う」
「じゃあ?」
「味を」
一拍。
「思い出したくなった」
アラタは。
何も言わなかった。
◇
しばらく。
二人とも。
話さなかった。
アラタは。
急かさない。
やがて。
黒衣の客が。
自分から口を開く。
「人間は」
「はい」
「この世界に」
一拍。
「確かに存在した」
アラタの身体が。
わずかに前へ傾く。
「どれくらい前です?」
「正確な年月は」
黒衣の客は。
窓の外を見る。
「もう覚えていない」
「そんなに昔?」
「ああ」
「じゃあ」
アラタは。
慎重に。
「どうしていなくなったんです?」
沈黙。
今までで。
一番長い。
黒衣の客の手が。
ゆっくりと。
握られる。
「……それは」
アラタは待つ。
「知らない方がいい」
「…………」
「なぜ?」
「知れば」
黒衣の客の声が。
低くなる。
「お前は」
一拍。
「このホテルにいられなくなるかもしれない」
アラタの表情が変わる。
「Hotel Aequitasに?」
「ああ」
「どういう意味です?」
「今は言えない」
「でも」
「アラタ」
初めて。
強い声。
アラタは止まる。
黒衣の客が。
真っ直ぐ。
こちらを見る。
「お前は」
一拍。
「なぜこのホテルへ来た」
「……」
「森で目覚め」
「はい」
「フレーレオへ来て」
「はい」
「偶然」
「……」
「このホテルを見つけた」
「そうです」
黒衣の客が。
ゆっくり言う。
「本当に」
一拍。
「偶然だと思うか?」
アラタの心臓が。
大きく鳴った。
「……どういうことです?」
黒衣の客は。
答えない。
「あなたは何か知ってるんですか」
沈黙。
「私がこの世界に来た理由を?」
沈黙。
「Hotel Aequitasと関係がある?」
黒衣の客は。
目を閉じた。
「今日は」
それだけ。
「ここまでだ」
アラタは。
何か言おうとする。
だが。
止めた。
ここは客室。
相手は宿泊客。
そして。
話したくない。
そう言っている。
アラタは。
ゆっくり立ち上がった。
「分かりました」
黒衣の客が。
少し驚く。
「……聞かないのか」
「聞きたいですよ」
「なら」
「でも」
アラタは言う。
「ホテルマンが」
一拍。
「お客様に無理やり話をさせるわけにもいかないでしょう」
「……」
「また」
アラタは。
少し笑う。
「話したくなったら聞かせてください」
黒衣の客は。
何も言わない。
アラタが扉へ向かう。
「あ」
止まる。
「明日も月蜜の飲み物」
黒衣の客が。
アラタを見る。
「持ってきましょうか?」
「……」
「いらない?」
長い沈黙。
「……頼む」
アラタが笑う。
「承知いたしました」
一礼。
「おやすみなさいませ」
扉を閉じる。
◇
廊下。
アラタは。
しばらく。
動けなかった。
――本当に偶然だと思うか?
頭から離れない。
Hotel Aequitas。
なぜ。
自分は。
このホテルへ来た。
「…………」
そのとき。
「ナナサキ」
「うわっ!」
また。
ブラッドリー。
「何で毎回いるんですか!」
「通りかかりました」
「絶対嘘だ!」
「ホテルですので」
「その言葉で全部片付けないでください!」
少しだけ。
緊張が解ける。
だが。
アラタの表情を見て。
ブラッドリーの顔が変わった。
「何を聞きました?」
アラタは。
迷う。
そして。
答える。
「昔」
「はい」
「この世界に人間がいた」
ブラッドリーは黙る。
「そして」
アラタは。
Hotel Aequitasの廊下を見る。
「私がここへ来たことは」
一拍。
「偶然じゃないかもしれない」
ブラッドリーの瞳が。
ほんのわずかに。
揺れた。
アラタは。
それを見逃さなかった。
「……ブラッドリーさん?」
「…………」
「何か」
一歩。
「知ってます?」
総支配人は。
すぐには答えなかった。
やがて。
「ナナサキ」
静かな声。
「明日の朝」
「はい」
「私の執務室へ来てください」
アラタの表情が。
変わる。
「お話しします」
「何を?」
ブラッドリーは。
一拍置き。
言った。
「Hotel Aequitasというホテルが」
廊下の壁。
そこに刻まれた。
ホテルの紋章へ視線を向ける。
「なぜ」
そして。
「“Aequitas”と名付けられたのかを」
夜。
Hotel Aequitas。
静かなホテルの中で。
二つの歴史が。
ゆっくりと。
繋がり始める。
消えた人間。
そして。
Hotel Aequitas。
異世界で唯一の人間となった。
アラタ・ナナサキは。
まだ。
知らない。
自分が。
このホテルの扉をくぐった瞬間から。
止まっていた何かが。
再び。
動き始めていることを。
――第7話 完




