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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新(ウソブエ シン)


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第5話「お客様に、敵はいない。」

「予約している」


黒いローブの客が、低い声でそう告げた。


フロントスタッフが、ほんの一瞬だけ呼吸を止める。


それでも。


「かしこまりました」


声は崩れなかった。


「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」


黒衣の客は、ゆっくりと名を告げる。


その瞬間。


ロビーの空気が変わった。


アラタには、その名前が何を意味するのか分からない。


だが。


分からないからこそ。


周囲の反応が異様であることだけは分かった。


サンディーが視線を上げる。


ナナリーの表情が硬くなる。


アシュリーも笑みを消した。


ブラッドリーだけが。


変わらない。


いや。


正確には。


変わっていないように見せている。


アラタは横目でブラッドリーを見る。


「……有名な客なんですか」


小声。


ブラッドリーは答えない。


代わりに。


「ナナサキ」


「はい」


「よく見ておいてください」


「何を?」


「これから行われることを」


嫌な予感。


だが。


アラタは黙って頷いた。



フロントスタッフが予約記録を確認する。


魔導端末上に、文字と紋章が浮かぶ。


「お待たせいたしました」


スタッフの声は丁寧だった。


「確かにご予約を頂戴しております」


黒衣の客が頷く。


「部屋は」


「ご用意しております」


そのとき。


近くにいた別の宿泊客が。


小さく呟いた。


「……冗談だろ」


アラタがそちらを見る。


大型の獣人。


顔が青ざめている。


その隣の客も。


黒衣の人物を見ている。


そして。


徐々に。


ざわめきが広がっていく。


「なぜここに」


「本物なのか?」


「まさか」


「追放されたはずじゃ……」


「…………」


アラタは眉をひそめる。


何だ。


何者だ。


黒衣の客は。


騒ぎなど意に介さない。


ただ。


静かに立っている。


だが。


明らかに。


周囲は怯えている。


フロントスタッフが続ける。


「こちらへご記入をお願いいたします」


宿泊登録。


レジストレーションカードに相当するもの。


黒衣の客が手を伸ばす。


その瞬間。


一人の宿泊客が叫んだ。


「待て!」


ロビーが静まる。


声を上げたのは。


翼のある男だった。


「そいつを泊めるのか!?」


スタッフが振り向く。


「お客様」


「正気か!」


男は黒衣の客を指差した。


「そいつが何をした奴か知らないわけじゃないだろ!」


アラタの目が細くなる。


ブラッドリーが。


一歩前へ出た。


「お客様」


落ち着いた声。


「ロビーでは、どうかお声をお抑えください」


「そんな場合か!」


「他のお客様もいらっしゃいます」


「そいつも客だと言うのか!」


一瞬。


沈黙。


ブラッドリーは。


迷わず言った。


「はい」


ロビーの空気が。


さらに張り詰める。


「ご予約を頂戴し」


ブラッドリーは続ける。


「当ホテルの規則に反する行為を、現在行っていない以上」


黒衣の客を見る。


「当ホテルにとっては」


一拍。


「お客様です」


翼の男が。


怒りで震える。


「ふざけるな!」


「ふざけてはおりません」


「そいつは――!」


その先を。


黒衣の客が遮った。


「やめろ」


声。


低い。


しかし。


大きくはない。


それでも。


ロビー全体に響いた。


「私は」


ゆっくり。


「泊まりに来ただけだ」


それだけ。


だが。


その言葉には。


妙な疲れがあった。


アラタは気づく。


この客。


怒っていない。


威嚇もしていない。


むしろ。


面倒そうにしている。


疲れている。


そして。


慣れている。


こういう目で見られることに。


「……」


アラタは。


少しだけ。


自分と重ねた。


フレーレオへ来た初日。


自分も。


見られた。


耳が丸い。


角がない。


尻尾がない。


何族だ。


珍しい。


未知。


もちろん。


今の状況とは重さが違う。


けれど。


“その存在だけで見られる”。


それが。


どういうものか。


少しだけ分かった。



「お客様」


翼の男に。


今度はナナリーが近づく。


「ご不安なお気持ちは理解いたします」


「なら!」


「ですが」


ナナリーは言う。


「当ホテルでは、宿泊中のお客様に対する威嚇や暴力行為を認めておりません」


「……っ」


「これは」


ナナリーは黒衣の客を見る。


「どちらのお客様に対しても同じです」


アラタは。


その言葉を聞く。


どちらにも。


同じ。


その瞬間。


このホテルの名前が。


頭をよぎる。


Aequitas。


まだ。


意味は知らない。


だが。


ブラッドリー。


ナナリー。


サンディー。


皆が。


同じものを守っている。


そんな気がした。


翼の男は。


悔しそうに黒衣の客を睨む。


そして。


吐き捨てるように言った。


「……何かあったら」


ブラッドリーを見る。


「責任を取れ」


「もちろんです」


ブラッドリーは一礼する。


男は去った。


他の客も。


完全には納得していない。


だが。


少しずつ。


ロビーに日常が戻っていく。


アラタは。


息を吐いた。


「……すごいな」


ブラッドリーがこちらを見る。


「何がです?」


「いや」


アラタは少し迷う。


「普通、怖くないですか」


「何がでしょう」


「今の客」


黒衣の人物を見る。


「あれだけ周りが怯えてる」


「ええ」


「危険人物なんでしょう?」


ブラッドリーは少し黙る。


そして。


「危険かもしれません」


「かもしれない?」


「はい」


「それでも泊める?」


ブラッドリーは。


当然のように答えた。


「予約がありますので」


「……」


「そして」


少しだけ声を低くする。


「ホテルの中では」


一拍。


「ホテルのルールに従っていただきます」


その言い方に。


絶対の自信があった。


「外で誰であろうと」


ブラッドリーは続ける。


「何をしていようと」


「……」


「この扉をくぐった以上」


正面玄関を見る。


「ここでは宿泊客です」


アラタは。


黙る。


“この扉をくぐった者に、敵はいない”。


まだ。


言葉として聞いてはいない。


だが。


その理念が。


目の前にあった。



チェックインが続く。


黒衣の客は。


淡々と必要事項を記入する。


フロントスタッフも。


仕事に徹している。


アラタは。


少し離れた位置で見ていた。


サンディーが横に来る。


「どう思う」


「いきなり難問ですね」


「研修だからな」


「今日それ何回目だよ」


サンディーが笑う。


「で?」


アラタは考える。


「……正しいかどうかは分からない」


「うん」


「でも」


黒衣の客を見る。


「ホテルとしては、ああするしかないんじゃないですか」


「なぜ?」


「だって」


アラタは言う。


「ホテルが客の過去まで裁き始めたら」


少し間。


「接客じゃなくなる」


サンディーの表情が。


少しだけ変わった。


「ほう」


「もちろん犯罪とか、ホテル内で危険行為をしたら別です」


「うん」


「でも」


「うん」


「ただ嫌われてるから泊めない」


アラタは首を振る。


「それはホテルの仕事じゃない」


サンディーは。


少し笑った。


「やっぱり向いてるよ、お前」


「その言葉、聞きたくないです」


「褒めてるのに」


「ホテルマンに戻りたくない人間には悪口です」


「めんどくさいな」


「自覚あります」



チェックインが終わる。


黒衣の客が。


ルームキーを受け取る。


「お部屋までご案内いたします」


スタッフが言う。


だが。


黒衣の客は。


「不要だ」


「かしこまりました」


「荷物もない」


「承知いたしました」


客は。


歩き出す。


そのとき。


何となく。


アラタと目が合った。


ローブの奥。


光る瞳。


アラタは。


反射的に。


少し頭を下げた。


客が止まる。


「……」


アラタも止まる。


「何だ」


「いや」


「なぜ頭を下げた」


「何でって」


アラタは困る。


「お客様だから」


沈黙。


黒衣の客の瞳が。


少しだけ細くなる。


「お前」


低い声。


「見ない顔だ」


「今日から働いてます」


「種族は」


またそれ。


アラタは。


もう慣れ始めていた。


「人間です」


黒衣の客が。


完全に止まった。


「……人間」


その言い方。


昨日のブラッドリーと。


少し似ていた。


「知ってるんですか」


アラタが聞く。


その瞬間。


ブラッドリーが。


ほんの少し動いた。


だが。


黒衣の客は。


答えなかった。


「……そうか」


それだけ。


そして。


歩き出す。


アラタは。


その背中を見る。


「……何なんだ?」


サンディーは。


答えない。


「聞いても無駄?」


「今はな」


「このホテル、秘密多くないですか」


「長く働けば分かる」


「長期勤務誘導やめてください」



夕方。


館内研修。


アラタは。


ナナリーと共にフロントバックにいた。


「今日の件について」


ナナリーが言う。


「一つ覚えてください」


「はい」


「ホテルでは」


一冊の規則集を開く。


「客室を提供した時点で」


「うん」


「お客様の安全を守る責任が生じます」


アラタは頷く。


「だから」


「はい」


「黒衣の客だけ守るんじゃない」


「その通りです」


「他の客も守る」


「はい」


「つまり」


アラタは腕を組む。


「さっきみたいに周囲が敵視してる客を泊めるなら」


「……」


「むしろ普通の客より警戒が必要」


ナナリーの目が少しだけ動く。


「よく分かりましたね」


「ホテルマンだったので」


「元」


「もういいです、そのやり取り」


ナナリーは。


少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


アラタは驚く。


「今笑いました?」


「笑っていません」


「絶対笑いましたよね」


「研修を続けます」


「逃げた」


ナナリーは無視。


「こうした特別な配慮が必要な宿泊客については」


説明が続く。


要注意客。


VIP。


身体的配慮。


警備対応。


そして。


特別な事情がある客。


ホテルでは。


客の事情に応じて。


関係部署へ情報共有が必要になる。


ただし。


何でもかんでも共有するわけではない。


必要な情報だけ。


必要な者に。


それも。


ホテルマンにとって重要な仕事。


「……難しいな」


アラタが呟く。


「何がです?」


「知りすぎても駄目」


「はい」


「知らなさすぎても駄目」


「はい」


「客の秘密は守る」


「はい」


「でも安全のためには共有する」


「その通りです」


「……面倒」


「ホテルですから」


「この世界でも同じなんだな」


アラタは笑った。



夜。


研修を終え。


従業員用居住区へ戻ろうとする。


「ナナサキ」


ブラッドリー。


「はい」


「少しよろしいですか」


アラタは。


足を止める。


「また仕事です?」


「少しだけ」


「嫌な予感」


「その言葉、好きですね」


「このホテル来てから増えました」


ブラッドリーは。


ロビー奥。


静かな場所へアラタを連れていく。


「本日の宿泊客について」


「黒いローブの?」


「はい」


アラタは。


真面目な顔になる。


「危険なんですか」


ブラッドリーは。


すぐには答えない。


「ナナサキ」


「はい」


「先ほど」


「うん」


「彼に種族を問われましたね」


「聞かれました」


「人間と答えた」


「はい」


ブラッドリーの目が。


少し鋭くなる。


「そして」


一拍。


「彼は、驚いた」


アラタも。


それには気づいていた。


「……知ってるんですかね」


「可能性はあります」


「人間を?」


「ええ」


アラタの胸が。


少しだけざわつく。


この世界に。


人間はいない。


少なくとも。


今まで。


誰も見たことがない。


なのに。


黒衣の客は。


“人間”という言葉に。


明らかに反応した。


「じゃあ」


アラタは言う。


「俺以外にも」


一拍。


「いるんですか」


ブラッドリーは。


答えない。


「……総支配人」


「現時点では」


ブラッドリーは静かに言う。


「私にも分かりません」


「本当に?」


「本当に」


少しだけ。


間。


そして。


「ですが」


ブラッドリーは。


黒衣の客が向かった上階を見る。


「彼が何かを知っている可能性はあります」


アラタの表情が変わる。


自分が。


なぜこの世界に来たのか。


なぜ。


言葉が分かるのか。


なぜ。


文字が読めるのか。


なぜ。


人間がいない世界に。


人間として。


転生したのか。


今まで。


考えないようにしていた疑問が。


一気に押し寄せる。


「……話、聞けますか」


「それは」


ブラッドリーが言う。


「あなた次第です」


「え?」


「彼は」


一拍。


「お客様です」


アラタは。


黙る。


「こちらの都合で」


ブラッドリーは続ける。


「過去や事情を詮索することはできません」


「……」


「知りたいのであれば」


アラタを見る。


「まず」


穏やかに。


「信頼していただくことです」


アラタは。


少し笑う。


「ホテルマンらしいですね」


「総支配人ですので」


「またそれ」


ブラッドリーも笑う。


そのとき。


上階。


黒衣の客の部屋。


閉ざされた扉の向こう。


客は。


一人。


窓辺に立っていた。


ローブを外す。


月明かり。


その顔は。


まだ見えない。


ただ。


低い声で。


一言。


「人間……」


呟く。


そして。


「まさか」


その手が。


小さく震える。


「まだ、残っていたのか」


夜。


Hotel Aequitas。


誰にも知られず。


アラタの存在が。


一つの過去を。


静かに呼び覚まし始めていた。


――第5話 完


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