第5話「お客様に、敵はいない。」
「予約している」
黒いローブの客が、低い声でそう告げた。
フロントスタッフが、ほんの一瞬だけ呼吸を止める。
それでも。
「かしこまりました」
声は崩れなかった。
「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
黒衣の客は、ゆっくりと名を告げる。
その瞬間。
ロビーの空気が変わった。
アラタには、その名前が何を意味するのか分からない。
だが。
分からないからこそ。
周囲の反応が異様であることだけは分かった。
サンディーが視線を上げる。
ナナリーの表情が硬くなる。
アシュリーも笑みを消した。
ブラッドリーだけが。
変わらない。
いや。
正確には。
変わっていないように見せている。
アラタは横目でブラッドリーを見る。
「……有名な客なんですか」
小声。
ブラッドリーは答えない。
代わりに。
「ナナサキ」
「はい」
「よく見ておいてください」
「何を?」
「これから行われることを」
嫌な予感。
だが。
アラタは黙って頷いた。
◇
フロントスタッフが予約記録を確認する。
魔導端末上に、文字と紋章が浮かぶ。
「お待たせいたしました」
スタッフの声は丁寧だった。
「確かにご予約を頂戴しております」
黒衣の客が頷く。
「部屋は」
「ご用意しております」
そのとき。
近くにいた別の宿泊客が。
小さく呟いた。
「……冗談だろ」
アラタがそちらを見る。
大型の獣人。
顔が青ざめている。
その隣の客も。
黒衣の人物を見ている。
そして。
徐々に。
ざわめきが広がっていく。
「なぜここに」
「本物なのか?」
「まさか」
「追放されたはずじゃ……」
「…………」
アラタは眉をひそめる。
何だ。
何者だ。
黒衣の客は。
騒ぎなど意に介さない。
ただ。
静かに立っている。
だが。
明らかに。
周囲は怯えている。
フロントスタッフが続ける。
「こちらへご記入をお願いいたします」
宿泊登録。
レジストレーションカードに相当するもの。
黒衣の客が手を伸ばす。
その瞬間。
一人の宿泊客が叫んだ。
「待て!」
ロビーが静まる。
声を上げたのは。
翼のある男だった。
「そいつを泊めるのか!?」
スタッフが振り向く。
「お客様」
「正気か!」
男は黒衣の客を指差した。
「そいつが何をした奴か知らないわけじゃないだろ!」
アラタの目が細くなる。
ブラッドリーが。
一歩前へ出た。
「お客様」
落ち着いた声。
「ロビーでは、どうかお声をお抑えください」
「そんな場合か!」
「他のお客様もいらっしゃいます」
「そいつも客だと言うのか!」
一瞬。
沈黙。
ブラッドリーは。
迷わず言った。
「はい」
ロビーの空気が。
さらに張り詰める。
「ご予約を頂戴し」
ブラッドリーは続ける。
「当ホテルの規則に反する行為を、現在行っていない以上」
黒衣の客を見る。
「当ホテルにとっては」
一拍。
「お客様です」
翼の男が。
怒りで震える。
「ふざけるな!」
「ふざけてはおりません」
「そいつは――!」
その先を。
黒衣の客が遮った。
「やめろ」
声。
低い。
しかし。
大きくはない。
それでも。
ロビー全体に響いた。
「私は」
ゆっくり。
「泊まりに来ただけだ」
それだけ。
だが。
その言葉には。
妙な疲れがあった。
アラタは気づく。
この客。
怒っていない。
威嚇もしていない。
むしろ。
面倒そうにしている。
疲れている。
そして。
慣れている。
こういう目で見られることに。
「……」
アラタは。
少しだけ。
自分と重ねた。
フレーレオへ来た初日。
自分も。
見られた。
耳が丸い。
角がない。
尻尾がない。
何族だ。
珍しい。
未知。
もちろん。
今の状況とは重さが違う。
けれど。
“その存在だけで見られる”。
それが。
どういうものか。
少しだけ分かった。
◇
「お客様」
翼の男に。
今度はナナリーが近づく。
「ご不安なお気持ちは理解いたします」
「なら!」
「ですが」
ナナリーは言う。
「当ホテルでは、宿泊中のお客様に対する威嚇や暴力行為を認めておりません」
「……っ」
「これは」
ナナリーは黒衣の客を見る。
「どちらのお客様に対しても同じです」
アラタは。
その言葉を聞く。
どちらにも。
同じ。
その瞬間。
このホテルの名前が。
頭をよぎる。
Aequitas。
まだ。
意味は知らない。
だが。
ブラッドリー。
ナナリー。
サンディー。
皆が。
同じものを守っている。
そんな気がした。
翼の男は。
悔しそうに黒衣の客を睨む。
そして。
吐き捨てるように言った。
「……何かあったら」
ブラッドリーを見る。
「責任を取れ」
「もちろんです」
ブラッドリーは一礼する。
男は去った。
他の客も。
完全には納得していない。
だが。
少しずつ。
ロビーに日常が戻っていく。
アラタは。
息を吐いた。
「……すごいな」
ブラッドリーがこちらを見る。
「何がです?」
「いや」
アラタは少し迷う。
「普通、怖くないですか」
「何がでしょう」
「今の客」
黒衣の人物を見る。
「あれだけ周りが怯えてる」
「ええ」
「危険人物なんでしょう?」
ブラッドリーは少し黙る。
そして。
「危険かもしれません」
「かもしれない?」
「はい」
「それでも泊める?」
ブラッドリーは。
当然のように答えた。
「予約がありますので」
「……」
「そして」
少しだけ声を低くする。
「ホテルの中では」
一拍。
「ホテルのルールに従っていただきます」
その言い方に。
絶対の自信があった。
「外で誰であろうと」
ブラッドリーは続ける。
「何をしていようと」
「……」
「この扉をくぐった以上」
正面玄関を見る。
「ここでは宿泊客です」
アラタは。
黙る。
“この扉をくぐった者に、敵はいない”。
まだ。
言葉として聞いてはいない。
だが。
その理念が。
目の前にあった。
◇
チェックインが続く。
黒衣の客は。
淡々と必要事項を記入する。
フロントスタッフも。
仕事に徹している。
アラタは。
少し離れた位置で見ていた。
サンディーが横に来る。
「どう思う」
「いきなり難問ですね」
「研修だからな」
「今日それ何回目だよ」
サンディーが笑う。
「で?」
アラタは考える。
「……正しいかどうかは分からない」
「うん」
「でも」
黒衣の客を見る。
「ホテルとしては、ああするしかないんじゃないですか」
「なぜ?」
「だって」
アラタは言う。
「ホテルが客の過去まで裁き始めたら」
少し間。
「接客じゃなくなる」
サンディーの表情が。
少しだけ変わった。
「ほう」
「もちろん犯罪とか、ホテル内で危険行為をしたら別です」
「うん」
「でも」
「うん」
「ただ嫌われてるから泊めない」
アラタは首を振る。
「それはホテルの仕事じゃない」
サンディーは。
少し笑った。
「やっぱり向いてるよ、お前」
「その言葉、聞きたくないです」
「褒めてるのに」
「ホテルマンに戻りたくない人間には悪口です」
「めんどくさいな」
「自覚あります」
◇
チェックインが終わる。
黒衣の客が。
ルームキーを受け取る。
「お部屋までご案内いたします」
スタッフが言う。
だが。
黒衣の客は。
「不要だ」
「かしこまりました」
「荷物もない」
「承知いたしました」
客は。
歩き出す。
そのとき。
何となく。
アラタと目が合った。
ローブの奥。
光る瞳。
アラタは。
反射的に。
少し頭を下げた。
客が止まる。
「……」
アラタも止まる。
「何だ」
「いや」
「なぜ頭を下げた」
「何でって」
アラタは困る。
「お客様だから」
沈黙。
黒衣の客の瞳が。
少しだけ細くなる。
「お前」
低い声。
「見ない顔だ」
「今日から働いてます」
「種族は」
またそれ。
アラタは。
もう慣れ始めていた。
「人間です」
黒衣の客が。
完全に止まった。
「……人間」
その言い方。
昨日のブラッドリーと。
少し似ていた。
「知ってるんですか」
アラタが聞く。
その瞬間。
ブラッドリーが。
ほんの少し動いた。
だが。
黒衣の客は。
答えなかった。
「……そうか」
それだけ。
そして。
歩き出す。
アラタは。
その背中を見る。
「……何なんだ?」
サンディーは。
答えない。
「聞いても無駄?」
「今はな」
「このホテル、秘密多くないですか」
「長く働けば分かる」
「長期勤務誘導やめてください」
◇
夕方。
館内研修。
アラタは。
ナナリーと共にフロントバックにいた。
「今日の件について」
ナナリーが言う。
「一つ覚えてください」
「はい」
「ホテルでは」
一冊の規則集を開く。
「客室を提供した時点で」
「うん」
「お客様の安全を守る責任が生じます」
アラタは頷く。
「だから」
「はい」
「黒衣の客だけ守るんじゃない」
「その通りです」
「他の客も守る」
「はい」
「つまり」
アラタは腕を組む。
「さっきみたいに周囲が敵視してる客を泊めるなら」
「……」
「むしろ普通の客より警戒が必要」
ナナリーの目が少しだけ動く。
「よく分かりましたね」
「ホテルマンだったので」
「元」
「もういいです、そのやり取り」
ナナリーは。
少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
アラタは驚く。
「今笑いました?」
「笑っていません」
「絶対笑いましたよね」
「研修を続けます」
「逃げた」
ナナリーは無視。
「こうした特別な配慮が必要な宿泊客については」
説明が続く。
要注意客。
VIP。
身体的配慮。
警備対応。
そして。
特別な事情がある客。
ホテルでは。
客の事情に応じて。
関係部署へ情報共有が必要になる。
ただし。
何でもかんでも共有するわけではない。
必要な情報だけ。
必要な者に。
それも。
ホテルマンにとって重要な仕事。
「……難しいな」
アラタが呟く。
「何がです?」
「知りすぎても駄目」
「はい」
「知らなさすぎても駄目」
「はい」
「客の秘密は守る」
「はい」
「でも安全のためには共有する」
「その通りです」
「……面倒」
「ホテルですから」
「この世界でも同じなんだな」
アラタは笑った。
◇
夜。
研修を終え。
従業員用居住区へ戻ろうとする。
「ナナサキ」
ブラッドリー。
「はい」
「少しよろしいですか」
アラタは。
足を止める。
「また仕事です?」
「少しだけ」
「嫌な予感」
「その言葉、好きですね」
「このホテル来てから増えました」
ブラッドリーは。
ロビー奥。
静かな場所へアラタを連れていく。
「本日の宿泊客について」
「黒いローブの?」
「はい」
アラタは。
真面目な顔になる。
「危険なんですか」
ブラッドリーは。
すぐには答えない。
「ナナサキ」
「はい」
「先ほど」
「うん」
「彼に種族を問われましたね」
「聞かれました」
「人間と答えた」
「はい」
ブラッドリーの目が。
少し鋭くなる。
「そして」
一拍。
「彼は、驚いた」
アラタも。
それには気づいていた。
「……知ってるんですかね」
「可能性はあります」
「人間を?」
「ええ」
アラタの胸が。
少しだけざわつく。
この世界に。
人間はいない。
少なくとも。
今まで。
誰も見たことがない。
なのに。
黒衣の客は。
“人間”という言葉に。
明らかに反応した。
「じゃあ」
アラタは言う。
「俺以外にも」
一拍。
「いるんですか」
ブラッドリーは。
答えない。
「……総支配人」
「現時点では」
ブラッドリーは静かに言う。
「私にも分かりません」
「本当に?」
「本当に」
少しだけ。
間。
そして。
「ですが」
ブラッドリーは。
黒衣の客が向かった上階を見る。
「彼が何かを知っている可能性はあります」
アラタの表情が変わる。
自分が。
なぜこの世界に来たのか。
なぜ。
言葉が分かるのか。
なぜ。
文字が読めるのか。
なぜ。
人間がいない世界に。
人間として。
転生したのか。
今まで。
考えないようにしていた疑問が。
一気に押し寄せる。
「……話、聞けますか」
「それは」
ブラッドリーが言う。
「あなた次第です」
「え?」
「彼は」
一拍。
「お客様です」
アラタは。
黙る。
「こちらの都合で」
ブラッドリーは続ける。
「過去や事情を詮索することはできません」
「……」
「知りたいのであれば」
アラタを見る。
「まず」
穏やかに。
「信頼していただくことです」
アラタは。
少し笑う。
「ホテルマンらしいですね」
「総支配人ですので」
「またそれ」
ブラッドリーも笑う。
そのとき。
上階。
黒衣の客の部屋。
閉ざされた扉の向こう。
客は。
一人。
窓辺に立っていた。
ローブを外す。
月明かり。
その顔は。
まだ見えない。
ただ。
低い声で。
一言。
「人間……」
呟く。
そして。
「まさか」
その手が。
小さく震える。
「まだ、残っていたのか」
夜。
Hotel Aequitas。
誰にも知られず。
アラタの存在が。
一つの過去を。
静かに呼び覚まし始めていた。
――第5話 完




