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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新


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第41話「その部屋にいる者」

 ROOM 00――OCCUPIED。


 その表示が消えたあとも、零号室の空気はしばらく動かなかった。誰もが目の前に残された文字の意味を理解しようとしているようで、部屋の中には妙な沈黙が漂っている。アラタは扉の前に立ったまま、先ほどまで表示されていたホテルシステムの文字を頭の中で何度も繰り返していた。


 OCCUPIED――それはホテルマンにとって、決して難しい言葉ではない。客室が使用中であることを示す、ごく一般的なステータスだ。空室ならVACANT、清掃中ならその旨が表示され、宿泊客が入ればOCCUPIEDになる。これまでホテルAequitasのシステムにも、それと同じ概念が存在していた。


 だが、この部屋だけは違う。

 零号室は、これまで誰も泊まっていない。少なくとも、アラタたちが知る限りではそうだった。それなのに今、ホテルは明確に「誰かがいる」と判断している。


「……アレン。ここに、誰かいるのか?」

 アラタが尋ねると、部屋の中央に立っていたアレンは静かに首を横へ振った。彼自身も何かを感じ取ろうとしているのか、目を閉じながら零号室の奥へ意識を向けている。しかし、その表情には困惑が浮かんでいた。

「わからない。だけど……誰かがいるような気はする」

「誰か、というのは?」

「僕じゃない。少なくとも、僕が感じているのは僕自身じゃないんだ」

 その答えを聞いた瞬間、アラタの背筋に冷たいものが走った。アレン自身が零号室に入ったことでOCCUPIEDになったのであれば、それはまだ理解できる。しかし、アレンが「自分ではない誰か」を感じているのなら、この表示は別の存在を示している可能性がある。

 ナナリーが慎重に室内を見回しながら、低い声で言った。

「この部屋……以前とは違います」

「やっぱり、そう思うか」

「はい。空気そのものが変わっています。先ほどまでは、どこか『何もない』という感じでした。でも今は……何かが、この部屋の中に存在しているように感じます」

 ブラッドリーも黙って扉の向こうを見つめていた。普段ならばホテルの異常事態であっても冷静さを崩さない総支配人だが、今ばかりは表情が険しい。サンディーも腕を組み、零号室の奥に視線を固定している。

 アラタは一度だけ深く息を吸った。

 ホテルの客室であれば、本来は客室内に何があるのかを確認することは難しくない。ルームキーで開錠し、客室の状態を確認し、必要ならばゲストへ声をかける。それがホテルマンとしての基本だ。しかし、ここは普通の客室ではない。ましてや零号室は、十二人の人間が戻ってきた現象と深く関わり、原初天秤やノアとも繋がっている場所だ。

 何が待っているのか分からない以上、無闇に踏み込むべきではない。

 それでもアラタは扉へ手を伸ばした。

「私が確認する」

「アラタ様」

 ナナリーが止めようとしたが、アラタは小さく首を振った。

「大丈夫です。何かあったらすぐに戻ります。それに……ここが客室なら、まず確認するべきなのは宿泊客の安全です」

 その言葉に、ブラッドリーが静かに頷いた。

「それが君の答えか」

「はい。何者なのか分からなくても、ここにいる存在を最初から敵だと決めつけるつもりはありません。ホテルにいる以上、まずはゲストとして扱う。それが私たちのやり方です」

 アラタはそう言って、零号室の扉を開いた。

 ――何もない。

 最初にそう思った。

 部屋の中にはベッドがあり、テーブルがあり、照明もある。ホテルの客室として見れば、ごく普通の構造をしている。しかし、十二人の人間が泊まっている客室とは違い、そこには生活の痕跡が一切なかった。荷物も、衣服も、食器もない。誰かが滞在しているようには見えない。

 それなのに、ホテルシステムはOCCUPIEDを表示している。

 アラタは一歩、室内へ入った。

 その瞬間だった。

 客室の照明が、ゆっくりと明滅した。

 アラタは足を止める。次の瞬間、ベッド脇に設置されている小さな端末へ、文字が浮かび上がった。

 ――GUEST STATUS.

 アラタは息を呑んだ。

 続いて表示された文字を見て、さらに眉を寄せる。

 ――CHECK-IN : ACTIVE.

 宿泊状態が、アクティブになっている。

「……誰かが、チェックインしている?」

 背後からサンディーが声を上げた。

「でも、そんな記録はありません。アレンを除けば、この部屋に宿泊登録された者はいないはずです」

「アレンの登録は……?」

「客室番号がありません」

 その答えに、アラタは端末へ視線を戻した。

 アレンは確かにホテルシステムへ登録された。しかし、その登録は通常の宿泊客とは異なっている。Guest No.13として存在を認められ、名前も「ALLEN」として登録された。それでも、部屋番号は与えられていなかった。

 つまり、このOCCUPIEDがアレンを意味しているとは限らない。

 むしろ、別の誰かがいる。

 その可能性が頭をよぎった直後、端末の表示が切り替わった。

 ――ROOM 00.

 そして、その下に一行だけ新しい文字が現れる。

 ――REGISTERED GUEST : UNKNOWN.

「……UNKNOWN?」

 アラタが呟いた瞬間、背後にいたアレンが突然顔を上げた。

「この名前……」

「知っているのか?」

「名前じゃない。これは……」

 アレンは胸元を押さえた。苦しそうな表情ではない。ただ、何か遠い記憶を探っているようだった。

「僕が生まれる前から、知っているような気がする」

 その言葉に、アラタは振り返った。

「生まれる前?」

「うん。でも、僕には生まれた記憶がない。気づいたときには、あの場所にいたから」

 アレンの言葉は、これまで聞いてきた彼自身の存在と一致していた。

 彼は十二人の帰還者ではない。

 人間としてこの世界へ戻ってきたわけでもない。

 十二人が戻ったことによって生じた「空白」から現れた、世界の外側に残された情報のような存在。それがアレンだった。

 だからこそ、彼の過去には「生まれる」という普通の概念すら存在しないのかもしれない。

「……ノアも、この部屋を知っているのか?」

 アラタが尋ねると、アレンはしばらく黙った。

「わからない。でも、さっきから一つだけ、頭の中に浮かんでる」

「何が?」

「『ここには、帰る場所を持たない者がいる』って」

 室内の空気が変わった。

 アラタは無意識に端末を見た。

 UNKNOWN。

 その表示が、まるで誰かの存在を隠すために設定されたもののように思えてくる。

 そのときだった。

 客室の電話が鳴った。

 突然の音に、全員の視線が電話へ集中する。ホテルの客室で電話が鳴ること自体は珍しくない。フロントからの内線であれば、それは日常的な業務の一つだ。しかし、ここは零号室だ。これまで、この部屋からも、この部屋へも、通常のホテル設備を介した連絡が成立したことはなかった。

 アラタはゆっくりと受話器へ手を伸ばした。

「私です。フロントのアラタです」

 返事はない。

 ただ、微かなノイズだけが聞こえている。

 アラタは耳を澄ました。

 そして、そのノイズの向こうから、声が聞こえた。

『……やっと、見つけた』

 アラタの目が見開かれる。

 その声を知っている。

「……ノア?」

『違う』

 返ってきた答えは短かった。しかし、その声にはノアとは明らかに異なる響きがあった。

『私は、ノアではない』

「あなたは誰ですか?」

『それを、君たちが知る必要はない』

 アラタは受話器を握り直した。

「ここはHotel Aequitasです。宿泊客に用件があるなら、まず名乗ってください」

 自分でも妙な状況だと思った。

 世界の境界にあるかもしれない零号室から、正体不明の存在と電話で話している。それなのに、口から出てくるのはホテルマンとしての、ごく当たり前の言葉だった。

 相手はしばらく沈黙した。

 やがて、低い声が返ってくる。

『……なるほど。だから君なのか』

「何がです?」

『原初天秤が選んだのではない。ホテルが、君を選んだ』

 その瞬間、アラタの表情が変わった。

「原初天秤が……私を?」

『違う。君ではない。君がいる場所を、だ』

 受話器の向こうで、何かが軋むような音がした。

『十二人が戻った。空白が開いた。そして十三番目が現れた。だが、それで終わりではない』

「……何が始まるんですか?」

『チェックインだ』

 その言葉を最後に、電話は切れた。

 アラタはしばらく受話器を耳に当てたまま動かなかった。

 やがてゆっくりと戻し、全員へ振り返る。

「……チェックイン、だそうです」

 その瞬間、客室の端末が再び点灯した。

 ――GUEST ARRIVAL.

 画面の中央に、ホテルのシステムが表示される。

 そして、その下に続く文字を見た瞬間、アラタは息を止めた。

 ――NEXT GUEST : NOT HUMAN.

 誰も言葉を発しなかった。

 人間ではない。

 その一文だけが、異様な存在感を放っている。

 しかしアラタは、すぐには恐怖を感じなかった。むしろ頭の中に浮かんだのは、これまでホテルで何度も経験してきた、ごく当たり前の業務だった。

 予約が入ったのなら、受け入れる準備をしなければならない。

 客が到着するなら、フロントで迎えなければならない。

 そして、その客がどのような存在であろうと、安全に滞在できる場所を用意する。それがHotel Aequitasというホテルの仕事だ。

 ただし、今回は一つだけ問題がある。

 その「客」が、世界のどこから来るのか。

 アラタがそう考えた瞬間、零号室の扉の向こうから、ゆっくりと足音が聞こえてきた。

 誰もいないはずの廊下から、こちらへ近づいてくる。

 一歩。

 また一歩。

 足音は確実に零号室へ近づいている。

 アラタは扉を見つめたまま、静かに息を整えた。

 隣ではブラッドリーが身構え、ナナリーも警戒を強めている。アレンだけは、なぜか怯えることなく扉を見つめていた。その瞳には恐怖よりも、どこか懐かしいものを待っているような色が浮かんでいる。

 そして――足音が止まった。

 零号室の扉が、外側から三度、ゆっくりと叩かれる。

 コン、コン、コン。

 アラタは扉の前まで歩いた。

 ホテルマンとして、宿泊客を迎えるために。

 未知の存在を恐れる一人の人間としてではなく、Hotel Aequitasのスタッフとして。

 そして、ゆっくりと扉を開いた。

 そこに立っていたのは、誰の記憶にも存在しない姿だった。

 人の形をしている。

 しかし、人間ではない。

 その存在はアラタを見ると、静かに微笑んだ。

「……チェックインをお願いします」

 その声を聞いた瞬間、ホテル全体にチャイムが鳴り響いた。

 ――GUEST ARRIVAL CONFIRMED.

 そして最後に、システムが一つの客室情報を表示する。

 ――ROOM 00 : OCCUPIED.

 零号室に、二人目の存在が入った。

 その瞬間、アラタは理解した。

 これまで自分たちは、「帰ってきた者」を迎えていたのだ。

 しかし、これから始まるのは違う。

 ここからHotel Aequitasへやって来るのは、帰還者だけではない。

 世界に存在するはずのなかったもの。

 人間でも、この世界の住人でもないもの。

 そして、もしかすると――世界そのものが「客」として送り込んでくるものまで。

 ホテルのフロントに立つアラタの仕事は、これまでと何も変わらない。

 客が来れば、迎える。

 名前を尋ね、滞在場所を用意し、安全を守る。

 ただ、その「客」が世界の理そのものを揺るがす存在だったとしても。

 アラタは、もう逃げるつもりはなかった。


「ようこそ、Hotel Aequitasへ」


 そう告げた瞬間、零号室の奥で、誰かが静かに笑った。


 そしてその笑い声は、どこかで聞いたことのある声だった。


 ――ノアの声に、よく似ていた。


――第41話 完

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