第42話「ようこそ、世界の外から」
零号室の扉が閉じたあとも、アラタはしばらくその場から動かなかった。目の前にいる存在は、確かに人の姿をしている。しかし、先ほどホテルシステムが明確に表示した通り、それは人間ではない。十二人の帰還者とは違い、かつてこの世界に生きていた人間が戻ってきたわけでもなく、アレンのように「空白」から生まれた存在とも異なるらしい。何者なのか、どこから来たのか、そしてなぜHotel Aequitasの零号室へ現れたのか、そのすべてが分からない。それでも、アラタが最初に確認しなければならないことは一つだった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
アラタがホテルマンとして尋ねると、その存在は穏やかな表情を浮かべたまま、しばらくアラタを見つめていた。敵意はない。しかし、それ以上に不思議なのは、まるでアラタがそう尋ねることを最初から知っていたような反応だった。
「名前……ですか」
「はい。宿泊登録に必要になりますので」
「なるほど。あなたは、本当にそういう人なのですね」
「……どういう意味でしょう?」
「何も分からないものを前にしても、まず宿泊登録のことを考える。普通なら、もっと別のことを聞くでしょう」
アラタは返事に困った。確かに、この状況で最初に名前を尋ねるのは普通ではないのかもしれない。しかし、ホテルという場所では、相手が誰であろうと、まずゲストとして受け入れるための情報を確認する必要がある。名前が分からなければ予約も登録もできないし、部屋を割り当てることも難しい。それは異世界へ来てからも変わらなかった。
「私はホテルマンですから。お客様が何者なのかを決めつける前に、まず安全に泊まれる場所を用意する。それが私の仕事です」
その言葉を聞くと、目の前の存在はほんの少しだけ目を細めた。
「……ホテルマン」
その言葉を口の中で確かめるように呟き、やがて静かに答える。
「では、名前は――セラと呼んでください」
アラタはその名前を聞いた瞬間、何か引っかかるものを覚えた。しかし、それが何なのかまでは分からない。少なくとも、アレンのように名前を自分で選んだという雰囲気ではない。まるで以前からその名前を持っていたかのように、自然な口調だった。
「セラさんですね。それでは宿泊登録を――」
アラタが端末へ手を伸ばした瞬間、画面が暗転した。
そして、今まで見たことのない表示が浮かび上がる。
――GUEST REGISTRATION.
――ERROR.
アラタの手が止まった。
さらに一行、文字が追加される。
――ENTITY CANNOT BE REGISTERED.
「……また、ですか」
アレンの登録時にも、ホテルシステムは通常とは異なる反応を示した。Guest No.13として登録されたものの、部屋番号が決まらず、最終的には「TRUE NAME REQUIRED」と表示された。その後、アレンという名前を得ることでようやくチェックインが成立した。しかし、今回は事情が違う。
セラはすでに自分の名前を持っている。
それなのに登録できない。
アラタが画面を見つめていると、ブラッドリーが一歩前へ出た。
「その存在は、ホテルの宿泊者として認識されていないのか?」
「いえ……少し違います」
アラタは表示を確認しながら答えた。
「認識されていないというより、ホテルが登録することそのものを拒否しているように見えます」
ナナリーが端末を覗き込む。
「アレン様のときとは違うのですね」
「はい。アレンの場合は情報が不足していました。でも今回は、情報があるのに登録できない」
その言葉を聞いたセラが、静かに笑った。
「当然でしょう」
「当然?」
「私は、宿泊客ではありませんから」
アラタは顔を上げた。
「……それなら、なぜここへ?」
「分かりません」
あまりにも淡々とした答えだった。
「気づいたときには、ここへ向かっていました。あなたのホテルへ来なければならない。そう思っていただけです」
「誰かに呼ばれたわけでは?」
「いいえ」
「ノアは?」
その名前を出した瞬間、セラの表情が初めて変化した。
ほんの一瞬だった。
しかし、アラタは見逃さなかった。
「……その名前を、どこで知ったのですか?」
「私たちが追っていることに関係している人物です」
セラは答えなかった。
代わりに、アレンが一歩前へ出る。
「ノアを知っているの?」
セラはアレンを見た。
その瞬間、零号室の空気が大きく揺れた。
照明が一斉に明滅し、端末に表示されていた文字が崩れていく。数字でも文字でもない記号が画面を埋め尽くし、ホテルシステムそのものが何かを警告しているようだった。
「アレン、下がって!」
アラタが叫ぶと、ブラッドリーがすぐにアレンの前へ立った。ナナリーも身構え、サンディーが扉へ視線を向ける。しかし、セラだけは動かなかった。
彼女はアレンを見つめたまま、低い声で言った。
「あなたは……まだ、名前を持っているのですね」
アレンの表情が強張る。
「どういう意味?」
「名前を持つということは、存在する場所を与えられたということです。あなたがここにいるという事実を、ホテルが認めた。だからあなたは、もう完全な空白ではない」
アラタはその言葉を聞きながら、先ほどの登録画面を思い出していた。
アレンは最初、Guest No.13として登録されながらも、「GUEST HAS NOT ARRIVED」と表示された。その後、名前を選び、ホテルがそれを受け入れたことで、ようやくチェックインが成立した。
つまり、名前は単なる呼び名ではなかった。
この世界に存在するための、一つの証明になっている。
「じゃあ、セラさんは?」
アラタが尋ねる。
「あなたには、名前がある。それなのにホテルは登録を拒否している。それはどういうことですか?」
セラは少しだけ困ったように笑った。
「私の名前は、私がこの世界に存在するためのものではありません」
「……え?」
「私が持っている名前は、誰かが私を呼ぶための名前です。存在を証明するものではない」
その言葉の意味を理解するまでに、アラタは数秒かかった。
そして、理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
アレンは「空白」から現れた。
だからこそ、名前を得ることで存在の輪郭を持った。
ではセラは――。
「……あなたは、この世界の外側にいるんですか?」
アラタの問いに、セラは否定しなかった。
「外側という表現が正しいのかは分かりません。ただ、少なくとも私は、この世界に最初から存在していたわけではありません」
その瞬間、零号室の扉の向こうから大きな音が響いた。
ドンッ、と何かが壁にぶつかったような音だった。
続いて、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。
アラタはすぐに振り返った。
「誰か来ます」
ブラッドリーが扉へ向かう。
しかし、その足音には聞き覚えがあった。
ホテルスタッフではない。
そして、十二人の帰還者でもない。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、聖法院の第四審問局を名乗ったエレナ・ヴァルデンだった。
「やはり、ここにいましたか」
エレナの視線がセラへ向けられる。
それまで冷静だった彼女の表情が、明らかに変わった。
「……まさか」
セラはエレナを見た。
「知っているのですか?」
アラタが尋ねると、エレナはすぐには答えなかった。やがて、警戒するように一歩下がり、腰に手を添える。
「その存在を、どこで受け入れたのです?」
「零号室へ突然現れました。ホテルとして、事情を確認しているところです」
「違います」
エレナの声が強くなる。
「それは客ではありません」
アラタは黙ってセラを見る。
セラは反論しなかった。
その沈黙が、かえって不気味だった。
「エレナさん。彼女が何なのか、知っているんですか?」
「知っているわけではありません。ただ、記録があります」
「記録?」
「人間が消えるよりも前。まだ世界から『空白』という概念が生まれる前の記録です」
アラタの表情が変わった。
「人間が消える前……?」
「はい。そして、その記録にはこうあります」
エレナは一度だけセラへ視線を向けた。
「『世界の外から来る者を、決して門の内側へ入れてはならない』」
零号室の空気が凍りついた。
アラタはセラを見た。
彼女は何も言わない。
ただ、どこか悲しそうに笑っている。
「……だから私は、ホテルに入る必要があったのです」
「どういう意味ですか?」
「門の内側へ入れなければならないから」
その答えを聞いた瞬間、アラタの頭の中で一つの線が繋がった。
人間の帰還。
空白。
アレン。
零号室。
そして、セラ。
これまで自分たちは、帰ってきた者たちをホテルへ受け入れていると思っていた。しかし、本当は違うのかもしれない。
Hotel Aequitasは、世界の外側にある存在を「宿泊客」として受け入れるための場所なのではないか。
そう考えた瞬間、ホテルのシステムが再び起動した。
零号室の端末に、新しい表示が浮かび上がる。
――ROOM 00.
――OCCUPIED : 2.
アラタの呼吸が止まる。
「……二人?」
アレンとセラ。
この部屋にいるのは、その二人だけだ。
ならば、ホテルが認識している二人の「宿泊者」とは、彼らを指している。
しかし、その直後、表示が切り替わった。
――GUEST COUNT : 2.
――HUMAN COUNT : 0.
その文字を見て、アラタは言葉を失った。
零号室にいる二人は、どちらも人間ではない。
アレンも。
セラも。
それなのに、ホテルは彼らを「ゲスト」として数えている。
エレナが呟いた。
「……やはり、このホテルは知っている」
「何をです?」
「人間が戻ってきた理由を」
その瞬間、零号室の奥で何かが開いた。
壁だと思っていた場所がゆっくりと割れ、その向こうに暗闇が現れる。そこには扉があった。これまで存在していなかったはずの、もう一つの扉だった。
扉には番号がない。
ただ中央に、見覚えのある紋章が刻まれている。
天秤。
原初天秤の紋章だった。
アラタは息を呑みながら、その扉を見つめる。
そして、扉の向こうから声が聞こえた。
『アラタ・ナナサキ』
自分の名前だった。
アラタは思わず一歩前へ出る。
『十二人を帰した理由を知りたいか』
その声を聞いた瞬間、アラタは確信した。
これはノアではない。
しかし、ノアと同じ場所にいる存在だ。
『ならば、零号室の本当の意味を知れ』
扉の向こうで、何かが動く。
『ここは、帰還者を迎える部屋ではない』
アラタは黙って聞いていた。
『ここは――世界に帰ることのできない者が、最後に滞在する部屋だ』
その言葉が零号室へ響いた瞬間、アレンが胸元を押さえた。
「……僕のこと?」
セラは静かに目を伏せる。
エレナは険しい表情で扉を見つめる。
そしてアラタは、ホテルマンとして最も聞きたくなかった問いを、心の中で突きつけられていた。
もし零号室が「世界に帰ることのできない者」のための部屋なのだとしたら――。
このホテルに泊まっている十二人の帰還者たちは、本当にこの世界へ帰ってきたと言えるのだろうか。
答えを求めるように、アラタは端末へ目を向けた。
そこには、十二人の宿泊者情報が表示されている。
全員、チェックイン済み。
全員、客室割り当て済み。
全員、滞在中。
そして最後に、一つだけ新しい表示が追加されていた。
――RETURN STATUS : TEMPORARY.
アラタはその文字を見つめたまま、静かに息を吐いた。
十二人は帰ってきた。
だが、まだ「帰りきってはいない」。
Hotel Aequitasは、その事実を最初から知っていたのかもしれない。
そして零号室には、今も二つの存在がいる。
世界の外側から現れた者。
空白から生まれた者。
その二人を受け入れたことで、ホテルは新たな段階へ進もうとしている。
アラタはゆっくりと顔を上げた。
「……分かりました」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「だったら、私が確かめます。このホテルが何なのか。そして、十二人が本当に帰るためには何が必要なのか」
零号室の奥で、扉が静かに開いた。
その先には、廊下も客室もなかった。
ただ、無数の扉が並んでいる。
そのすべてに、異なる世界の名前が刻まれていた。
アラタはそれを見つめながら、ようやく理解する。
Hotel Aequitasは、一つの世界に存在するホテルではない。
ここは――世界と世界の境界に建つ、唯一のホテルだった。
――第42話 完




