第40話「名もなき宿泊客」
深夜のフロントに表示された「Guest No.13」の文字を、私はしばらく見つめていた。十三人目――そう登録したのは私自身だ。けれど、その人物について分かっていることはほとんどない。人間であること、零号室から現れたこと、原初天秤の帰還対象として登録されていないこと。そして、自分の名前すら覚えていないこと。それだけだった。ホテルの宿泊管理において、宿泊者の氏名や本人確認は基本的な情報になる。チェックイン時には予約情報と照合し、本人確認を行い、客室を割り当てる。だが、今回ばかりはその常識が通用しない。予約そのものが存在せず、身元を証明するものもない。それでも、目の前に確かに一人の人間がいる以上、私は彼を「存在しない客」として扱うことだけはできなかった。
「……十三人目、か」
フロントの端末を操作しながら呟くと、背後からブラッドリーの声が聞こえた。
「何か気になりますか?」
「全部です」
私は苦笑した。
「名前も分からない。どこから来たのかも分からない。原初天秤の記録にも存在しない。それなのに、このホテルへ現れた。そして端末は、この人を帰還者として認識している」
「確かに不可解ですね」
「それに、最後に零号室へ残っていた黒い光も気になります」
ブラッドリーはしばらく黙った。
「その件については、私も気になっています。ですが、現時点で不用意に触れるべきではないでしょう。あの部屋は現在、原初天秤と強く接続しています」
「そうですね」
私は端末から目を離した。
「明日の朝、十三人目の方ともう一度話してみます」
「賛成です。今夜はこれ以上、本人へ負担をかけない方がいいでしょう」
そう言ってブラッドリーはその場を離れていった。私は一人になったフロントで、館内の状況を確認する。十二人の帰還者は全員、客室で休んでいる。十三人目の男性も、ナナリーが案内した客室で過ごしているはずだ。外にいた聖法院の者たちはまだホテル周辺にいるものの、先ほどから目立った動きはない。何も起きていないように見える。しかし、私はその静けさがかえって不気味に感じられていた。
午前二時を過ぎた頃、私はフロント業務をナナリーへ引き継ぎ、十三人目の客室へ向かった。もちろん、起こすつもりはない。ただ、念のため客室の前を確認しておきたかったのだ。ところが、廊下を曲がったところで、部屋の扉の前に人影があることに気づいた。
「……?」
それは十三人目の男性だった。
彼は客室から出て、廊下の窓から外を見ていた。こちらに気づくと、少し驚いたように振り返る。
「眠れませんか?」
私が声を掛けると、彼は小さく頷いた。
「すみません。勝手に部屋から出てしまって」
「大丈夫ですよ。ホテルでは、宿泊客が館内を歩くこと自体は問題ありません。ただ、体調が悪いのであれば無理をしないでください」
「……ホテル」
彼はその言葉を繰り返した。
「ここがホテルなのは、分かります」
「それならよかったです」
「でも、不思議なんです」
彼は窓の外へ視線を戻した。
「どうして僕は、ここにいるんでしょう」
私はすぐには答えられなかった。
彼自身がそれを知りたいのだろう。しかし、私たちにも答えはない。
「私にも、まだ分かりません」
「そうですか」
「ただ、一つだけ言えることがあります」
彼がこちらを見る。
「今夜、あなたがここへ来たことは間違いではありません」
「……どういう意味ですか?」
「少なくとも、あなたを追い返すつもりはありません。理由が分かるまでは、このホテルにいてください」
男性はしばらく私の顔を見つめた。
「ありがとうございます」
その言葉に、私は少しだけ安心した。
それから彼を客室へ戻し、私は廊下を引き返した。しかし、フロントへ戻る途中で、ふと妙なことに気づいた。
廊下の壁にある客室案内表示。
そこには十三人目の客室番号が表示されている。
だが、その隣に見慣れない文字が浮かんでいた。
ROOM STATUS:RETURNING
私は足を止めた。
通常の客室ステータスは、Vacant、Occupied、Cleaningなど、客室の状態を示すものだ。たとえば「Vacant」は空室、「Occupied」は宿泊客が利用中、「Cleaning」は清掃中という意味で、ホテルでは客室の販売や清掃、アサイン状況を管理するために重要な情報になる。
しかし、「RETURNING」という状態は、私がこれまで見たことがない。
「……帰還中?」
十三人目は、もう客室にいる。
それなのに、ホテルのシステムは彼を「Returning」と表示している。
私は端末を操作して詳細情報を開こうとした。
その瞬間、画面が暗転した。
そして、中央に一行だけ文字が浮かび上がる。
GUEST HAS NOT ARRIVED.
私は息を止めた。
「……到着していない?」
意味が分からない。
目の前の客室には、確かに彼がいる。
私自身が案内した。
ナナリーも確認している。
それなのに、ホテルのシステムは「到着していない」と認識している。
私はすぐにキーパーへ確認を取った。
「キーパー、十三人目の宿泊者について確認してください」
『確認します』
数秒の沈黙。
『対象者は現在、客室内に存在しています』
「ですよね」
『しかし、宿泊者情報上では到着処理が完了していません』
「チェックイン処理ができていない?」
『正確には違います』
キーパーの声が少しだけ低くなる。
『対象者のチェックイン情報そのものが存在しません』
私は言葉を失った。
つまり、ホテルの中にいるのに、ホテルには泊まっていない。
存在しているのに、存在情報としては登録されていない。
まるで、彼だけがホテルのシステムから切り離されているようだった。
◇
翌朝、私はほとんど眠れないままフロントへ立っていた。異世界へ来る前の私は、ホテルの夜勤を経験したこともある。深夜帯は昼間とは違って宿泊客の動きが少なく、フロント業務も落ち着いている。しかし、実際には夜間だからこそ発生するトラブルも多い。体調不良、鍵の紛失、騒音、設備故障、緊急時の対応など、何か起きた時にすぐ対応できるスタッフが必要になる。そのため、夜勤は静かに見えて意外と神経を使う仕事だった。
けれど、今夜の私はこれまで経験したどんな夜勤よりも疲れていた。
それでも朝になれば、ホテルは通常業務へ戻る。
朝食の準備が始まり、宿泊客が少しずつ起きてくる。ガンゼフは厨房で料理を用意し、アシュリーは客室フロアの状態を確認している。ナナリーは宿泊記録を整理し、サンディーは外部警戒の状況を確認していた。
そんな中、十二人の帰還者たちも少しずつ食堂へ集まり始めた。
「おはようございます」
私は彼らへ声を掛けた。
「昨夜は眠れましたか?」
「まあ、なんとか」
エリアスが答える。
「ただ、朝になってもまだ夢を見ているような気分だ」
「無理もありません」
私はそう答えながら、彼らの表情を確認した。昨日より少し落ち着いているように見える。数百年という時間を突然知らされた彼らにとって、それを一晩で受け入れられるはずもない。それでも、少しずつ現状を理解し始めているのだろう。
やがて十三人目の男性も食堂へ姿を現した。
彼は入口で立ち止まり、十二人を見つめた。
十二人もまた、彼へ視線を向ける。
「……誰だ?」
ギャレットが尋ねた。
「昨夜、零号室から現れた方です」
私が説明する。
「名前はまだ分かっていません」
「名前が分からない?」
ソフィアが不思議そうに首を傾げる。
「はい。本人も覚えていないそうです」
男性は少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。何も思い出せなくて」
すると、ルースが彼をじっと見つめた。
「……あなた」
「はい?」
「どこかで会ったことがある」
男性が目を見開く。
「僕も……そう思います」
食堂の空気が一瞬で変わった。
私は二人の顔を見比べた。
「本当に?」
ルースは頷いた。
「顔を見たのは初めてのはずなのに、知っている気がする」
「僕もです。あなたを見た瞬間、名前が浮かびそうになった」
「名前?」
ルースが身を乗り出す。
「何か思い出せそうですか?」
男性は目を閉じた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、彼が苦しそうに頭を押さえた。
「……だめだ」
「無理しないでください」
私はすぐに声を掛けた。
彼は何度か深呼吸をすると、ゆっくり顔を上げた。
「でも、一つだけ」
「何ですか?」
「『ノア』という名前が……」
その瞬間、私の表情が変わった。
十二人も同時にこちらを見る。
ノア。
この一連の出来事の中で、何度も登場してきた存在。
私たちへ警告を送り、十二人の帰還を進め、そして現在も原初天秤の情報を追っている人物。
「ノアを知っているんですか?」
私が尋ねる。
「分かりません。ただ、その名前を思い出すと……」
男性は胸元を押さえた。
「帰らなきゃいけない、という気持ちになります」
「どこへ?」
「分からない」
彼は首を振った。
「でも、誰かが待っている」
私は何も言えなかった。
その時、食堂の入口にブラッドリーが現れた。
彼の表情を見た瞬間、何か起きたのだと分かった。
「アラタ様」
「どうしました?」
「零号室に動きがあります」
私はすぐに立ち上がった。
「また転送ですか?」
「いいえ」
ブラッドリーは首を横に振る。
「今回は、逆です」
「逆?」
「何かが、零号室から出ようとしているのではありません」
彼は一度言葉を止めた。
「何かが、零号室へ戻ろうとしています」
◇
私たちはすぐに零号室へ向かった。十二人の帰還者たちには安全のため食堂に残ってもらい、十三人目の男性だけは私たちと同行することになった。彼自身が関係している可能性が高いため、本人の安全を確認しながら状況を見てもらう必要があると判断したからだ。
零号室へ到着すると、室内には昨日と同じ十二個の光が浮かんでいた。ただし、今度はその光が一つずつ逆方向へ回転している。そして、その中心には昨日の黒い光が残っていた。
十三人目の男性が部屋へ入った瞬間、黒い光が強く反応した。
「……っ!」
男性が頭を押さえる。
「大丈夫ですか?」
「聞こえる……」
「何が?」
「声が……」
彼は黒い光を見つめた。
「『戻ってこい』って……」
私はその言葉を聞いて、背筋に冷たいものを感じた。
その瞬間、零号室の端末へ文字が表示された。
GUEST No.13
その下に、昨日とは異なる表示が現れる。
CHECK-IN STATUS:PENDING
さらに、その下へ新しい一文が浮かび上がった。
TRUE NAME REQUIRED
「本名が必要……?」
私は呟いた。
ホテルのチェックインでも、宿泊者情報を確定するには氏名が必要になる。しかし、これは明らかに普通の宿泊管理ではない。
彼の名前が分からなければ、正式なチェックインが完了しない。
そして、彼自身も名前を覚えていない。
私は男性へ向き直った。
「名前を思い出せそうですか?」
「……分かりません」
「無理に思い出さなくても大丈夫です」
私はそう言ってから、少し考えた。
「それなら、今は仮の名前でもいいんじゃないでしょうか」
「仮の名前?」
「はい。名前がないなら、こちらで一時的に呼び名を決めるんです。本人が本当の名前を思い出したら、その時に変更すればいい」
男性は驚いたように私を見る。
「そんなことができるんですか?」
「ホテルの宿泊記録としては、正式な本人情報とは別に管理する必要がありますけど……」
私は端末へ目を向けた。
「今のあなたには、まず名前が必要みたいですから」
男性はしばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「……アレン」
「アレン?」
「なぜか、その名前なら……」
彼は胸元へ手を置いた。
「自分の名前のような気がします」
私は端末を操作する。
Guest No.13。
仮称――アレン。
その名前を入力した瞬間、零号室の十二個の光が一斉に停止した。
続いて、中央の黒い光がゆっくりと消えていく。
端末へ新しい文字が表示された。
GUEST NAME:ALLEN
CHECK-IN:ACCEPTED
私は思わず画面を見つめた。
チェックインが、完了した。
ただ名前を入力しただけなのに。
そして、その直後。
零号室の奥から、聞き覚えのある声が響いた。
『それでいい』
全員が振り返る。
姿はない。
けれど、声だけは確かに聞こえた。
『彼はまだ、自分が誰なのか知らなくていい』
「ノア……?」
私が問いかける。
返事はなかった。
代わりに、端末へ最後のメッセージが表示される。
WELCOME TO HOTEL AEQUITAS, ALLEN.
私はその文字を見つめながら、静かに息を吐いた。
アレン。
十三人目の宿泊客。
彼が何者なのかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。
彼は「帰還者」ではない。
しかし、Hotel Aequitasは彼を正式な宿泊客として受け入れた。
それが何を意味するのかは、今の私には分からない。
ただ、ホテルマンとして私は思う。
名前を失った人が、自分の名前を取り戻すまで待つことくらいはできる。
客室を用意し、食事を提供し、必要なら話を聞く。
その人が本当に帰るべき場所を見つけるまで、一時的に滞在する場所を提供する。
ホテルとは、そういう場所でもあるのだから。
零号室の光が完全に消える。
そして、扉の向こうに広がる廊下には、いつものHotel Aequitasの静かな照明が戻ってきた。
私はアレンとともに部屋を出る。
その背後で、誰にも気づかれないほど小さな音がした。
カチッ、と。
まるで古い時計の針が動き始めたような音だった。
私は振り返らなかった。
だから、その瞬間に零号室の壁へ一瞬だけ浮かび上がった文字を見ることもなかった。
ROOM 00――OCCUPIED.
そして、その表示は数秒後には何事もなかったかのように消えていた。
Hotel Aequitasに十三人目の宿泊客がチェックインした。
だが、それは新たな客を迎えたというだけの出来事ではなかった。
十二人を「帰還者」として受け入れたホテルが、初めて「帰る場所そのものを持たない者」を受け入れた瞬間だった。
そして、この十三人目の存在こそが、やがてノアが隠していた最後の真実へとつながっていくことを、私はまだ知らなかった。
――第40話 完




