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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新


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第39話「次のチェックイン」

 Hotel Aequitasのフロントに表示されたカウントダウンは、静かに数字を減らし続けていた。零号室で確認された異常な転送反応はすでに消えているものの、あの仮面の人物が残していった言葉だけが、私の頭から離れない。十二人が戻ったことで門が開いた。そして、これから帰ってくるのは人間だけではない。あの言葉が何を意味するのかはまだ分からないが、少なくとも今までとは何かが変わったことだけは確かだった。私はフロントカウンターの端末を操作しながら、現在の館内状況を確認する。十二人の人間は全員、客室で休んでいる。今日戻ってきた六人はもちろん、先に帰還していた六人も、これまでの聞き取りや再会によってかなり精神的な負担を抱えているため、今夜はこれ以上の調査を行わないことにしていた。


 ホテルという場所では、宿泊客が安心して眠れる環境を整えることが何より重要になる。これは単純にベッドや客室を用意するという意味ではない。照明、室温、騒音、清掃状態、セキュリティ、さらにはスタッフの立ち振る舞いまで含めて、宿泊客が「ここなら大丈夫だ」と感じられる環境を作る必要がある。ホテルマンだった頃の私は、それを仕事として理解していた。けれど、この世界へ来てからは、その意味を以前よりも強く感じるようになった。特に今、十二人の宿泊客は自分たちが暮らしていた世界そのものを失っている。彼らにとって、このホテルはただ一晩を過ごす場所ではない。少なくとも今夜だけは、彼らが自分自身を取り戻すための仮の居場所なのだ。


「アラタさん」


 背後から声を掛けられ、私は振り返った。そこにはナナリーが立っていた。彼女は手に館内の状況をまとめた資料を持っている。


「十二名の客室について、もう一度確認してきました。現在、全員に大きな異常はありません。ただ、ソフィアさんとルースさんはまだ眠れていないようです」

「そうですか……。無理に眠ってもらう必要はありません。眠れないなら、客室で静かに過ごしてもらいましょう。必要なら温かい飲み物を用意してください」

「分かりました。ガンゼフさんへ伝えておきます」

 ナナリーが頷いたところで、少し離れた場所からブラッドリーが歩いてきた。総支配人である彼はいつも通り落ち着いていたが、その手には警戒情報を表示した端末が握られている。

「外の集団に動きはありません」

「まだいるんですか?」

「はい。ホテル正門から一定の距離を保ったまま待機しています。こちらへの攻撃も停止しています」

 私は少し考えた。先ほどまで外周結界へ干渉していた彼らが、突然攻撃をやめた理由が気になる。こちらを攻撃することが目的なら、そのまま続ければいい。ところが彼らは今、何かを待っているように見える。

「もしかすると、彼らも何かを待っているのかもしれません」

「私もそう考えています」

 ブラッドリーが端末を見ながら答えた。

「問題は、何を待っているのかということです」

「……次の帰還者でしょうか」

 ナナリーが言った。

 その言葉に、私は零号室のカウントダウンを思い出した。残り時間は四十分を切っている。もし外にいる聖法院の者たちが、次に帰還する存在を知っているのだとすれば、彼らがホテルの前から離れない理由も説明できる。

 その時、館内通信が入った。

『アラタ様』

 キーパーの声だった。

「どうしました?」

『零号室に変化があります』

「またですか?」

『はい。ただし、先ほどとは異なります』

 私はすぐに端末を操作し、零号室の映像を表示させた。

 そこには誰もいなかった。

 しかし、部屋の中央に設置されている転送領域の周囲だけ、空気が微妙に揺らいでいる。先ほど仮面の人物が現れた時とは違い、魔力そのものが集中しているというより、空間そのものが薄くなっているように見えた。

「これは……転送が始まっている?」

『はい。ですが、帰還プロトコルから発生している通常の転送とは構造が異なります』

「異なる?」

『通常の帰還では、対象者の存在情報を先に確認します。しかし今回は、対象者の情報がまだ確認できていません』

 私は画面を見つめた。

「それって、つまり……」

『誰が来るのか分からない状態で、転送だけが始まっているということです』

 嫌な沈黙がフロントを包んだ。

 これまでの十二人は、すべて帰還対象として明確に登録されていた。原初天秤によって消失した人間であり、Hotel Aequitasへ帰還するための存在情報も確認されていた。しかし、今回の転送は違う。誰かが来るという結果だけが先に存在し、その人物の正体がまだ登録されていない。

「アラタ」

 ブラッドリーが静かに口を開いた。

「この場合、ホテルとしてどう対応しますか?」

 私は少しだけ考えた。

 普通のホテルであれば、予約情報のない宿泊客を勝手に客室へ案内することはできない。まず身元を確認し、宿泊の意思を確認し、必要な手続きを行う。それがフロントの基本だ。

 けれど、この世界で起きていることは普通ではない。

「まず、迎えます」

 私が答えると、ナナリーが少し驚いた顔をした。

「迎えるんですか?」

「はい。ただし、すぐに宿泊客として扱うわけではありません。まず安全を確認して、その人が誰なのかを確認します。敵か味方かも、その時点で判断すればいいと思います」

 ブラッドリーが頷いた。

「なるほど。それが最も公平でしょう」

「それに、今の段階で拒絶する理由もありません。ここはHotel Aequitasですから」

 そう言ったものの、私は自分の胸の奥に小さな不安があることを感じていた。

 もし次に現れる者が、あの仮面の人物のような存在だったら。

 もし十二人を狙っている者だったら。

 それでも私は、ホテルマンとして最初に取るべき行動を変えるつもりはなかった。

 相手が何者なのか分からないからこそ、最初は敵と決めつけない。

 それが私の答えだった。

     ◇

 カウントダウンが二十分を切った頃、館内の雰囲気がさらに変化した。零号室から発生していた空間の揺らぎが徐々に強まり、それに呼応するようにホテル全体の魔力循環も変化している。普段なら宿泊客に影響を与えないよう制御されている魔力が、まるで一つの流れに引っ張られるように零号室へ集まっていた。私はフロントに立ったままその状況を確認していたが、やがて一つ気になることに気づいた。

 外の聖法院の集団が動き始めたのだ。

「ブラッドリーさん、外を」

「確認しています」

 監視映像を見ると、待機していた八人が一斉にホテル正門へ近づいている。しかし、今度は先ほどのように魔力を放ってはいない。むしろ、全員が武器らしきものを持たず、こちらへ向かって歩いている。

「攻撃するつもりではない?」

「そのようです」

「なら、正門を開ける必要はありませんが、話を聞くことはできます」

 私はフロントをサンディーに任せ、ブラッドリーとナナリーを伴って正門へ向かった。夜のホテル前には冷たい風が吹いている。正門の向こうには、先ほどの女性が一人で立っていた。後ろには七人の仲間が一定の距離を保っている。

 女性はこちらを見ると、ゆっくりと頭を下げた。

「先ほどは失礼した」

「いえ。こちらも警戒していましたから」

「私は聖法院所属、第四監察部のエレナ・ヴァルデン」

 女性は自分の名前を名乗った。

「今夜、ここへ来た理由を説明する」

「お願いします」

「我々が探しているのは、十二人そのものではない」

 意外な言葉だった。

「では、何を?」

「彼らの中に存在する『空白』だ」

「空白?」

 私はその言葉を繰り返した。

 エレナは頷いた。

「人間が消えた時、すべての人間が完全に世界から消えたわけではない。肉体は失われ、存在情報は原初天秤の管理領域へ送られた。しかし、一部の情報だけが残った」

「どこに?」

「世界の外側に」

 その言葉を聞いた瞬間、私は零号室を思い出した。

「それが、空白?」

「そうだ。十二人が戻ったことで、その空白が再び接続された。だから門が開いた」

 私は黙ってエレナを見つめた。

 彼女の話が本当なら、先ほど零号室へ現れた仮面の人物も、その空白を利用してこちらへ来た可能性がある。

「では、あなたたちはその空白を閉じるために来たんですか?」

「違う」

 エレナは首を横に振った。

「我々は、空白の向こう側から何が来るのかを確認するために来た」

 その言葉の直後だった。

 ホテル全体が大きく揺れた。

 地震ではない。

 空間そのものが震えている。

 私は反射的に零号室へ視線を向けた。

 遠く離れた場所にあるはずの零号室から、強烈な魔力が放出される。

 エレナの表情が変わった。

「始まった」

「何がです?」

「次の帰還だ」

     ◇

 私たちはすぐに零号室へ戻った。廊下を進むにつれて魔力の圧力が強くなり、普段なら感じることのないほどの冷気が肌を撫でていく。零号室の扉を開けると、室内中央の転送領域はすでに完全に起動していた。十二個の光が床へ並び、その中心に巨大な円形の紋章が形成されている。その紋章は原初天秤のものと似ているが、完全に同じではない。中心部分だけが欠けており、そこから黒い霧のようなものがゆっくりと漏れ出していた。

「これは……」

 ナナリーが息を呑む。

 私は一歩前へ出た。

 黒い霧の中に、人影が浮かび始めている。

 頭。

 肩。

 腕。

 少しずつ形が明確になっていく。

 私は無意識に息を止めていた。

 やがて、転送領域の光が一気に弾ける。

 現れた人物は、床に片膝をついた状態で動きを止めた。

 人間だった。

 少なくとも、見た目は人間に見える。

 私はすぐに近づいたが、その人物は顔を上げることなく、荒い呼吸を繰り返している。身体には目立った外傷はない。しかし、服装はこれまで帰還した十二人とは明らかに違っていた。

 その人物がゆっくりと顔を上げる。

 若い男性だった。

 彼は私を見ると、怯えたように後ずさった。

「ここは……どこだ?」

「Hotel Aequitasです」

 私はゆっくりと答えた。

「あなたのお名前を教えていただけますか?」

 男性はしばらく私を見つめていた。

 そして、震える声で答えた。

「……分からない」

 その瞬間、零号室の端末が警告を発した。

 キーパーがすぐに解析を開始する。

『対象者の存在情報を確認できません』

「どういうことです?」

『人間としての生命反応は確認できます。しかし、原初天秤の帰還対象データに該当しません』

 私は男性を見る。

 名前が分からない。

 帰還対象として登録されていない。

 それでも、人間としてここへ現れた。

 その時、エレナが小さく呟いた。

「……やはり」

「何がです?」

 彼女は男性を見ながら答えた。

「この男は、帰還者ではない」

「では、この人は……?」

 エレナは静かに息を吐いた。

「『空白』そのものから生まれた存在だ」

 私は言葉を失った。

 男性はその意味を理解していないようだった。ただ、不安そうに私たちを見回している。

 私は彼の前へしゃがみ込んだ。

「大丈夫です」

「……え?」

「ここはHotel Aequitasです。今すぐ全部を理解する必要はありません。まずは安全な場所で休みましょう」

 男性は何も答えなかった。

 けれど、拒絶もしなかった。

 私は立ち上がり、ナナリーへ目を向ける。

「客室の準備をお願いします」

「はい」

 ナナリーはすぐに動き始めた。

 私は男性へ手を差し出す。

「行きましょう」

 男性はその手をしばらく見つめたあと、恐る恐る手を伸ばした。

 その瞬間、零号室の端末に新しい表示が現れた。

 GUEST STATUS:UNREGISTERED

 未登録の宿泊客。

 私はその表示を見て、奇妙な感覚に襲われた。

 予約もない。

 名前もない。

 帰還対象として登録されてもいない。

 それでも、この人は確かにここにいる。

 そして、ホテルマンとしての私は、そんな彼を目の前にして「登録されていないから帰れ」と言うことはできなかった。

 私は男性とともに零号室を出た。

 その背後で、十二個の光が静かに消えていく。

 ところが、一つだけ。

 十二個の光とは別に、黒い小さな光が残っていた。

 誰も気づかないまま、その光はゆっくりと脈動を続けている。

     ◇

 男性を客室へ案内した後、私はフロントへ戻った。時計を見ると、すでに深夜を回っている。今日一日だけで十二人の帰還者を迎え、その直後に名前すら持たない新たな人間を迎えることになった。普通のホテルマンなら、とても一日では処理しきれない業務量だろう。

 それでも、Hotel Aequitasは不思議といつも通り動いていた。ガンゼフは遅い時間にもかかわらず温かい食事を用意し、アシュリーは客室の状態を確認し、ナナリーは宿泊記録を整理している。サンディーは外部警戒を続け、ブラッドリーは全体の状況を把握していた。

 それぞれが、自分の仕事をしている。

 私はそれを見ながら、少しだけ安心した。

 どれほど世界が大きな問題を抱えていても、ホテルという場所の基本は変わらない。

 そして今、私たちには新しい宿泊客が一人いる。

 私はフロント端末へ目を向けた。

 未登録。

 名前なし。

 身元不明。

 けれど、宿泊中。

 私は新規宿泊者の情報欄へ、ゆっくりと文字を入力した。

 Guest No.13

 十三人目の宿泊客。

 その瞬間、端末が一度だけ明滅した。

 画面に、誰も入力していないはずの文字が浮かび上がる。

 WELCOME BACK.

 私はその文字を見つめた。

「……Back?」

 帰ってきた。

 しかし、彼には帰ってきた場所も、名前も、過去の記憶さえない。

 それなのに、端末は彼を「帰還した」と認識している。

 私はその違和感を抱えたまま、画面を閉じた。

 まだ分からない。

 この十三人目が何者なのかも、なぜ原初天秤に登録されていないのかも、なぜHotel Aequitasへ現れたのかも。

 ただ一つ分かっているのは、今日からHotel Aequitasには十二人ではなく、十三人の人間が滞在しているということだった。

 そして、零号室の奥では、誰にも見つからないまま残された黒い光が、再びゆっくりと明滅した。

 それはまるで、次の誰かがこちら側へ入ってくる時を待っているようだった。

 深夜のフロントに立つ私は、その小さな異変をまだ知らない。

 しかし、ホテルの歴史は確実に次の段階へ進んでいた。

 十二人の帰還者を迎えたHotel Aequitasに、今度は「帰還した記録すら存在しない十三人目」がチェックインした。


 その意味を知ることになるのは、もう少し先のことだった。


――第39話 完

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