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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新


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第38話「夜の訪問者」

 夜のHotel Aequitasを包んでいた静寂は、館内警戒システムから発せられた低い警告音によって静かに崩れ始めていた。私はフロントカウンターの端末へ表示された外周監視情報を確認しながら、ゆっくりと息を吐く。敷地の外側に複数の魔力反応が確認されている。まだホテルそのものへ侵入しているわけではないものの、その進行方向は明らかにHotel Aequitasへ向いていた。数時間前まで、私は十二人の人間が無事に帰還したことだけでも大きな出来事だと思っていた。しかし、ノアから届いた「誰かが先に動く」という警告と、その直後に確認された謎の集団の接近を考えれば、どうやら私たちに休む時間は残されていないらしい。


「現在の距離は?」

 通信越しにブラッドリーへ尋ねると、すぐに落ち着いた声が返ってきた。

『ホテル正門からおよそ五百メートル。人数は八名と推定されています。ただし、魔力反応を抑えている者がいる可能性もありますので、正確な人数とは断定できません』

「八名……」

『アラタ様、どうされますか?』

 ナナリーの声も通信へ入ってきた。どうやら彼女もすでに状況を把握しているらしい。

「まずは宿泊中の十二人を起こさないようにしてください。特に今日戻ってきた六人は、まだ精神的にもかなり疲れていると思います」

『承知しました』

「それと、通常の宿泊客への対応はできるだけ普段通りに。館内が騒がしくなれば不安を与えてしまいます」

『分かりました』

 そこまで伝えて、私は一度端末から目を離した。こういう時にこそ、ホテルとしての基本を崩してはいけない。Hotel Aequitasは研究施設でも戦場でもない。ここは宿泊客が安心して過ごすための場所であり、どれほど異常な事態が起きたとしても、その役割を忘れてはいけないのだ。

「アラタ」

 背後からサンディーの声がした。

 振り返ると、支配人であるサンディー・エドワーズがこちらへ歩いてくるところだった。すでに状況を把握しているらしく、普段の柔らかな表情とは違い、警戒するような目をしている。

「サンディーさん。外に複数の反応があります」

「聞いた。ブラッドリーからも連絡が来た」

「どうします?」

「まだ攻撃してきたわけじゃない。だから、こちらから先に仕掛けることはしない」

 その判断に、私は頷いた。

「ですよね」

「ただし、ホテルの敷地へ入ろうとした場合は別だ。宿泊客を危険に晒すわけにはいかない」

 サンディーの言葉には迷いがなかった。

 私はフロントカウンターの奥にある警備端末を確認する。Hotel Aequitasには、一般的なホテルにあるような防犯設備だけではなく、この異世界特有の魔力反応を監視するシステムも組み込まれている。宿泊客の安全を守るための設備であり、普段は意識することもないが、こういう時にはその存在が非常に心強い。

 その時、外周監視の映像が切り替わった。

 暗闇の中に、いくつもの人影が浮かび上がる。

 八人。

 黒い外套を纏った者が多く、顔までは確認できない。彼らは一定の間隔を保ちながら歩いており、こちらへ向かっているにもかかわらず、妙に静かだった。まるでホテルの位置を最初から正確に把握しているかのように、迷うことなく進んでいる。

「……あれは」

 私は画面を見つめた。

 先頭を歩く一人が、右手を上げた。

 その瞬間、他の七人が一斉に停止する。

「止まりましたね」

「ああ」

 サンディーも画面を見ている。

 しばらくすると、先頭の人物がこちらへ向かって歩き出した。残りの七人はその場に待機したままだ。

 そして、正門からおよそ百メートルほど離れた場所で、その人物は立ち止まった。

 魔力反応が強くなる。

「何か使うつもりでしょうか?」

「分からない。だが、まだこちらへ攻撃はしていない」

 私は画面を拡大した。

 外套の隙間から見える顔は、若い女性のようだった。

 その女性がゆっくりと顔を上げる。

 まるで監視カメラの位置を知っているかのように、こちらを見た。

 次の瞬間。

 館内放送が起動した。

『Hotel Aequitasの関係者へ告げる』

 突然、館内全体へ声が響いた。

 私は驚いて端末を見る。

「外から館内放送へ接続された?」

『いいえ。外部からの通信接続ではありません』

 キーパーが即座に否定した。

『零号室の管理領域を経由しています』

「零号室?」

 嫌な予感がした。

 外にいる人物が直接ホテルの通信設備へ侵入したのではない。もっと厄介な方法で、零号室を経由して館内へ声を送り込んでいる。

『我々は敵ではない。だが、ホテルに保護されている十二人を引き渡してもらいたい』

 その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が冷たくなった。

 十二人。

 やはり目的は彼らだった。

「誰だ?」

 サンディーが館内放送へ向けて声を返す。

『我々は聖法院の正式な代理人だ』

 その名前が出た瞬間、ロビーの空気が変わった。

 聖法院。

 これまで人間消失事件と深く関わってきた組織。

 そして、ルキウスと無関係ではない存在。

「正式な代理人なら、なぜ夜中にこんな方法で接触してくる?」

 サンディーが問い返す。

『時間がないからだ』

「こちらにも宿泊客がいる。事情も分からないまま引き渡すことはできない」

『彼らは宿泊客ではない』

 その言葉に、私は思わず反応した。

「いいえ」

 私は通信へ割り込んだ。

「今、このHotel Aequitasに滞在している以上、彼らは私たちにとって宿泊客です」

 向こうから返事がなくなった。

 私は自分でも驚いていた。以前なら、こんな場面で自分から言い返すことなど考えられなかっただろう。私は接客に疲れてホテル業界を離れようとした人間だった。誰かと争うことを避け、できるだけ波風を立てないようにしていた。それなのに今では、目の前にいる宿泊客を守るためなら、相手が誰であろうと「宿泊客です」と言えるようになっている。

 しばらくして、再び女性の声が響いた。

『……人間を客として扱うのか』

「はい」

『この世界に人間はいない』

「知っています」

『ならば、なぜ?』

「Hotel Aequitasでは、種族を理由に宿泊客を区別しません」

 自分でも不思議なくらい、言葉が自然に出てきた。

「少なくとも、私たちはそういうホテルを目指しています」

 通信の向こうで、誰かが息を呑んだような気配がした。

『……そうか』

 女性は小さく呟いた。

『ならば、話を変えよう』

「何です?」

『その十二人の中に、原初天秤の起動条件を知っている者がいるはずだ』

 私は眉をひそめた。

『その人物だけでも引き渡してほしい』

「断ります」

 即答だった。

 サンディーがこちらを見る。

 私も自分で驚いていた。

 けれど、迷いはなかった。

「宿泊客を本人の意思なく引き渡すことはできません」

『それが世界の危機につながっても?』

「それでもです」

 その瞬間、外の魔力反応が一斉に強くなった。

 サンディーがすぐに端末を見る。

「来るぞ」

 館内照明が一瞬だけ明滅した。

 警戒システムが高い音を鳴らす。

 私は反射的にフロントから離れ、ロビー中央へ視線を向けた。

 外周結界に接触。

 八人のうち数名が、ホテルの敷地へ向けて魔力を放っている。

「結界が破られる可能性は?」

『現時点では低いです。ただし、継続的な干渉を受けた場合、外周防壁に負荷が蓄積します』

「どれくらい持ちます?」

『敵対行動の規模によります』

「つまり、分からない?」

『はい』

 私は小さく息を吐いた。

 こういう時、ホテルマンとして働いていた頃なら、せいぜい停電や設備故障を心配していただろう。

 今は違う。

 ホテルの外から、得体の知れない集団が攻撃を仕掛けている。

 そして、その目的は十二人の宿泊客。

 状況としては最悪に近い。

 それでも、私がやることは変わらなかった。

「まず宿泊客を守る」

 サンディーが頷く。

「その通りだ」

     ◇

 外周結界への攻撃が始まってから数分が経過した頃、Hotel Aequitasの館内では異変を感じ取った者たちが少しずつ動き始めていた。最初に姿を見せたのはアシュリーだった。彼女はフロントへ来るなり状況を把握し、何も聞かずに宿泊客がいるフロアへ向かおうとした。

「アシュリーさん、待ってください」

「何?」

「十二人の方々を客室から出さないようにしてください。できれば、今の状況を知られない方がいいです」

「分かった。でも、もし客室まで攻撃が来たら?」

「その時はすぐ知らせてください」

 アシュリーは頷き、すぐに宿泊客のいるフロアへ向かった。

 続いてガンゼフも姿を現した。

「外が騒がしいようだな」

「聖法院の関係者を名乗る集団が来ています」

「人間たちを狙っているのか?」

「はい」

 ガンゼフはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。

「ならば、厨房はいつでも食事を出せるようにしておこう」

「……え?」

「戦う者は腹が減る。腹が減れば判断を誤る。ホテルとして当然の備えだ」

 私は思わず笑ってしまった。

「ガンゼフさんらしいですね」

「何がおかしい?」

「いえ、助かります」

 緊張していた空気がほんの少しだけ和らいだ。

 Hotel Aequitasには、それぞれの仕事がある。

 総支配人は全体を見る。

 支配人は現場を判断する。

 副支配人は各部門を調整する。

 料飲・調理部門は食事を提供する。

 チーフは必要な場所へ人員を動かす。

 そして私は、フロントに立つ。

 世界の危機であろうと、その基本は変わらない。

 私はそれを、不思議と心強く感じていた。

     ◇

 一方、その頃。

 Hotel Aequitasの別区画では、ルキウスが一人、拘束された状態で椅子に座っていた。

 彼は館内で起きている騒ぎを直接見ることはできない。

 それでも、何かが起きていることだけは感じ取っていた。

「……始まったか」

 ルキウスが呟く。

 その声に反応して、監視担当が彼を見る。

「何がです?」

「何でもない」

 ルキウスは笑った。

 しかし、その表情には以前のような余裕はなかった。

「お前たちは、まだ分かっていない」

「何がです?」

「十二人が戻ったことの意味だ」

 監視担当は黙った。

「人間を帰すためだけなら、あの十二人を先に戻す必要などなかった」

「では、何のためです?」

 ルキウスは答えなかった。

 ただ、遠くを見るように目を細める。

「……原初天秤は、まだ動いている」

 その言葉が落ちた直後、拘束区画の照明が一度だけ明滅した。

 ルキウスが顔を上げる。

「来た」

「何が?」

「客だ」

 監視担当が眉をひそめた。

 その直後、館内全域にキーパーの警告が響いた。

『零号室に異常な接続を確認』

 ルキウスは小さく笑った。

「遅かったな」

     ◇

 同じ頃、私はフロントで外周監視の情報を確認していた。

 攻撃は続いている。

 しかし、妙だった。

 相手は結界を破壊しようとしているわけではない。

 むしろ、何かを探している。

「サンディーさん」

「分かってる」

「攻撃というより、探査ですね」

「ああ。外周結界の構造を調べている」

 その時、ブラッドリーから通信が入った。

『アラタ様、少々問題が発生しました』

「何ですか?」

『零号室です』

 嫌な予感がした。

「何が起きています?」

『室内に、新しい転送反応が発生しました』

 私は言葉を失った。

「……人間?」

『いいえ』

「では、何が?」

 少し間があった。

『確認できません。ただし、こちらへ向かっていることは確かです』

 私は零号室の監視画面を開いた。

 そこには、誰もいないはずの空間に淡い光が集まり始めていた。

 光は徐々に形を作っていく。

 人の姿に近い。

 しかし、人間ではない。

 そして、その周囲には原初天秤と同じ紋章が浮かんでいた。

「これは……」

 画面の前にいた全員が黙り込む。

 やがて光の中から、一人の人物が姿を現した。

 長い白髪。

 黒い衣服。

 そして、顔を覆う白い仮面。

 その人物は零号室へ完全に実体化すると、ゆっくりと周囲を見回した。

 そして。

 こちらの監視カメラへ視線を向けた。

 まるで、最初から私たちが見ていることを知っていたかのように。

 仮面の人物が口を開く。

「……ようやく、ここまで来た」

 通信システムを通して、その声がフロントへ届いた。

 私は息を呑む。

「あなたは誰ですか?」

 問いかける。

 仮面の人物は答えなかった。

 代わりに、零号室の床へ手を触れる。

 すると、部屋の中央にHotel Aequitasのロゴとは異なる巨大な紋章が浮かび上がった。

 原初天秤の紋章。

 その中心に、十二個の小さな光が灯る。

 そして、その十二個の光がすべて点灯した瞬間、館内端末に新しい文字が表示された。

 ANCHOR SET:12 / 12

 私はその表示を見つめた。

 十二人がアンカーとして認証された。

 だからこそ、今ここに何かが呼び込まれた。

 そう考えるしかなかった。

 仮面の人物が再び口を開く。

「十二人が戻ったことで、ようやく門が開いた」

「門……?」

「そうだ」

 その人物は零号室の奥を振り返った。

「これから帰ってくるのは、人間だけではない」

 その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が凍るような感覚を覚えた。

 人間の帰還。

 それだけでも十分に大きな問題だった。

 しかし。

 もしノアが警告していた「誰かが先に動く」という言葉が、この人物のことを指しているのだとしたら。

 私たちがこれから迎え入れるものは、人間の帰還だけではない。

 そして、零号室は単なる帰還地点ではなく、何か別のものをこちら側へ通すための「門」に変わろうとしている。

 仮面の人物は最後に、監視カメラへ向かって静かに告げた。

「Hotel Aequitasの支配人たちへ伝えておけ。人間を返すだけなら、我々も手を出さない。しかし、あの十二人をこの世界へ定着させるなら――世界そのものが、彼らを拒む」

 映像が途切れた。

 零号室の魔力反応だけが残る。

 私はしばらく動けなかった。

 そして、端末に新しい警告が表示された。

 RETURN PROTOCOL――SECOND PHASE

 帰還プロトコル第二段階。

 その下には、今まで存在しなかった新しい項目が表示されていた。

 NEXT ARRIVAL:01

 次の帰還者。

 私は画面を見つめた。

 十二人の帰還が終わった。

 それで一区切りだと思っていた。

 しかし、本当の意味での帰還は、これから始まる。

 Hotel Aequitasは今夜、初めて「世界から消えた人間たちを迎え入れるホテル」としてではなく、「世界そのものの境界を受け止める場所」になろうとしていた。

 私はフロントカウンターへ手を置き、静かに息を吐いた。

 外では、聖法院を名乗る者たちがホテルを取り囲んでいる。

 館内では、十二人の人間が眠っている。

 そして零号室では、正体不明の仮面の人物が姿を消した直後、新たな帰還プロトコルが動き始めた。

 明日になれば、さらに多くの人間がこのホテルへやって来るのかもしれない。

 それでも私は、フロントに立つ。

 宿泊客が来るなら、迎える。

 不安を抱えているなら、説明する。

 帰る場所を求めているなら、その選択肢を用意する。

 それがHotel Aequitasの仕事だからだ。

 ただし――今回だけは、その「次の客」が本当に宿泊客として迎えられる存在なのかどうか、まだ誰にも分からなかった。

 零号室の奥で、消えたはずの原初天秤の紋章が再び淡く輝く。

 そして、その中心に表示されたカウントが、静かに一つ減った。


 NEXT ARRIVAL:00:59:59


 新たな帰還まで、残り一時間。

 Hotel Aequitasの長い夜は、まだ終わらなかった。


――第38話 完

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