第37話「十二人の帰還者たち」
夜のHotel Aequitasには、昼間とは違った静けさがあった。フロントでは遅い時間に到着する宿泊客の対応が続いているものの、館内を行き交う者の数は徐々に減り、照明も少しずつ落とされている。そんな穏やかな時間とは裏腹に、私はフロントカウンターに置かれた端末を何度も確認していた。画面には、前話で確認された転送待機列の情報が表示されている。優先順位七位から十二位まで――つまり、残る六人の人間がまもなく零号室へ到着する予定だった。
「……あと少し、か」
思わず呟いたところで、隣からナナリーの声が飛んできた。
「アラタさん、また端末を見ていますね」
「すみません。気になってしまって」
「気持ちは分かりますが、何度確認しても到着時刻が早くなるわけではありませんよ」
「それはそうなんですけど……」
私は苦笑しながら端末を伏せた。ナナリーの言うことは正しい。ホテルの仕事では、予定されている到着を待つことも重要な業務の一つだが、だからといってフロントスタッフが到着時間を気にして何度も時計を確認していても意味はない。必要なのは、宿泊客が到着した瞬間に適切なサービスを提供できる状態を整えておくことだ。
私は以前、現実世界でホテルマンとして働いていた頃のことを思い出した。チェックイン予定時刻を過ぎても到着しない宿泊客を気にして、何度も予約情報を確認したことがある。けれど、いくら待っても客の到着そのものを早めることはできない。それならば、到着した瞬間に気持ちよく迎えられるよう準備しておく方がいい。異世界へ転生してからも、その基本的な考え方だけは変わっていなかった。
「そういえば、客室の準備は?」
「六室とも整っています。ガンゼフさんが食事の準備も進めていますし、必要であれば簡単な軽食もすぐ提供できるそうです」
「さすがですね」
「アシュリーさんも、必要になれば追加の客室清掃を行えるよう待機しています」
ナナリーから報告を聞き、私は小さく頷いた。今回戻ってくる六人は、普通の新規宿泊客とはまったく違う。彼らにとっては、最後に覚えている出来事からほとんど時間が経っていない。それなのに、目を覚ました先では数百年という途方もない時間が経過している。身体的な問題だけでなく、精神的な負担も考慮しなければならない。だからこそ、ホテルとしてできる準備だけは万全にしておきたかった。
その時だった。
フロントから少し離れた場所に設置されている館内端末が、一斉に淡い光を放った。
「来ます」
ナナリーの表情が変わる。
私もすぐに立ち上がり、零号室へ接続されている監視情報を確認した。画面上に表示された転送反応は一つではない。二つ、三つ、四つ……次々と反応が増えていき、最終的には六つの反応が同時に表示された。
「六人、全員ですね」
「はい」
私は息を整えた。
「では、迎えに行きましょう」
◇
零号室へ続く通路を抜けると、そこにはすでにブラッドリーとゼノが待機していた。二人とも状況を把握しているらしく、余計な言葉を交わすことなく転送装置の周辺を見守っている。やがて室内の空気がわずかに歪み、六つの光が中央へ集まり始めた。
最初に姿を現したのは、四十代ほどに見える大柄な男性だった。続いて黒髪を長く編み込んだ女性、その後ろには白髪の混じった男性、小柄な女性、少年のようにも見える青年、そして最後に長い外套を身につけた女性が姿を現した。六人はそれぞれ周囲を見回し、状況を把握しようとしているようだったが、彼らが目にしているものは当然ながら自分たちが知っている場所とは大きく違っている。
キーパーが彼らの存在を認識すると、空中に六人分の情報が順番に表示された。
ギャレット・モーガン。
ソフィア・クライン。
ヘンリー・カルダー。
ナディア・ベル。
テオ・マーシュ。
ルース・エヴァンス。
私は一人ずつ顔を確認した。全員、人間だ。そして全員が、これまで戻ってきた六人と同じく、人間消失事件の際に原初天秤の初期処理対象として登録されていた人物だった。
「皆様、聞こえますか?」
私はできるだけ落ち着いた声で話しかけた。
「ここはHotel Aequitasです。皆様は現在、安全な状態でこちらへ到着されています。突然のことで混乱されていると思いますが、まずはお身体の状態を確認させてください」
大柄な男性――ギャレットがすぐに私へ視線を向けた。
「待て。ここはどこだ?」
「Hotel Aequitasです」
「そんなことを聞いているんじゃない。原初天秤はどうなった?」
やはり、最初に出てくるのはその名前だった。
「原初天秤については、後ほど説明します。ただ、皆様が最後に覚えている出来事から、こちらではかなり長い時間が経過しています」
「長い時間?」
ソフィアが不安そうに尋ねる。
「はい。皆様がこの世界から消えてから、数百年が経過しています」
その言葉を聞いた瞬間、六人の表情が固まった。
誰もすぐには言葉を返さなかった。ギャレットは何かを否定するように首を振り、ソフィアは自分の手を見つめている。ナディアはその場で何度か深呼吸を繰り返し、テオは周囲を見回したあと、私の顔へ視線を戻した。
「……数百年?」
「はい」
「冗談だろ」
「冗談ではありません」
私がそう答えると、ブラッドリーが静かに一礼した。
「こちらで確認できる記録とも一致しております。皆様がこの世界から消失した時期と、現在の時間には非常に大きな隔たりがあります」
ギャレットはしばらく黙っていたが、やがて低い声で尋ねた。
「他にも戻っているのか?」
「はい。エリアス・リードさん、ミラ・ホーソーンさん、ジョナス・ヴェイルさん、レナ・フォスターさん、オスカー・ベネットさん、フィオナ・グレイスさんの六名です」
名前を聞いた途端、六人の反応が変わった。
「エリアスが?」
テオが驚いたように声を上げる。
「はい。こちらにいます」
「生きてるのか?」
「はい」
「そうか……」
テオはそれだけ呟くと、しばらく俯いていた。
その反応を見て、私は改めてこの人たちがどれほど特殊な状況に置かれているのかを実感した。本人たちにとっては、ほんの少し前まで一緒にいた仲間が、数百年の時間を越えて生きていたことになる。こちらの世界では歴史上の人物に近い存在でも、本人たちの感覚では決して過去の人ではないのだ。
「皆様、まずは無理をしないでください。現在、先に戻られた六名もこのホテルに滞在しています。体調確認が終われば、希望される場合はすぐに会っていただけます」
「……分かった」
ギャレットがようやく頷いた。
私はその様子を確認すると、まずは全員の体調確認を優先することにした。
◇
六人の簡単な状態確認が終わるまで、それほど時間はかからなかった。幸い、転送そのものによる目立った身体的異常は確認されなかったが、全員が精神的な疲労を感じていることは明らかだった。そのため、私はすぐに会議を始めることはせず、まずは客室へ案内するつもりだった。
ところが、彼らの方から先に戻った六人へ会いたいという申し出があった。
それならばと、私たちは会議室を用意した。
扉が開くと、先に戻っていた六人が一斉に振り返った。
「ギャレット……」
エリアスが立ち上がった。
「エリアス!」
ギャレットも歩み寄る。
二人はしばらく言葉を交わさず、お互いの姿を確認するように見つめ合っていた。やがてギャレットがエリアスの肩へ手を置くと、エリアスもその手を握り返した。
「生きていたんだな」
「ああ。お前もな」
それだけの言葉だった。
けれど、その短いやり取りには数百年という時間を越えて再会した二人にしか分からないものが含まれているように感じられた。
その一方で、ソフィアとフィオナ、ナディアとレナもそれぞれ再会を果たしていた。ヘンリーはジョナスの姿を確認すると、さっそく何かを尋ねようとしたが、ジョナスが「今は後にしよう」と制止している。どうやら二人とも研究者らしく、再会した瞬間から原初天秤について話し始めるつもりだったらしい。
私はその光景を少し離れたところから見守っていた。
十二人。
これで全員が揃った。
人間消失事件の最初期に原初天秤の処理対象となった十二人。その全員が今、Hotel Aequitasへ戻ってきている。
それは大きな意味を持っているはずだった。
しかし、まだ何が起こるのかは分からない。
◇
再会の時間を十分に取った後、本人たちの同意を得て、全員で情報を整理することになった。私は前回の聞き取りで判明した内容を簡単に説明し、今回戻ってきた六人へ同じ質問をした。
まず、原初天秤の初期処理対象として登録されていたことを知っていたかどうか。結果として、十二人のうち本人がその事実を知っていたのは一部だけだった。つまり、七人もの人間が自分の知らないところで参照対象として登録されていたことになる。
次に、人間消失事件が発生した直前の記憶について尋ねた。すると、今回戻ってきた六人の証言にも、これまでの六人と共通する部分があった。
「落ちる感覚なら、俺も覚えている」
ギャレットが答える。
「身体が下へ引っ張られたような感じだった。何かに押されたわけじゃない。足元そのものがなくなったような感覚だ」
「私も似ています」
ソフィアが続けた。
「ただ、私はその直前に声を聞きました。誰かが遠くで何かを歌っていたような……そんな感じでした」
私はその言葉を聞いて、ノックスから以前聞いた話を思い出した。
境界層にいる人間たちが聞いているという声。
眠っている者たちの周囲から聞こえる、正体の分からない音。
そして、人間が消える直前にも聞こえていたという声。
偶然とは思えなかった。
「その声について、何か覚えていることは?」
私が尋ねると、ソフィアはしばらく考えてから首を振った。
「言葉までは分かりません。ただ、怖い感じではなかったと思います」
「私は違う」
ルースが口を開いた。
「怖かった」
全員の視線が彼女へ集まる。
「私は声というより、誰かに見られている感覚があった。原初天秤が起動した瞬間、台座の下に何かがいるような気がした」
「台座の下?」
エリアスが反応した。
「やはり見たのか」
「エリアスさんも?」
「ああ。ただ、俺が見たものと同じかどうかは分からない」
ジョナスが静かに二人の話を聞いていた。
「僕も感じた。ただし、姿は見ていない。何かが存在しているという感覚だけだった」
私は黙って彼らの話を聞いていた。
これまでの証言をまとめると、原初天秤の暴走には少なくとも三つの現象が関係している可能性がある。人間が世界から切り離される直前に発生した落下感覚、複数の人間が聞いた正体不明の声、そして原初天秤の下に存在した「何か」。
しかし、まだそれらが一つの存在なのか、それとも別々の現象なのかは分からない。
「もう一つ、確認してもいいですか?」
私はルースへ尋ねた。
「はい」
「前回、原初天秤に特殊な表示が出たという話がありましたよね」
「そうだ」
「それについて、詳しく覚えていますか?」
ルースはしばらく目を閉じ、記憶を辿るように考えた。
「補正処理が始まる少し前だった。原初天秤の表示が通常とは違う状態になった」
「どんな表示です?」
「英語だった。OCCUPANCY:INCOMPLETE」
私は眉をひそめた。
Occupancy。
ホテルで働いていた私には、聞き慣れた言葉だった。
ホテル業界におけるOccupancyは、一般的には「客室稼働率」や「客室の利用状況」を指す。販売可能な客室のうち、どれだけの部屋が宿泊客によって使用されているかを示す重要な指標だ。
もちろん、原初天秤の表示がホテル業界と同じ意味で使われているとは限らない。
それでも、この場所がHotel Aequitasである以上、その単語が出てくることには妙な違和感があった。
「その後、どうなったんですか?」
「数字が変わった」
「何に?」
ルースは私を見た。
「十二分の十二だ」
会議室の空気が静まり返った。
十二人。
全員。
私は無意識に自分の端末へ目を向けた。
◇
その瞬間だった。
端末が小さく震えた。
私は画面を確認する。
そこには、今まで表示されていなかった新しい項目が現れていた。
OCCUPANCY:12 / 12
「……同じだ」
ルースが呟く。
ジョナスが立ち上がった。
「これは、原初天秤側の処理と同期しているのか?」
キーパーが情報を解析する。
『原初天秤との接続状態を確認しています。十二名の存在情報がすべて認証されました』
「認証?」
『はい。十二名の存在情報を、帰還対象として固定します』
私は画面を見つめた。
「固定……?」
『確認します。十二名を帰還時の基準点として設定します』
ジョナスの表情が変わった。
「アンカーか」
「アンカー?」
「固定点という意味だ。もしこの十二人が、今後帰還する人間たちの基準として使われるなら……」
彼はそこで言葉を止めた。
「人間を戻すための基準を、まずこの十二人で作っている可能性がある」
私はその言葉を聞きながら、これまでノアが行っていたことを思い返した。
優先順位。
十二人の先行帰還。
零号室。
そして、現在始まった存在情報の認証。
すべてが一つにつながり始めている。
ノアは最初から、十二人をただ先に帰還させようとしていたわけではない。
この十二人を「基準」にするために戻していたのだ。
「でも、それなら……」
私は画面を見た。
新たな表示が追加される。
ANCHOR SET:CONFIRMED
続いて、その下にさらに文字が浮かび上がった。
DESTINATION:HOTEL AEQUITAS / ROOM 0
「帰還先が……零号室?」
ブラッドリーが静かに頷く。
「どうやら、そういうことのようですね」
私はそこでようやく理解した。
ノアは人間をいきなり世界へ戻すつもりではない。
まずHotel Aequitasの零号室へ戻す。
そこで本人の状態を確認し、意思を確認し、その後の行き先を決める。
もしそれが本当なら、これは単なる転送システムではない。
ホテルを、一種の「帰還地点」として利用している。
そして、それは私たちHotel Aequitasにとっても非常に大きな意味を持つ。
人間を安全に迎え入れる場所。
世界へ戻る前に、一度立ち止まれる場所。
つまり――このホテルそのものが、人間と異世界をつなぐ最後の中継地点になろうとしている。
◇
その日の夜、十二人にはそれぞれ客室へ戻ってもらった。すぐに詳しい調査を始めることも考えたが、私はブラッドリーたちと相談したうえで、今日はこれ以上踏み込まないことにした。
数百年ぶりに帰還したばかりなのだから、彼らには休息が必要だ。ホテル業務においても、チェックイン直後の宿泊客へ必要以上の情報を一方的に与えることは避ける。相手の状況を見ながら、必要な情報を必要なタイミングで提供することが基本だ。
世界規模の問題であっても、その原則は変わらない。
私は夜のフロントへ戻った。
館内は静かだった。
いつものHotel Aequitasだ。
異世界でも、宿泊客が眠る時間になればホテルは静かになる。昼間の喧騒が嘘のように消え、照明に照らされたロビーには落ち着いた空気が流れている。
私はカウンターの内側から館内を見渡した。
十二人。
全員が戻った。
これで人間消失事件の最初の調整対象者は揃った。
あとは、彼らの記憶を繋ぎ合わせれば、何かが見えてくるかもしれない。
「……本当に、これで終わりなのかな」
私はそう呟いた。
もちろん、終わりではない。
むしろ始まったばかりだ。
ノアが警告していたカウントダウンは、まだ続いている。端末を見ると、残り時間は三十五時間ほど。十二人が揃ったことで新しい処理が始まったが、それが何を意味するのかはまだ分からない。
その時、端末が震えた。
「……?」
画面に表示されたのは、これまでとは違う通知だった。
MESSAGE RECEIVED
送信者は、ノア。
私はすぐに内容を確認した。
そこには短い文章が表示されていた。
The twelve are back. Good.
十二人は戻った。よかった。
私はその文章を見つめた。
そして、その下に続く一文を読んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
But don't start the transfer. Someone else will try first.
転送を始めるな。
先に、別の誰かが動く。
「……誰が?」
思わず口に出した。
返事はない。
しかし、その直後にもう一つの文章が表示された。
Watch Lucius.
ルキウスを見張れ。
私はしばらく画面から目を離せなかった。
ルキウスは現在、Hotel Aequitas側の管理下にある。原初天秤の管理権限も失っており、単独で自由に行動できる状況ではない。それでもノアは、わざわざ彼を見張れと言ってきた。
ならば、問題はルキウス本人ではないのかもしれない。
彼が何かをする。
あるいは。
彼を利用して、誰かが何かをする。
私はすぐに館内連絡を使い、ブラッドリーへノアからのメッセージを伝えた。しばらくすると、拘束中のルキウス本人には異常がないという報告が返ってきた。
ところが、その直後だった。
館内の警戒システムが低い警告音を発した。
「何……?」
端末を見る。
Hotel Aequitasの敷地外周部。
複数の魔力反応が検知されている。
しかも、その反応はゆっくりとホテルへ近づいていた。
「ブラッドリーさん!」
私はすぐに通信を開く。
『こちらでも確認しました』
「人数は?」
『現在確認できる範囲では、複数です。正確な数はまだ分かりません』
「聖法院の可能性は?」
『断定できません。ただ、こちらへ向かっていることだけは確かです』
私はフロントカウンターを離れた。
数時間前、十二人の人間がようやく揃った。
原初天秤は十二人をアンカーとして認証した。
そして今。
ノアから警告が届いた直後に、ホテルの外へ複数の何者かが近づいている。
偶然だとは思えなかった。
私は制服の上着を整えながら、深く息を吐いた。
「……今日は、まだ終わらないみたいですね」
ホテルマンとしてなら、夜間に突然やってくる宿泊客にも対応しなければならない。
ただし今回、玄関の向こうにいる者たちが宿泊客なのか、それともHotel Aequitasそのものを狙っているのかは分からない。
分からないからこそ、こちらから勝手に決めつけるわけにはいかなかった。
まず確認する。
何者なのか。
何を目的としているのか。
そして、もし彼らが人間の帰還を利用しようとしているのなら――Hotel Aequitasのスタッフとして、宿泊客である十二人を守る。
私はロビーの中央へ歩み出た。
夜のHotel Aequitas。
十二人の人間が眠る館内。
そして、外から近づいてくる正体不明の集団。
カウントダウンは、まだ三十五時間以上残っている。
それでも、何かが動き始めていた。
人間たちが帰ってきたことで、世界の均衡が変わったのか。
それとも、最初から誰かがこの瞬間を待っていたのか。
その答えを知ることになるのは、もうすぐだった。
――第37話 完




