第36話「十二人の証言」
帰還待機列に表示された五番目と六番目の人間は、それから一時間も経たないうちに零号室へ到着した。
名前は、オスカー・ベネットとフィオナ・グレイス。二人とも人間消失事件当時、このHotel Aequitasに滞在していた記録が残っていたが、立場は大きく異なっていた。オスカーは聖法院の境界研究に協力していた技術者で、フィオナは長期療養のためにAequitasへ滞在していた一般客だった。
この時点で、ノアが帰還優先順位を設定していた十二人のうち、六人が戻ったことになる。
エリアス・リード。ミラ・ホーソーン。ジョナス・ヴェイル。レナ・フォスター。そして、オスカーとフィオナ。
面白いという言い方は不謹慎かもしれないが、六人の経歴には共通点がほとんどなかった。研究関係者もいれば、商人もいる。この世界へ定住しようとしていた者もいれば、たまたまHotel Aequitasに宿泊していただけの者まで含まれている。
「本当に、この十二人を選んだ基準って何なんでしょうね」
零号室から本館へ戻る途中、私は隣を歩くブラッドリーへ尋ねた。
「少なくとも、立場や職業だけでは説明できませんね」
「原初天秤の初期処理対象だったってことは分かってるんですけど、本人たちが全員それを知ってたわけでもない」
「ええ。ミラ様やフィオナ様のように、対象に登録されていたこと自体をご存じなかった方もいます」
「つまり、本人たちの意思とは別に十二人が選ばれてた」
「その点については、ルキウス様から追加で確認する必要があります」
私は小さく頷いた。
原初天秤を使った実験は、人間をこの世界へ安定して定着させることが目的だった。だが最初の調整対象として選ばれた十二人のうち、実験参加の意識があった者は一部だけだったらしい。
そこに、まだ説明されていない事実がある。
◇
六人の帰還者については、全員を一か所に集めるのではなく、まず一人ずつ状態確認と聞き取りを行うことになった。
数百年という時間を失った者たちへ、こちらの都合で「歴史の証人」として働いてもらうわけにはいかない。彼らは最初に研究対象でも情報源でもなく、Hotel Aequitasへ戻ってきた宿泊客なのだ。
その方針を最も強く支持したのは、意外にもエリアスだった。
「急がせるな」
彼は本館のラウンジで私にそう言った。
「ジョナスは何でもすぐ調べたがる。ミラも頭の切り替えが早い。でもフィオナは違う。あいつは昨日まで治療のためにここへ泊まっていたと思っているんだ」
「そうですよね」
「それなのに、起きたら何百年も先だ。病気がどうなったかも分からない。家族もいないかもしれない。そんな奴へ、まず昔の実験について話せというのは酷だ」
私は何も言わず頷いた。
ホテルで働いていると、客を一括りにしたくなる瞬間がある。団体客、長期滞在客、VIP、クレーム客。分類は仕事を効率化するうえでは必要だが、その分類が相手そのものだと思い始めると危険だ。
「帰還した人間」も同じだった。
六人には六人分の事情がある。
「エリアスさん、数百年前もこういう立場だったんですか?」
「何がだ」
「皆さんのまとめ役みたいな」
「違う。むしろミラによく怒られていた」
「じゃあ今、急に責任感が出てきた?」
「一番先に戻ったからだろう」
エリアスは少し困ったように笑った。
「俺が目を覚ました時には、お前がいた。ブラッドリーもいた。このホテルがまだ残っていると分かった。それだけでもかなり違った」
その言葉に、私は少し驚いた。
「私、役に立ってました?」
「少なくとも、知らない世界で最初に会った相手が同じ人間だったのは助かった」
真壁怜司にも似たことを言われた。
私はこの世界に来た時、同じ人間が誰もいなかった。
だからこそ今は、帰還者にとって私がいること自体に意味があるのかもしれない。
大したことをしている実感はない。
ただ、そこにいる。
話を聞く。
それだけでも十分な場合がある。
◇
午後になると、六人の状態がある程度落ち着いたため、本人たちの同意を得たうえで小規模な聞き取り会を開くことになった。
場所は宴会場ではなく、本館の会議室。
大人数に見える配置は避け、中央に大きな円卓を一つ置いた。ブラッドリー、私、ゼノ、そして六人の帰還者。セレスも本人の希望で参加することになった。
彼女が会議室へ入ってきた瞬間、空気が一変した。
「……セレス?」
フィオナが最初に声を上げる。
セレスも六人の顔を見て、立ち止まった。
「お前たち……」
その声には、これまで私の前ではほとんど見せなかった動揺があった。
レナが立ち上がる。
「生きてたの?」
「そっちこそ」
短いやり取りだったが、それ以上は必要なかったように見えた。
数百年前の知人。
片方は境界層を彷徨い、片方は正体不明の転送保留状態に置かれていた。
それでも本人たちの感覚では、最後に会ってからそれほど時間は経っていないのだろう。
私は彼らが落ち着くまで待ってから、ようやく話を始めた。
「今日は、無理に全部思い出していただく必要はありません。分かる範囲だけで大丈夫です」
ジョナスがすぐに口を開く。
「原初天秤についてだろう?」
「はい。ただ、先に確認したいことがあります。皆さんは、実験の最初の調整対象十二名として登録されていました。このことを知っていた方は?」
手を挙げたのは三人。
エリアス。
ジョナス。
オスカー。
残りの三人は知らなかった。
「やっぱり……」
私はブラッドリーを見る。
想定していた通りだ。
「オスカーさん。技術側にいたなら、なぜ本人への説明なしで対象登録された人がいたのか分かりますか?」
オスカーは少し顔を曇らせた。
「当時の計画では、“人間存在の分布を測定するための基準点”が必要だった」
「基準点?」
「原初天秤が人間全体へ作用しないよう、最初に十二人だけを参照対象として登録したんだ。年齢、滞在期間、身体適応度、出身世界などが異なる人間を選び、調整結果を比較するつもりだった」
「だから研究参加者じゃない人も入ってた?」
「ああ」
「本人の同意なしで?」
オスカーは黙った。
その沈黙が答えだった。
ミラの表情が険しくなる。
「つまり、私たちは勝手に実験対象にされていた?」
「……参照対象だ。直接処置する予定ではなかった」
「言い方の問題でしょ」
ミラの声は冷たかった。
「本人に黙って登録したなら、同じよ」
「その通りだ」
オスカーは反論しなかった。
数百年前のことだ。
それでも、本人たちにとっては昨日の出来事に近い。
「ルキウスが決めたの?」
レナが尋ねた。
「最終承認はルキウスだ。ただ、設計には私も関わった」
オスカーはそう答えると、テーブルの上で手を握った。
「言い訳はしない。当時は安全だと思っていた」
会議室に重い沈黙が落ちた。
私は無理に割って入らなかった。
過去の当事者同士が話すべきことまで、ホテル側が仕切る必要はない。
やがてセレスが低い声で言った。
「安全だと言ったのはルキウスだ」
「俺たちも信じた」
「私は止めた」
「ああ」
「ノアも止めた」
「それも知っている」
オスカーの返事には、長く抱えてきた後悔というより、ついさっきまで続いていた出来事を振り返っているような生々しさがあった。
◇
そこからの聞き取りで、人間消失事件当日の状況が少しずつ具体的になっていった。
原初天秤を実際に操作したのは、ルキウスを中心とする聖法院の研究班。エリアスとジョナス、オスカーは基底区画内にいた。ミラ、レナ、フィオナはHotel Aequitasの本館側におり、実験そのものには立ち会っていない。
それにもかかわらず、原初天秤の起動後、三人を含むすべての人間が同時に世界から切り離された。
「操作開始直後までは正常だった」
オスカーが説明する。
「原初天秤は十二人を識別し、人間とこの世界の差異を計測していた。問題が起きたのは、補正処理へ入った瞬間だ」
「その時、何が?」
「天秤が十二人だけじゃなく、世界に存在するすべての人間を検出した」
ジョナスが続ける。
「本来ならあり得ない。対象範囲は封じていた。なのに突然、原初天秤が人間という種そのものを一つの対象として扱い始めた」
「誰かが設定を変えた?」
「違う」
オスカーは首を振った。
「少なくとも操作盤上では変更されていなかった」
私はエリアスを見る。
「天秤の下で何かが動いたって言ってましたよね」
「ああ」
「他に見た人は?」
しばらく誰も反応しなかった。
しかし。
「僕も見た」
ジョナスが静かに言った。
エリアスが驚いて彼を見る。
「お前も?」
「言えなかった。あの時は錯覚だと思ったから」
「何を見たんです?」
ジョナスは少し考えながら答えた。
「影だ。原初天秤の台座の下に、一瞬だけ巨大な何かがあった。形は分からない。ただ、天秤が起動した瞬間、それがこちらを見た気がした」
レグナが語った「神」と呼ばれる存在が頭をよぎった。
だが、境界の奥で眠る神と、Hotel Aequitas地下にある原初天秤の下の何かが同一だと決めつけるのは早い。
「セレスさんは?」
私が尋ねる。
「見ていない。ただし異常は感じた」
「境界側で?」
「ああ。原初天秤が動いた直後、この世界の境界が内側からではなく、もっと深い場所から引っ張られた。だから私はルキウスへ停止を要求した」
「でも止めなかった」
「正確には、止められなかった」
セレスの声に怒りが戻る。
「操作を中止しても原初天秤が動き続けた。あの時点で、もうルキウスの制御下にはなかった」
私は思わず顔を上げた。
「それ、大事な話じゃないですか」
これまで私は、ルキウスが原初天秤を操作し続け、その結果として人間全員を消したのだと思っていた。
しかし実際は違う。
彼は起動した。
そこまでは事実。
だが途中から装置そのものが制御不能になった。
「ルキウスさんは、そのことを言ってませんでした」
「言いたくないのだろう」
セレスが冷たく答える。
「自分が制御できなかったと認めるより、自分の実験が失敗したと考える方が、あいつにはまだ耐えられる」
それは妙に納得できる話だった。
ルキウスは世界を自分の理論で理解しようとしている。
もし原初天秤の暴走が、彼の想定すら超えた別の何かによるものだったと認めれば、数百年かけて積み上げた「世界を一つに戻せば人間も戻る」という結論そのものが崩れる可能性がある。
◇
「もう一つ確認したいです」
私は六人を見回した。
「皆さんが消える直前、何か声を聞いたり、同じものを見たりした記憶はありませんか?」
ノックスが聞いたという、眠っている者たちの声。
そして人間たちが転送保留になっている場所。
何か共通点があるかもしれない。
最初は誰も答えなかった。
やがてフィオナが、ためらいながら手を挙げた。
「私……歌を聞いたと思う」
「歌?」
「声だったのかもしれない。でも、遠くから誰かが同じ音を繰り返していた」
「言葉は?」
「分からない」
するとレナも顔を上げた。
「私も聞いた」
「同じもの?」
「たぶん。部屋にいた時、急に耳鳴りみたいな音がして、それから……誰かが呼んでる気がした」
ミラまで頷く。
「私は声までは覚えてない。でも、消える直前に“下へ落ちる”感じがした」
全員に共通している。
世界から切り離された瞬間。
彼らは横へ飛ばされたのではない。
下へ。
ノックスも言っていた。
境界の下。
「基底区画の“基底”って……」
私は呟く。
ブラッドリーがすぐに反応した。
「単なる建物の地下を意味していない可能性がありますね」
「世界の下にある場所?」
「断定はできませんが」
ジョナスが強い興味を示した。
「もし原初天秤が、世界間の存在比率ではなく“世界そのものの基底”へ接続していたとしたら……」
「待ってください」
私はすぐに止めた。
「研究モードに入る前に、一般人にも分かるようにお願いします」
「……すまない」
ジョナスは眼鏡を直しながら説明し直す。
「例えば、世界が建物だとする。境界は部屋と部屋を隔てる壁だ。僕たちは今まで、別の部屋へ移されたと思っていた。でも実際には、建物の床下に落とされた可能性がある」
「どの世界にも属してない?」
「そうだ。ただし境界層とも違う。境界層が部屋と部屋の間の廊下なら、僕たちがいた場所は建物の基礎部分に近い」
かなり分かりやすい。
そして嫌な例えだ。
「だからノックスさんは境界層を探しても人間を見つけられなかった」
「可能性は高い」
それなら、人間たちが「転送保留」になっていることも説明できる。
行き先が決まっていないのではない。
世界の外へ一度退避させられたまま、帰属先を決める処理が止まっている。
「原初天秤は、人間を消したんじゃなくて……一旦ホテルで言うところの“保留”にした?」
私がそう言うと、ジョナスが少し困った顔をした。
「かなり乱暴だが、そう考えれば近い」
「私にはそれが一番分かりやすいので」
ゼノが横で小さく笑った。
◇
聞き取りが終わった後、六人にはそれぞれ自由に過ごしてもらうことにした。
研究に関わっていた三人はさらに話したそうだったが、ナナリーから「長時間の聞き取りは行わない」と事前に言われている。Hotel Aequitasへ戻ってきてからまだ一日も経っていない者もいるのだから、当然だった。
会議室を出ようとしたところで、セレスに呼び止められた。
「アラタ」
「はい」
「ルキウスと話したい」
来た。
いつかは言うと思っていた。
「今ですか?」
「ああ」
「殴りません?」
「約束はできない」
「じゃあ駄目です」
即答すると、セレスが露骨に不満そうな顔をした。
「一発だけだ」
「回数の問題じゃないです」
「では剣は使わない」
「もっと駄目です」
ゼノが肩を震わせている。
「笑ってないで助けてください」
「無理だ。昔から止まらん」
「ゼノ」
セレスが睨む。
「何でもない」
急に大人しくなった。
私はため息をついてから、少し真面目に言った。
「話すこと自体は、ブラッドリーさんたちと相談します。ルキウスさんも、機会があればあなたと話すって言ってました」
セレスの表情が変わる。
「……あいつが?」
「はい」
「何を言うつもりだ」
「そこは本人に聞いてください。ただし、警備立ち会いです。それと暴力禁止」
「Hotel Aequitasの規則か」
「はい」
セレスはしばらく黙った後、渋々頷いた。
「分かった」
意外と素直だ。
数百年分の因縁がある二人。
対面すれば何か新しい事実が出てくる可能性もある。
それでも、まず安全に話せる状態を作る必要がある。
最近はその判断に迷わなくなっていた。
◇
夕方、私はフロント業務へ戻った。
転送待機列はまだ空のままだった。五位と六位まで帰還した以上、すぐ七位以降が来ると思っていたが、今回は少し間が空いている。
CONNECTION WINDOW:38:17:44
残り約三十八時間。
最初の四十八時間から、すでに十時間近く経っている。
私はチェックインを一件終え、端末を確認した。
今のところ新しい通知はない。
「アラタ」
隣のカウンターにいたアシュリーが声をかけてくる。
「何度もそれ見るのやめたら?」
「気になって」
「待ってても早くならないでしょ」
「分かってるんですけどね」
「予約客の到着をずっと玄関で待つ新人みたい」
「昔やりました」
「やったの?」
「日本にいた頃、VIPの到着が気になりすぎて」
「じゃあ成長してないじゃない」
「言わないでください」
笑いながら端末をしまう。
確かに。
カウントダウンを眺めていても時間は進むだけだ。
その間にできる仕事をする方がいい。
私は次の宿泊客を迎え、館内案内をし、食事の問い合わせへ答えた。しばらく通常業務へ集中していると、いつの間にか不安も少し薄れていた。
ところが、夜のチェックインが落ち着き始めた頃。
端末が震えた。
私はすぐには開かなかった。
目の前の客への鍵の受け渡しを終え、エレベーターの場所を案内し、最後に「ごゆっくりお過ごしくださいませ」と一礼してから、ようやく画面を確認する。
TRANSFER QUEUE DETECTED
やはり来た。
ただし、表示された人数を見て私は眉をひそめた。
WAITING:6
「……六人?」
これまで一人、三人、二人と来ている。
そして残りは六人。
合計十二人。
「優先対象、全員……」
すぐにキーパーへ接続する。
『はい。帰還優先順位七位から十二位までを同時に検出しました』
「到着は?」
『約二時間後』
「全員人間?」
『はい』
十二人が揃う。
ノアが先に戻すよう設定した。
人間消失事件の最初の調整対象者たち。
おそらく、この六人が戻れば。
あの日の証言を。
全員分。
集められる。
ただし私は、そこで先の結論へ飛びつかないようにした。
十二人が揃ったからといって、すぐ原初天秤へ向かっていいわけではない。むしろノアは、明確に「まだ触るな」と警告している。カウントダウンも三十八時間残っている以上、何か別の条件が整うのを待っている可能性が高い。
まず六人を迎える。
体調を確認する。
本人たちへ現在の状況を説明する。
それから必要なら証言を聞く。
順番は変えない。
「アシュリー」
「何?」
「すみません。また旧館行ってきます」
「また?」
「今度は六人来ます」
「何が?」
一瞬答えに迷う。
一般スタッフへの情報共有はまだ制限されている。
「……特殊なお客様です」
「最近その言い方、多くない?」
「気のせいです」
アシュリーは明らかに怪しんでいたが、それ以上は聞かなかった。
私はナナリーへフロントを離れることを伝え、旧館へ向かう。
数百年前から停止していた十二人の帰還。
その最後の六人が、もうすぐHotel Aequitasへ到着する。
そして彼ら全員の記憶が揃った時、人間消失事件の全貌に今までとは違う角度から近づけるはずだ。
ただ、私の頭には別の疑問も浮かんでいた。
ノアは、なぜ十二人を先に戻す必要があると判断したのか。
単に証言者を集めるためだけなのか。それとも十二人全員が揃うこと自体に、原初天秤を安全に扱うための意味があるのか。
その答えを知るのは、おそらくもう少し先だ。
私は歩きながら端末のカウントダウンを一度だけ確認し、今度こそ画面を閉じた。
まだ三十八時間ある。
焦って先へ進む必要はない。
今はまず、Hotel Aequitasへ帰ってくる六人を迎えること。
それが、このホテルのフロントに立つ私の仕事だった。
――第36話 完




