第34話「最初に帰ってきた人間」
端末に表示された BIOLOGICAL ARRIVAL:CONFIRMED――生体到着確認済み の文字を見たまま、私は旧館へ向かって歩いていた。
四十八時間後に何かが起こる。その可能性を考え、私たちは準備を始めたばかりだった。それなのに、まだ残り四十五時間近くある段階で、転送待機列に一名の人間が現れた。
しかも今回は真壁怜司の時とは違う。記憶や人格情報だけが先行しているわけではない。キーパーの判定では、肉体を伴った生きた人間が、実際にこの世界へ到着しようとしている。
もしこれが数百年前の人間消失事件と繋がっているのなら、歴史上初めて「消えた人間」が帰ってくることになる。
「落ち着け……」
自分へ言い聞かせながら、私は端末の表示を確認する。
TRANSFER QUEUE:1
SPECIES:HUMAN
BIOLOGICAL ARRIVAL:CONFIRMED
名前はまだ表示されていない。到着時刻も不明のままだったが、転送経路そのものは形成され始めているらしい。
ホテルで団体客の到着が予定より早まることはある。しかし、数百年前から転送保留になっていた人間が四十五時間前倒しで来るケースについては、さすがに経験がない。
「ナナサキ!」
旧館入口まで来たところで、後ろからナナリーの声が飛んできた。
振り返ると、彼女とブラッドリーが早足でこちらへ向かっている。どうやらキーパーから同じ通知を受け取ったらしい。
「一人で先に行かないよう申し上げたはずですが」
「走ってませんよ」
「問題はそこではありません」
「……すみません」
成長したつもりだったが、まだ完全ではないらしい。
ブラッドリーが端末を確認する。
「状態に変化は?」
「待機一名のままです。名前と到着時刻はまだ取れていません」
「零号室のロビー制御は?」
「正常です」
「ならば、まず通常の到着者と同じ対応を取りましょう」
「普通にチェックイン対応?」
「宿泊を希望されるかどうかも分かりません」
その通りだった。
私はいつの間にか「帰還した人間をホテルへ泊める」つもりになっていたが、本人の希望はまだ何も聞いていない。
「……また先走りました」
「気持ちは分かります」
ブラッドリーは責めなかった。
「ただし今回こそ、相手の意思確認を最優先にしてください。数百年前の方である可能性が高いなら、本人にとって現在のフレーレオはまったく知らない世界と同じでしょう」
私は頷いた。
そうだ。
私自身が異世界へ来た時を思い出せばいい。
知らない街。
知らない種族。
知らない時代。
その不安を、今度は私たちが受け止める側になる。
◇
零号室へ入ると、すでにロビー制御が起動していた。
フロントカウンターの向こうにある境界側の空間は普段より白く霞み、細かな光の粒がゆっくりと渦を巻いている。キーパーは操作盤の前に立ち、転送経路を監視していた。
「管理者」
「状況は?」
「転送待機者一名。身体情報、人格情報ともに安定しています。ただし転送元の座標を特定できません」
「境界層じゃない?」
「違います。現在使用されている経路は、通常の世界間座標にも境界層にも該当しません」
昨日ルキウスから聞いた話が頭へ蘇る。
人間たちはこの世界から切り離されたが、通常の世界にも境界層にも見つからなかった。そして零号室に残っていたのは TRANSFER PENDING――転送保留 という記録だけ。
「その人が転送保留されていた人間かどうか、確認できます?」
「現在照合中です」
画面に古い記録が次々と流れていく。
数百年前の宿泊者台帳だろうか。
Hotel Aequitasに滞在していた者の名前や種族が、一瞬ずつ表示されては消えていく。
やがて、一件で止まった。
MATCH FOUND
「見つかった?」
「はい」
私は息を呑んだ。
キーパーが情報を展開する。
NAME:ELIAS REED
SPECIES:HUMAN
ORIGINAL STATUS:LONG-STAY GUEST
「エリアス・リード……」
ブラッドリーが名前を読み上げる。
「Hotel Aequitasの宿泊客だった?」
「はい」
キーパーが続けて、古い宿泊記録を表示した。
宿泊期間。
百二十三日。
「長いですね」
「この世界に定着する準備をしていた人間だったのかもしれません」
ナナリーが言う。
さらに記録が開かれる。
ARRIVAL ORIGIN:OTHER WORLD
CHECK-IN:COMPLETED
DEPARTURE:NOT RECORDED
「出発記録なし……」
「人間消失事件の際、宿泊中だったと推定されます」
私は画面を見つめた。
Hotel Aequitasに泊まっていた客が。
ある日突然。
世界から消えた。
チェックアウトもせず。
出発記録も残さず。
数百年後。
今になって。
ようやく戻ってくる。
ホテルマンとして考えると、とんでもない長期未着案件だ。
「エリアスさんは、今の時間がどれくらい経っているって認識してるんでしょう」
「不明です」
「本人にとっては数百年前の続きかもしれない?」
「可能性があります」
胸が重くなる。
もし彼にとって昨日の続きだったら。
知っている人は。
ほぼ全員いない。
街も変わっている。
Hotel Aequitasも。
きっと別物に見える。
「……ちゃんと説明しないと」
ナナリーが私を見る。
「一度に全て話す必要はありません」
「分かっています」
「まず現在地と安全を伝えること。身体状態を確認すること。そして本人の認識している最後の記憶を聞く。順番に対応しましょう」
現実世界で、長時間の意識不明から目覚めた人へ対応するようなものだろうか。
ただし今回は。
眠っていた時間が。
数百年。
比べ物にならない。
◇
十分ほど経った頃、零号室の照明がゆっくりと落ちた。
フロントの向こうで渦巻いていた白い光が、一点へ集まり始める。
「転送開始」
キーパーの声が響く。
私はカウンターの内側で姿勢を整えた。ブラッドリーとナナリーは少し後ろへ下がり、バルガスも警戒態勢のまま入口側に立っている。
今回の相手は人間だ。
だからといって、安全だと決めつけてはいけない。
同じ種族であることと、同じ人物であることは別だ。
白い光の中心から、少しずつ人の輪郭が現れる。
成人男性。
私より少し背が高い。
髪は淡い茶色。服装は古風だが、この世界のものとは明らかに違う。シャツと長いコートを組み合わせたような格好で、腰には小さな革鞄が下げられていた。
男の両足が床へ触れた瞬間、光が消える。
彼はその場でふらつき、片膝をついた。
「エリアスさん!」
反射的に出そうになったところで、自分を止める。
まだ本人は名乗っていない。
記録上の名前をこちらから呼ぶのは、状況によっては不安を与える。
「大丈夫ですか?」
私はカウンターの外へ出ず、まず声だけをかけた。
男の肩が動いた。
ゆっくり顔を上げる。
青い瞳。
私を見る。
次の瞬間、その顔には明確な驚きが浮かんだ。
「……人間?」
言葉は零号室の翻訳を介しているのだろう。
それでも、声に含まれる感情までは伝わってくる。
「はい」
私は答えた。
「私も人間です」
男は信じられないものを見るように、しばらく私を見つめていた。
「聖法院の者か?」
「違います」
即答した。
「ここはHotel Aequitasです」
その名前を聞いた途端、男の表情が変わった。
「Aequitas……?」
周囲を見回す。
フロントカウンター。
天秤の紋章。
零号室。
「ここは……零号室なのか?」
知っている。
私はブラッドリーと一瞬だけ視線を交わした。
「はい」
隠しても意味はない。
「現在は零号室です。私はアラタ・ナナサキ。ここで働いています」
男がゆっくり立ち上がる。
「ナナサキ……聞いたことのない名だ」
「そうだと思います」
「ノアは?」
その名前が出るとは予想していた。
「ノア・ウィンスレットですか?」
「ああ。あいつはどこだ?」
私は慎重に答えた。
「生きています。ただし現在、この世界にはいません」
「いない?」
「境界層にいます」
男の表情から血の気が引いた。
「……では、間に合わなかったのか」
「何に?」
質問を返す前に、男が周囲を見る。
「セレスは?」
「このホテルにいます」
今度は驚きだった。
「生きているのか?」
「はい。少し前に境界層から戻ってきました」
男が胸を押さえるようにして、ゆっくり息を吐いた。
「そうか……」
しばらく黙った後、彼は改めて私を見る。
「ルキウスは?」
今度は、答えるのを少し迷った。
「Hotel Aequitasにいます」
「なぜ?」
「昨日、零号室へ不法侵入してきたので拘束しています」
男は数秒固まったあと、目を閉じた。
「……やはり、何も終わっていないのか」
「エリアスさん」
初めて名前を呼んだ。
彼の瞳が開く。
「なぜ私の名を?」
「Hotel Aequitasに宿泊記録が残っていました」
「宿泊記録……」
「エリアス・リード様。長期滞在客として百二十三日間、このホテルに宿泊されていた」
「百二十三……」
自分でも記憶を確かめているようだった。
「合ってます?」
「ああ。私はここで暮らしていた」
正確には。
泊まりながら。
この世界で暮らす準備をしていたのだろう。
「最後に覚えていることを、教えていただけますか?」
私はなるべく穏やかに尋ねた。
エリアスは少し考え、ゆっくり口を開く。
「地下へ行った」
私の背筋が冷えた。
「……基底区画?」
彼の表情が変わる。
「その名を知っているのか」
「昨日聞きました」
「誰から?」
「聖法院の監査官と、ルキウスさんから」
エリアスは露骨に顔をしかめた。
「ルキウスの話を信用するな」
「最近それ、いろんな人に言われます」
思わず本音が出た。
ブラッドリーの口元が少しだけ緩む。
「ではエリアスさん自身の話を聞かせてください」
私は続けた。
「人間が消えた日、何があったんですか?」
エリアスはすぐには答えなかった。
目を閉じ、遠い記憶を探している。
「原初天秤が起動した」
「そこまでは聞いています」
「なら、人間をこの世界へ定着させる実験だったことも?」
「はい」
「それは嘘ではない」
少し意外だった。
「ルキウスは、本当に人間を救おうとしていた。少なくとも最初は」
エリアスの声には、怒りより疲れが滲んでいる。
「この世界で長く暮らせない人間がいた。病になる者もいた。子どもを残せない者も多かった。私もその一人だ」
「エリアスさんも?」
「ああ。それでもここに残りたかった」
彼が一度、零号室を見回した。
「私はこの世界が好きだった。フレーレオも、Aequitasも。だから実験に参加した」
「自分の意思で?」
「そうだ」
ここは重要だった。
ルキウスが人間を無理やり実験に使ったわけではない。
少なくとも。
最初の原初天秤実験では。
「何人くらい?」
「最初の調整対象は十二人だった」
「でも結果的に世界中の人間へ影響した」
エリアスが苦しそうに頷いた。
「誰も予想していなかった」
原初天秤を起動した瞬間。
対象になっていた十二人だけではなく。
この世界にいた人間全体へ。
処理が広がった。
「その時、何が見えました?」
エリアスの顔が強張る。
「……扉だ」
「扉?」
「無数の扉が見えた。それぞれ別の場所へ繋がっていた。私たちはどれか一つへ送られると思った」
「でも?」
「全部閉じた」
私は黙って聞く。
「最後に残ったのは、真っ白な場所だった。音もなかった。身体も動かなかった。ただ、自分が存在していることだけは分かった」
「どれくらい?」
「分からない」
数百年。
でも本人には。
時間の感覚がない。
「誰か他の人は?」
「見えなかった。でも……」
エリアスが額を押さえる。
「声は聞こえた」
ノックスと同じ。
境界の下。
眠る者の声。
「他の人間たち?」
「たぶん」
私は端末を見る。
転送待機列。
まだ一名。
エリアスだけ。
「どうしてエリアスさんだけ先に戻れたんでしょう」
「分からない」
キーパーがそこで口を挟んだ。
「一部判明しました」
画面に新しい情報が表示される。
RETURN PRIORITY:1
「優先順位?」
「エリアス・リード様には、他の転送保留者より先に処理される条件が設定されています」
「誰が設定したんです?」
答えを見る前から。
嫌な予感がした。
REGISTERED BY:NOAH WINSLET
「……またノアさん?」
エリアスが目を見開く。
「ノアが?」
「はい」
「いつ?」
キーパーが記録を確認する。
「人間消失事件発生後、零号室封鎖以前です」
時間としては矛盾しない。
人間が消えた。
ノアは零号室によって残った。
その後、エリアスを最優先で戻すよう設定した。
「ノアさんは、エリアスさんが戻ったら何かさせようとしてた?」
エリアス自身にも心当たりがないらしい。
「私が知っていたからかもしれない」
「何を?」
「原初天秤の操作手順だ」
部屋の空気が変わった。
私はすぐに問い返した。
「エリアスさん、操作できるんですか?」
「当時の補助担当だった。ルキウスほどではないが、起動手順は知っている」
これで理由はかなり絞られた。
ノアはいつか人間が戻る時に備えて。
原初天秤を知る人間を。
最初に戻すよう設定した。
ただし、ここで問題がある。
ノアは。
私に天秤へ触るなと言った。
「今、原初天秤を動かすことはできます?」
私は慎重に聞いた。
エリアスは首を振った。
「やめた方がいい」
「即答ですね」
「一度失敗した装置を、同じ条件で動かすほど愚かではない」
「ちょっと安心しました」
「それに」
エリアスの表情が険しくなる。
「今の原初天秤は、私が知っている状態ではないはずだ」
「どういうことです?」
「消える直前に見た」
エリアスはそこで一度言葉を切り、記憶を確かめるように続けた。
「天秤の下で、何かが動いた」
「何か?」
「装置ではない。生き物でもない。もっと……古いものだ」
ノアが警告した。
Hotel Aequitasそのものを信用しすぎるな。
零号室ではなく。
もっと古い。
地下。
「それが原因で実験が失敗した?」
「分からない。ただ、ルキウスは見ていなかった」
「ノアさんは?」
「見た」
私は息を呑んだ。
「だから地下へ行くなって?」
「おそらく」
また一本。
情報が繋がった。
ノアは原初天秤そのものだけを恐れていたわけではない。
その下。
さらに古い何かを。
見ていた。
◇
エリアスの体調を改めて確認したところ、肉体そのものに大きな異常はなかった。ただし、本人にとってはほとんど時間が経っていない一方で、この世界では数百年が経過している。すぐに現在のフレーレオへ放り出すのは負担が大きいだろう。
「エリアス様」
ブラッドリーが静かに声をかけた。
「今後についてですが、まずHotel Aequitasでお休みいただくことをおすすめします」
「……泊まれるのか?」
「もちろんです」
エリアスは少し驚いたようだった。
「私は数百年前の宿泊代すら精算していないかもしれない」
私は思わず笑った。
「そこ気にします?」
「客なら気にするだろう」
「記録を確認しますけど、たぶん今すぐ請求されるような話じゃないと思います」
「ナナサキ」
ブラッドリーが私を見る。
「当時の宿泊契約は人間消失により不可抗力終了となっています。未収扱いではありません」
「ちゃんと処理されてるんだ……」
数百年前の会計処理まで残っているとは。
ホテルは怖い。
「新規のご宿泊としてご案内いたします」
ブラッドリーが続ける。
「現在のHotel Aequitasは、あなたがご存じだった頃からかなり変わっています。館内設備も、フレーレオの街並みも、社会そのものも違うでしょう。まずは焦らず、今の世界を知る時間にしてください」
エリアスはしばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくり周囲を見回した。
「Aequitasは……まだホテルなのか?」
「はい」
「人間がいなくなった後も?」
「ずっと」
ブラッドリーの返事に、エリアスは少しだけ笑った。
「なら、泊まりたい」
私は自然にフロントカウンターへ戻った。
「承知いたしました。それでは改めて、ご宿泊のお手続きをさせていただきます」
エリアスが私を見る。
「数百年前にも、同じことを言われた気がする」
「そのスタッフ、覚えてます?」
「ああ」
「誰です?」
「ノアだ」
「……やっぱりホテルマンじゃないですか、あの人」
エリアスが初めて、声を出して笑った。
◇
エリアスには、本館の特殊客室を用意することになった。
肉体的には普通の人間に近いものの、この世界との接続状態が完全に安定しているか分からないため、魔力や環境の調整が可能な部屋を使用する。食事についても、いきなり現在の異世界料理を大量に出すのではなく、体調を確認しながら少しずつ提供することになった。
こうした準備を整えている間も、私は何度か転送待機列を確認した。
数字は変わらない。
WAITING:0
エリアスが到着したことで、一度空になっている。
次が来る気配はまだない。
つまり、人間たちの大規模帰還が始まったわけではなさそうだ。
「ナナサキ」
客室へ向かう途中、エリアスが私を呼んだ。
「はい?」
「今、人間は本当にお前一人だったのか?」
「今日までは」
「そうか」
その顔に浮かんだ感情は、私には完全には読み取れなかった。
「寂しかったか?」
逆に聞かれた。
「最初は、たぶん」
私は少し考えながら答える。
「でも今は、あんまり」
「人間がいなくても?」
「ここに知り合いもいますし、働く場所もありますから」
「それでいいのか」
「いいみたいです」
自分でも少し不思議だった。
この世界に来たばかりの頃は、人間が自分しかいないという事実が恐ろしかった。それが今では、人間であるかどうかだけで居場所を決める必要はないと思える。
Hotel Aequitasには。
私を知っている人がいる。
私が働く場所がある。
それで十分だった。
「変な人間だな」
エリアスが言う。
「数百年前の人に言われたくないですよ」
「それもそうだ」
また少し笑った。
◇
客室へ到着し、館内案内を終えたところで、私はエリアスへ一つだけ確認した。
「原初天秤のことですが、今は誰にも操作方法を教えないでもらえますか」
「ルキウスにも?」
「特にルキウスさんには」
「本人は知っている」
「細かい手順で違いがあるかもしれないので」
エリアスは私の意図を理解したらしい。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし、四十八時間後に何か起きるなら、私も立ち会わせろ」
これは断りづらい。
というより。
彼自身の問題でもある。
「安全が確保できる範囲なら」
「条件付きか」
「ホテルなので」
「それは便利な言葉なのか?」
「最近みんなに言われます」
私は苦笑した。
「では、ごゆっくりお休みください。何かございましたら、客室の呼出装置でフロントへご連絡ください」
「分かった」
扉を閉めようとしたところで、エリアスがもう一度私を呼び止めた。
「アラタ」
「はい」
「もし他の人間が戻ってきたら」
少しだけ声が変わる。
「最初に私へ会わせてくれないか」
「どうして?」
「私が知っている者かもしれない」
それは当然だった。
数百年前。
同じ時代を生き。
同じ世界から切り離された人たち。
エリアスにとっては、眠りから覚めたら全員いなくなっていたようなものなのだろう。
「分かりました。ただし、その方が希望すれば、です」
エリアスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「ノアと同じことを言う」
「もう驚きませんよ、それ」
「ならいい」
今度こそ扉を閉めた。
◇
廊下へ出た私は、そのまま窓際で足を止めた。
フレーレオの街が見える。
数百年前とは、まったく違う景色なのだろう。
エリアスにとって、この街は故郷に近い場所だったはずだ。それなのに目を覚ました時には、知っている者も建物もほとんど残っていない。
人間を戻す。
その言葉だけなら、良いことに聞こえる。
でも帰還する本人にとっては、「帰る」というより、もう一度知らない世界へ放り出されるのに近いのかもしれない。
だからこそ、Hotel Aequitasが必要になる。
突然戻ってきた者が、すぐに何かを選ばなくてもいい場所。
まず休み。
話を聞き。
今の世界を知る。
そのうえで、どこへ行きたいのかを決める。
ノアが未来の零号室を見て「ロビー」と呼んだ理由が、以前よりはっきりと分かった気がした。
端末を開く。
カウントダウンは続いている。
CONNECTION WINDOW:43:51:08
残り約四十四時間。
そして転送待機列は、今もゼロ。
私は少しだけ安心して端末を閉じようとした。
その瞬間、画面が更新された。
TRANSFER QUEUE DETECTED
「……もう?」
今度の数字は、一ではなかった。
WAITING:3
三名。
続いて、種族情報が順番に取得されていく。
HUMAN
HUMAN
HUMAN
私はしばらく画面を見つめたあと、すぐにブラッドリーへ連絡を入れた。
最初の一人だけでは終わらない。
ただし、まだ大量帰還でもない。
これはおそらく、何かを確かめるように少しずつ進んでいる。
誰が、何のために順番を決めているのかは分からない。
ノアなのか。
原初天秤なのか。
あるいは転送保留そのものに、処理すべき順番が残されているのか。
けれど、今の私たちにできることは変わらなかった。
三人来るなら、三人を迎える準備をする。
それぞれに名前があり、事情があり、戻った後に望むことも違うはずだ。まとめて「帰還した人間」として扱うのではなく、一人ずつ話を聞かなければならない。
私はフロントへ戻るため歩き出した。
数百年間止まっていた人間たちの“出発”が、少しずつ再開している。
そしてHotel Aequitasは今、彼らにとって数百年ぶりの到着先になろうとしていた。
――第34話 完




