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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新


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32/50

第32話「ルキウス・エルダンの証言」

 翌日、私はいつもより少し早くフロントへ入った。


 昨日、聖法院の主席監査官エルドから聞かされた話は、宿舎へ戻ってからも頭から離れなかった。Hotel Aequitasの地下に存在する《基底区画》。そこにあるという《原初天秤》。かつて聖法院はそれを利用し、人間をこの世界へ定着させようとした。しかし実験は失敗し、逆に人間たちはこの世界から一斉に切り離された。

 その実験を主導した人物こそ、現在Hotel Aequitasの警備区画に拘束されているルキウス・エルダンだ。

 さらにややこしいことに、ルキウスはただ世界を破壊したいわけではないらしい。もともとは、この世界で不安定な存在だった人間を救おうとしていた。その失敗を何百年も引きずった末に、今度は「世界そのものを一つに戻す」という極端な答えへ辿り着いた。

 そして私は、その人間消失事件以来停止していた原初天秤を、この世界へ転生しただけで反応させている。

 Balance Restored――均衡回復。

 何がどう「回復」したのかは、まだ分からない。

 ノアからは「地下へ行くな」と警告されている。ならば、少なくとも今は地下へ近づくべきではないだろう。

 そう考えれば、次に話を聞くべき相手は自然と決まっていた。

「おはよう、アラタ」

 カウンターの内側で予約台帳を確認していると、アシュリーが隣へ入ってきた。

「おはようございます」

「今日は早いわね」

「ちょっと考え事してて、寝てても落ち着かなかったので」

「それ、一番駄目なやつじゃない?」

「自覚はあります」

「ちゃんと休まないと、そのうちナナリー副支配人に強制的に宿舎へ送り返されるわよ」

「それはあり得る……」

 Hotel Aequitasにおいて、体調管理に関するナナリーの権限は妙に強い。

 そんな話をしている間にも、朝のチェックアウト客が一人、カウンターへやって来た。私は思考を仕事へ切り替え、笑顔で応対する。

「おはようございます。ご出発でございますか?」

「ええ。二泊、世話になったよ」

「ありがとうございます。ご滞在中、お困りのことはございませんでしたでしょうか」

 客は小さく首を振り、「よく眠れた」と笑った。

 その一言だけで、少し気持ちが軽くなる。

 昨日から世界の境界だの人間消失だの、あまりにも大きな話ばかり聞いている。でもHotel Aequitasで本当に求められていることは、こういうことなのだ。

 よく眠れた。

 食事が美味しかった。

 また来たい。

 ホテルとしては、それだけでも十分意味がある。

 チェックアウトを終え、客を正面玄関まで見送ったところで、背後からナナリーに呼び止められた。

「ナナサキ。十時に総支配人室へ」

「ルキウスさんですか?」

「はい。本日、事情聴取を行います」

 やはり。

「私も参加していいんですか?」

「総支配人からの指示です。零号室の現管理者として、確認しておくべきことがあるでしょう」

「分かりました」

 少し緊張する。

 ただ、今回は地下へ行くわけではない。

 まず話を聞く。

 それなら、できる。

     ◇

 午前十時。

 総支配人室には、ブラッドリー、サンディー、ナナリー、バルガス、ゼノ、そして私が集まっていた。

 セレスも呼ぶ案はあったらしいが、ブラッドリーは見送ったという。かつてルキウスによって聖法院へ売られ、境界研究に利用された本人だ。いきなり対面させれば、事情聴取どころではなくなる可能性がある。

「セレスさん、ルキウスさんが生きてたことは?」

「伝えています」

 ブラッドリーが答えた。

「反応は?」

「『今すぐ殺していいか』と」

「……ですよね」

「お断りしました」

「そりゃそうですよ」

 隣でゼノが小さく笑った。

「昔から変わらんな、あいつは」

「ゼノさんは会ったことあるんですか?」

「セレス本人とは最後の日だけだ。だが話はノアから聞いていた」

 私は少し意外に思った。

「じゃあノアさん、セレスさんのこと結構話してたんですね」

「愚痴が多かったがな」

「本人同士は仲良かったんでしょうね」

「否定するだろうが」

 そのあたりはゼノと同じらしい。

 ほどなくして、扉が開いた。

 バルガスの部下二名に挟まれ、ルキウス・エルダンが入ってくる。

 昨日のような余裕はなかった。零号室の旧管理権限を完全に失ったことで、以前よりも存在感が薄れたように見える。

 ただ、拘束されていること自体を恐れてはいない。

 ルキウスは部屋を見回し、ゼノを見つけたところで初めて表情を変えた。

「……ゼノ」

「久しぶりだな、ルキウス」

 私は二人を交互に見る。

「知り合いなんですか?」

「直接話したのは数えるほどだ」

 ゼノの声は冷たい。

「当時、聖法院で境界研究を主導していた男だ。私より遥かに上の立場だった」

「お前もずいぶん老いた」

「お互い様だろう」

「私は半分以上、境界側にいる」

「それを長生きとは言わん」

 会話だけ聞けば昔馴染みにも思えるが、二人の間に流れている空気はまったく穏やかではなかった。

 ブラッドリーが座るよう促す。

「ルキウス様。昨日の旧館への不法侵入および零号室への干渉について、いくつか確認させていただきます」

「まだ“様”を付けるのか」

「敬称と処遇は別の問題です」

「相変わらずHotel Aequitasらしい」

「ありがとうございます」

「褒めてはいない」

「承知しております」

 強い。

 私は少しだけルキウスへ同情した。

     ◇

「まず確認します」

 ブラッドリーが静かに切り出した。

「昨日の聖法院による監査と、あなたの侵入は連携したものですか?」

「違う」

「現在の聖法院から指示を受けた?」

「受けていない」

「協力者は?」

「答える必要はない」

「つまり、いる可能性はある」

 サンディーが言う。

 ルキウスは返事をしなかった。

 エルドから聞いた話では、現在の聖法院にもルキウスを英雄視し、その思想を継ぐ者たちが存在するという。単独でHotel Aequitasへ侵入したとしても、情報や術式を提供した協力者くらいはいるのかもしれない。

「じゃあ、私から聞いていいですか?」

 私が口を開くと、ルキウスの視線がこちらへ移った。

「現管理者か」

「アラタ・ナナサキです。昨日も名乗りましたけど」

「覚えている」

「ならよかったです」

 私は一度呼吸を整えた。

「原初天秤について、エルドさんから聞きました」

 ルキウスの目がわずかに細くなる。

「エルドが?」

「人間をこの世界へ定着させようとして、失敗したことも」

「……あの男、封印記録を持ち出したか」

「否定しないんですね」

「今さら何を隠す」

 ルキウスは椅子の背へ身体を預けた。

「なら、どこまで聞いた」

「あなたはこの世界で不安定だった人間を救おうとした。原初天秤を使って、人間をこちら側へ正式に属する存在にしようとした。でも結果は逆で、人間は世界から切り離された」

「大筋は正しい」

「人間は、どこへ行ったんです?」

 ルキウスはすぐには答えなかった。

 そこが一番知りたい。

 人間は死んだのか。

 別の世界へ送られたのか。

 あるいは。

「分からない、ですか?」

「……そうだ」

 意外にも、素直に認めた。

「原初天秤を起動した瞬間、世界側の人間存在情報が一斉に消失した。肉体も、魔力反応も、世界との接続もだ。転移先を追跡しようとしたが、通常の世界間座標には存在しなかった」

「じゃあ、本当に消えた?」

「少なくとも当時の私には、そう見えた」

 ゼノが低い声で尋ねる。

「ノアは違うことを言っていたのか」

 ルキウスの表情に、ごく僅かな苦味が浮かんだ。

「あいつは最初から、消滅ではないと言っていた」

「根拠は?」

「零号室だ」

 私は顔を上げる。

「零号室?」

「人間消失の瞬間、零号室は異常な出発信号を検知した。ただし通常のDepartureではなかった。出発者数も、行き先も記録されず、一つの表示だけが残った」

「何て?」

 ルキウスが私を見た。

「TRANSFER PENDING――転送保留」

 室内が静かになる。

「保留?」

「人間たちは世界から切り離された。だが、どこかへ完全に到着したわけでもない。ノアはそう推測した」

 私は境界層を思い浮かべる。

「境界にいる?」

「違う」

 ルキウスは首を振った。

「境界層を探した。見つからなかった」

「じゃあ、どこに?」

「それを知るために、私は世界を一つに戻そうとしている」

 ようやく。

 彼の目的がさらに明確になる。

「世界を全部一つにすれば、人間も戻ると思ってる?」

「切り離された原因が世界間の差異にあるなら、その差異を消せば行き場を失った人間存在は再び現れる可能性がある」

「可能性、ですよね」

「ああ」

「確証は?」

「ない」

「それで世界を全部巻き込むんですか?」

 少し声が強くなった。

「それしか方法がない」

「他を全部試したんですか?」

 ルキウスが黙る。

「零号室も。原初天秤も。ノアさんが残した仕組みも。人間が本当にどこへ行ったのかも、まだ全部分かってないんでしょう?」

「数百年調べた」

「それでも分からなかったんですよね」

「だから神の力が必要だ」

「それは答えじゃないと思います」

 私はルキウスを見たまま続けた。

「分からないから全部壊して最初から一つにする、っていうのは、探すのを諦めただけじゃないですか」

 ルキウスの顔から、初めて明確な苛立ちが滲んだ。

「お前に数百年が分かるか」

「分かりません」

 そこは否定しない。

「でも、分からないからって今いる人たちの世界まで勝手に変えていい理由にはならないでしょう」

 Hotel Aequitasのロビーが頭に浮かぶ。

 この世界で生きている人たち。

 日本。

 私のいた世界。

 さらに他の世界。

 人間を取り戻すために全部混ぜる。

 それを人間である私が望むのかと言われれば。

「少なくとも私は、その方法で人間を戻してほしいとは思いません」

 ルキウスがしばらく私を見つめた。

「……ノアも同じことを言った」

「最近そればっかりですね」

「似ているのではない。同じ場所に立てば、同じ答えになるだけか」

 その言葉の意味は、私にはまだよく分からなかった。

     ◇

「もう一つ聞きたいことがあります」

 私は話題を変えた。

「私がこの世界へ来た時、原初天秤が《Balance Restored》と反応したそうですね」

 ルキウスの表情が明らかに変わった。

「エルドはそこまで話したのか」

「はい」

「……なるほど」

「意味を知ってます?」

「完全には」

「またですか」

「だが仮説はある」

 私は思わず身を乗り出した。

「聞かせてください」

「原初天秤は、単に世界間の転移を管理する装置ではない。あれはHotel Aequitasが建つより前から、世界間の存在比率を監視していた可能性がある」

「存在比率?」

「ある世界から特定の存在だけが大量に流出した場合、世界そのものの均衡が崩れる。原初天秤は、その偏りを検知し調整するための装置だった――私はそう考えている」

 人間が消えた。

 その結果。

 この世界から人間という存在だけが完全に欠けた。

「私が来たことで……ゼロじゃなくなった?」

「そうだ」

 ルキウスは静かに頷いた。

「世界から完全に失われていた“人間”という要素が、一人だけ戻った。だから原初天秤は均衡が回復したと判断した可能性がある」

「でも一人だけですよ?」

「数の問題ではないのかもしれない。存在しているか、存在していないか。原初天秤が見ているのはそこなのだろう」

 私は少し考え込んだ。

 もしそれが正しいなら。

 私が特別だから反応したわけではない。

 人間だから。

 この世界に。

 ただ一人戻ってきたから。

「じゃあ私が来たこと自体は、原初天秤にとって悪いことじゃない?」

「少なくとも《均衡回復》という表示だけを見ればな」

 少しだけ安心する。

 でも、ノアは地下へ行くなと言った。

「それなら、どうして私が基底区画へ行くのは危険なんです?」

「原初天秤はお前を“欠けていたものを戻した存在”と認識している可能性がある」

「私を?」

「だから、お前が直接触れれば」

 ルキウスは少し間を置いた。

「人間をもう一度この世界へ戻す処理を開始するかもしれない」

 私は息を呑んだ。

「……それって、いいことじゃ?」

「どこから戻す?」

 そこで止まった。

 人間がどこにいるのか。

 誰も知らない。

「転送保留になっている人間を……?」

「そうかもしれない。だが数百年前の人間全員が、どのような状態で保持されているかは分からない。そもそも“人間”という情報だけを復元するのか、当時の個人を戻すのか、それすら不明だ」

 怖い。

 突然数百年前の人間が全員戻る。

 それだけでも、この世界は大混乱になる。

 もっと悪い可能性もある。

「だからノアさんは、地下へ行くなって?」

「おそらくな」

 ルキウスの声には、妙な確信があった。

「そして私なら行く」

「……何で」

「確かめるためだ」

「世界を巻き込むかもしれなくても?」

「だから私とお前は違う」

 それだけは、よく分かった。

     ◇

 事情聴取はいったん休憩となった。

 ルキウスは再び警備区画へ戻されることになったが、部屋を出る前に私は一つだけ聞いておきたかった。

「ルキウスさん」

「何だ」

「セレスさんに謝るつもりはあります?」

 室内の空気が一瞬変わった。

 ルキウスの足が止まる。

「……なぜ今それを聞く」

「一番聞いてないことだったので」

「ホテルの事情聴取で聞く内容か?」

「Hotel Aequitas側の人だったんですよね、あなた」

 彼はかつて零号室の管理補佐だった。

 セレスと働いていた。

 ノアとも関わっていた。

「それなのに聖法院へ情報を渡して、セレスさんは捕まって、境界層へ取り残された」

「知っている」

「だったら?」

 ルキウスは長い間答えなかった。

 そしてようやく、低い声で口を開いた。

「謝って済むなら、とっくにしている」

「それ、謝らない理由にはならないと思いますけど」

「……」

「許してもらえるかは相手が決めることです」

 自分でも少し言いすぎたかもしれないと思った。

 でもルキウスは怒らなかった。

 むしろ。

 ほんの一瞬だけ。

 何百年も世界を変えようとしてきた研究者ではなく。

 失敗を抱えた一人の男に見えた。

「機会があるなら」

 ルキウスは静かに言った。

「話す」

「分かりました」

 セレスが許すとは思わない。

 たぶんものすごく怒る。

 場合によっては、本当に殴るかもしれない。

 でも。

 何も言わないよりは。

 少しだけ前へ進む。

 そんな気がした。

     ◇

 ルキウスが警備区画へ戻された後も、私たちは総支配人室へ残った。

「どう思います?」

 サンディーが椅子へ深く座りながら聞く。

「全部本当か?」

「少なくとも、エルド様から提供された記録と大きな矛盾はありません」

 ブラッドリーが答える。

「ただし、原初天秤に関する部分の多くはルキウス様自身の仮説です。事実と推測は分けて考える必要があります」

「そこ大事ですね」

 私は頷いた。

 人間は原初天秤によって切り離された。

 零号室にはTRANSFER PENDINGという異常記録が残った。

 ここまでは、ルキウスとエルド双方の話が繋がっている。

 ただし、人間が今どこにいるのかも、私が原初天秤へ接触した場合に何が起きるのかも、まだ推測だ。

「地下へは行かない」

 ゼノが言った。

 全員が一瞬彼を見る。

「……ゼノさんが言うと、説得力ありますね」

「何だその言い方は」

「一番行きそうな人なので」

「ノアが行くなと言っている。今は従う」

「成長しましたね」

「お前に言われたくない」

 少し笑いが起こった。

 そこでナナリーが話を戻す。

「では当面、基底区画の調査は保留。ルキウスの警備を継続し、聖法院側からの正式な連絡を待つ。零号室も現在のロビー制御を維持する。それでよろしいでしょうか」

「はい」

 ブラッドリーが頷く。

「ただし一つ、確認しておきたいことがあります」

「何です?」

 私が尋ねると、ブラッドリーは私の方を見た。

「原初天秤がナナサキの到着に反応したという事実を、キーパー側でも確認できないか調べましょう」

「零号室の記録と照合する?」

「ええ。聖法院側の観測だけに依存する必要はありません」

 なるほど。

 Hotel Aequitas側にも記録が残っているかもしれない。

「キーパーに聞いてみます」

「お願いします。ただし今日は通常勤務を優先してください」

「こういう時でも?」

「こういう時だからです」

 またナナリーと同じことを言う。

「分かりました」

 私は立ち上がった。

 地下へは行かない。

 謎を追いかけるだけが前へ進む方法ではない。

 今ある情報を確かめる。

 足りないものを探す。

 そのうえで判断する。

 少しずつ。

 それでいい。

     ◇

 昼過ぎ。

 私は再びフロントに立っていた。

「いらっしゃいませ。ご予約のお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」

 目の前の宿泊客は、身体の一部が水のように透き通った女性だった。

「ミレイア・フォンスよ。三泊」

「ありがとうございます。確認いたします」

 台帳を開き、名前を探す。

 ある。

 三泊。

 高湿度対応室。

 朝食付き。

「お待たせいたしました。ご予約を確認いたしました。二十六階の高湿度対応客室をご用意しております」

「ありがとう。荷物はあとで届くわ」

「承知いたしました。到着しましたらお部屋へお届けいたします」

 普通の会話。

 普通のチェックイン。

 でも私はふと思った。

 人間も昔、こうしてHotel Aequitasへ来ていたのだろうか。

 何百年も前、異世界へ迷い込んだ人間が名前を伝えて部屋を用意されこの世界で少しだけ暮らしていた。

 そして、突然全員いなくなった。

 それを取り戻したいと思ったルキウス。

 守ろうとしたノア。

 今も答えは出てない。

 ……そこで私は、自分の思考がまた短文になりそうなのに気づき、心の中で苦笑した。

 目の前の客へ鍵を渡し、館内案内を終える。

「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 女性客が笑い、エレベーターへ向かう。

 その背中を見送りながら、私は改めて思った。

 人間を取り戻すことが正しいのかどうかは、まだ分からない。

 少なくとも、今この世界で暮らしている種族を押しのけてまで戻すものではない。

 もし人間がどこかで生きているのなら、まず本人たちの意思を聞くべきなのではないか。

 帰りたいのか。

 戻りたいのか。

 今いる場所に留まりたいのか。

 真壁怜司の時と同じだ。

 こちらが勝手に「帰すべき」「戻すべき」と決めるのではない。

 そして、そのために必要なのは。

 やはり話を聞ける場所だ。

 零号室。

 ノアがロビーへ変えた理由。

 少しずつ分かってきた気がする。

     ◇

 夕方のチェックインが落ち着いた頃、私は短い休憩をもらい、フロントバックで零号室の端末を開いた。

「キーパー」

『はい、管理者』

「私がこの世界へ到着した時の記録を調べたいです。原初天秤が反応した痕跡が、零号室側にも残っていませんか?」

 数秒の沈黙。

 画面に検索表示が出る。

 私は飲み物を一口飲みながら待った。

『該当記録を一件確認しました』

「あるんですか?」

『はい。ただし通常の到着記録ではありません』

「見せてください」

 画面に古い形式のログが表示された。

 私の名前。

 到着時刻。

 人間。

 そして見慣れない項目。

 BALANCE RESPONSE:RESTORED

「やっぱり……」

 聖法院の記録と一致する。

 さらに。

 その下。

 PENDING TRANSFER SIGNAL DETECTED

 私は手を止めた。

「転送保留……?」

 人間消失事件の時。

 零号室に残った。

 TRANSFER PENDING

 それと同じ言葉。

「キーパー。これ、どういう意味です?」

『解析します』

 数秒後。

『アラタ・ナナサキ様の到着時、長期間休眠していた転送保留信号が一度だけ再活性化しています』

「……それって」

 胸騒ぎがした。

「私が来たことで、人間たちの転送処理がまた動いた?」

『可能性があります』

「今は?」

『再び休眠しています』

 私はしばらく画面を見つめた。

 私が来た。

 原初天秤が均衡回復と判断した。

 同時に。

 数百年前から止まっていた。

 人間の転送処理が。

 一度だけ。

 反応した。

「人間たち……本当に、どこかにいるんだ」

『断定はできません』

「でも消滅してるなら、転送保留なんて残らないですよね」

『論理上は、その可能性が高いでしょう』

 私はゆっくり息を吐いた。

 初めて人間消失について少しだけ希望に近いものが見えた。

 死んだとは限らない。

 消えたのでもない。

 どこかへ行く途中で止まっている。

 ならば、必要なのは世界を壊すことじゃない。

 正しい行き先。

 ……短くしない。

 私は画面に表示されたログを見ながら考えた。もし数百年前の人間たちが「転送保留」の状態にあるなら、ルキウスが考えているように世界の境界をすべて壊す必要はないのかもしれない。むしろ零号室や原初天秤の本来の役割を理解し、止まっている転送処理を安全に再開できれば、人間たちの所在を確認できる可能性がある。

 ただし、その操作を行うためには原初天秤へ近づく必要があるかもしれない。

 そしてノアは、地下へ行くなと明確に警告している。

「……すぐには行けないな」

 私は小さく呟いた。

『推奨します』

「キーパーまで」

『管理者の安全は重要です』

「最近みんな慎重になりましたね」

『あなたが以前より慎重になったためでは?』

「……あなた、本当に性格ありますよね」

 返答はなかった。

 けれど。

 少しだけ。

 笑ってしまった。

 その時、画面に新しい通知が現れた。

 零号室への到着通知ではない。

 警告でもない。

 MESSAGE RECEIVED

 送信元。

 NOAH WINSLET

「……また?」

 心臓が跳ねた。

 私はすぐに開く。

 そこに書かれていたのは、わずか二行だった。

 You found the pending transfer, didn't you?

 ――転送保留の記録を見つけたな?

 続いて。

 Then don't touch the scale. Not yet.

 ――なら、天秤には触るな。まだだ。

 まるで、こちらの行動を見ているようなタイミング。

 私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 未来の私を断片的に観測しただけだったはずのノア。

 でも今のメッセージは。

 明らかに、現在の私が何を見つけたのか知っている。

「……ノアさん」

 私は思わず端末へ向かって呟いた。

「今、私のこと見えてるんですか?」

 返事は来なかった。

 ただ、メッセージの下にこれまでなかった一つの表示。


 CONNECTION WINDOW:48 HOURS


 接続可能時間。

 四十八時間。

 私は眉をひそめた。

 これは、何の時間制限なのか?

 端末の表示は、それ以上何も教えてくれなかった。

 ただ一つ分かったのは。

 ノアとの直接的な接触へ向かう時間が思っていたより早く近づいている。

 ……そう短く切りたくなるところを、私は画面を閉じながら一度考え直した。

 四十八時間という数字が何を意味するのかは分からない。ノアとの通信が可能な期間なのか、境界の封鎖が維持できる時間なのか、それとも別の何かなのか。いずれにしても、すぐ地下へ行く理由にはならないし、むしろノア自身が「まだ天秤へ触るな」と警告している。

 今できることは、限られている。

 この記録をブラッドリーたちへ共有すること。

 ルキウスの証言と照合すること。

 そして、四十八時間以内に何が起きるのかを見極めること。

 私は端末をポケットへ戻し、休憩を終えてフロントへ戻ることにした。

 まだ夕方のチェックインは終わっていない。

 世界の境界について考えるのは、そのあとでもできる。

 そして今度こそ私は、少しだけ確信し始めていた。

 数百年前にこの世界から消えた人間たちは、完全に失われたわけではないのかもしれない。

 もし本当にどこかで「到着」を待っているのなら。

 いつか。

 その時が来た時。

 彼らを最初に迎える場所は。

 きっとHotel Aequitasなのだろう。


――第32話 完

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