第31話「聖法院が隠した記録」
エルド・ヴァレンシュタインが待つ応接室へ向かう途中、私は何度も頭の中で情報を整理していた。
ノアが未来の私を断片的に観測し、その結果として零号室を「門」ではなく「ロビー」へ作り替えたこと。人間を管理者候補から外していた規定に、私だけを例外として追加したこと。そして私が交通事故で命を落とした後、この世界へ辿り着けるよう経路を残していたこと。
ここまでは、ようやく一本に繋がった。
だが同時に、別の疑問が増えている。
Hotel Aequitasの地下には、ノアですら正体を突き止められなかった領域が存在する。そして今日の監査で、エルドは「このホテルを信用しすぎるな」と警告した。その直後、零号室へ侵入したルキウスまで同じようなことを言った。
偶然ではない。
何かを知っている。
「ブラッドリーさん」
「はい」
「エルドさんの話、どこまで信用します?」
隣を歩くブラッドリーは、すぐには答えなかった。
「内容次第です」
「ですよね」
「ただ、最初から虚偽だと決めつけるべきでもありません。聖法院とHotel Aequitasの間に対立する部分があるとしても、相手の持つ情報まで無価値になるわけではありませんから」
「聞く。でも鵜呑みにはしない」
「そういうことです」
シンプルだ。
ホテルで客同士のトラブルが起きた時だって、一方の話だけを聞いて判断してはいけない。それぞれから事情を聞き、記録を確認し、食い違いを整理する。
今回も規模が違うだけで、やることは同じなのかもしれない。
……本当に最近、何でもホテル業務へ置き換える癖がついてきた気がする。
◇
応接室へ入ると、エルドは一人で待っていた。
監査時に同行していた聖騎士も、他の監査官もいない。白い法衣姿のままソファへ腰掛け、テーブルの上には一冊の古い書物が置かれている。
「お待たせいたしました」
ブラッドリーが一礼する。
「構わない。こちらも突然戻ってきた身だ」
「では、早速ですが」
ブラッドリーが向かい側へ座る。
「ルキウス・エルダンについて、どこまでご存じなのか伺えますか」
私もその隣へ座った。
エルドは一度私を見てから、静かに口を開く。
「まず確認したい。侵入者は、本当にルキウスだったのか?」
「本人がそう名乗りました」
「容姿は?」
「五十代程度に見える男性です。白と黒の長衣。古い聖法院の紋章を身につけていました」
「零号室へ干渉していた?」
「はい。旧管理権限を持っていました」
エルドが目を閉じた。
「やはり生きていたか……」
「死んだと思われていたんですか?」
私が尋ねると、エルドは小さく頷いた。
「聖法院の公式記録では、ルキウス・エルダンは数百年前に死亡している」
「でも実際には境界を利用して生き延びていた」
「おそらくな」
「エルドさんは、どうして侵入者がルキウスだと分かったんです?」
ここが一番気になっている。
「今日の監査中、旧館に行こうとしたのも、それを警戒してたからですか?」
エルドは少し考えてから、隠す意味はないと判断したのか、テーブルの古い書物へ手を置いた。
「半分はそうだ」
「半分?」
「私は零号室が再び動き出している可能性を疑っていた。そしてもし本当に再起動しているなら、ルキウスが現れる可能性もあると考えていた」
「なぜ?」
「奴は零号室を諦めていなかったからだ」
ブラッドリーが静かに問い返す。
「では、あなた方聖法院はルキウスの生存可能性を以前から把握していた?」
「私個人と、ごく一部だけだ。現在の聖法院全体が知っているわけではない」
「組織内でも秘匿されている?」
「ああ」
また情報が増える。
聖法院も一枚岩ではないらしい。
「ルキウスは聖法院にとって、どういう存在なんです?」
「英雄として記録されている」
「英雄?」
思わず聞き返した。
零号室の情報を聖法院へ流し、境界研究を始め、今では世界を一つに戻すために神を目覚めさせようとしている男が。
「公式には、だ」
エルドは苦々しげに続けた。
「ルキウス・エルダン。初代境界研究局長。異世界の存在を学術的に証明し、聖法院の魔導理論を数百年進めた人物。その功績だけが現在も教えられている」
「裏で何をしたかは?」
「消された」
セレスが言っていた話と一致する。
彼女を捕らえたこと。
零号室を奪おうとしたこと。
人間を利用して門を開いたこと。
「誰が記録を消したんです?」
私の質問に、エルドは少しだけ間を置いた。
「聖法院自身だ」
やはり。
「門の実験が失敗し、甚大な被害が出た。境界側から未知の存在が流入し、多くの研究者と関係者が犠牲になった。ルキウスが主導した研究だったが、その責任を認めれば聖法院そのものの権威が崩れる。そこで、彼の失敗は封印され、成功だけが残された」
「最悪ですね」
思わず本音が出た。
エルドは否定しなかった。
「そう思う」
少し意外だった。
「聖法院の人なのに?」
「所属している組織の過去を肯定しなければならない理由はない」
私は少しだけエルドを見る目を変えた。
昨日まで、彼は私を取り調べる側だった。
今も完全に信用するつもりはない。
でも、少なくとも盲目的に聖法院を正しいと信じているわけではなさそうだ。
◇
「それで」
ブラッドリーが話を戻す。
「ルキウスがHotel Aequitasへ戻る可能性を、なぜあなたは予想していたのですか?」
「これだ」
エルドが古い書物を開いた。
紙ではない。
薄い金属板のようなページに、細かな文字と魔導式が刻まれている。
「これは聖法院内部でも最上位の封印記録だ。初代境界研究局が残した実験報告の一部。私が主席監査官になった際、偶然存在を知った」
「偶然?」
「監査対象になった部署の古い記録を整理している中で、正式な台帳に存在しない保管番号を見つけた。それを追った結果、この記録へ辿り着いた」
エルドがページをめくる。
そこにHotel Aequitasの古い見取り図が描かれていた。
「……これ」
現在の建物とはかなり違う。
旧館よりもさらに小さい。
Hotel Aequitasが今の規模へ拡張される前のものだろう。
そして、その地下。
一つの大きな空白がある。
「地下……」
私は思わず呟いた。
ノアの記録。
――地下へ行くな。
「この空白は何です?」
「記録上では《基底区画》と呼ばれている」
「基底区画?」
「聖法院も正体を把握できなかった領域だ」
ブラッドリーが図面をじっと見る。
「現在のHotel Aequitasの地下設備とは一致しません」
「当然だ。現在の館内図には存在しないよう処理されている」
「誰が?」
「ノア・ウィンスレット」
私は顔を上げた。
「ノアさんが隠した?」
「正確には、Hotel Aequitasの後代の管理者と共同で封鎖したらしい」
またノア。
あの人、何でもやっている。
「でもノアさん自身も地下の正体は分からなかったって記録に書いてました」
「完全には分かっていなかったのだろう。ただ、危険だとは判断した」
エルドが別のページを開く。
「聖法院はルキウスの指揮下で一度、この基底区画へ侵入している」
「何があったんです?」
エルドの表情が曇った。
「それが、人間消失事件の始まりだ」
部屋の空気が変わった。
「……人間がこの世界から消えた理由?」
「ああ」
私たちは誰も口を挟まなかった。
今まで何度も出てきた謎。
人間はかつてこの世界にも存在していた。
だが、ある時期を境に全員が姿を消した。
単なる迫害や移住では説明できないほど、痕跡そのものが消えている。
「詳しく聞かせてください」
私が言うと、エルドはゆっくり頷いた。
「そのために戻ってきた」
◇
聖法院が基底区画を発見したのは、零号室の研究を始めた後だった。
当時のルキウスは、零号室を単なる転移設備だとは考えていなかったという。Hotel Aequitasという建物そのものが、世界間移動を安定させる何らかの構造を持っていると推測し、施設全体を調査した。
その中で見つかったのが、地下に存在する正体不明の空間だった。
「入口は?」
「現在の地下倉庫よりさらに下にあったとされている。ただし普通の扉ではない。特定の条件が揃わなければ現れない」
「零号室みたいですね」
「構造的には似ている。だが零号室より古い」
ノアの記録とも一致する。
「中には何が?」
「巨大な空間。そして、一つの装置」
「装置?」
エルドはページをめくり、古い図を私たちへ見せた。
円形の広間。
その中心に。
巨大な天秤のような構造物。
「Hotel Aequitasの紋章……?」
私が言うと、ブラッドリーがすぐに首を振った。
「似ていますが、違います。現在の天秤の意匠より古い」
「聖法院はそれを《原初天秤》と呼んだ」
「何をするものなんです?」
「分からない」
そこは聖法院も分からなかったらしい。
「ただ、ルキウスは一つの仮説を立てた。原初天秤は、異なる世界に属する存在を“釣り合わせる”装置ではないか、と」
「釣り合わせる?」
「世界間の差を調整し、一方へ存在が流れすぎないようにする。零号室が受付だとするなら、原初天秤はもっと根本的な均衡を管理するものだと考えた」
私は少しずつ嫌な予感を覚え始めていた。
「ルキウスさんは、それを動かした?」
「ああ」
「何のために?」
「人間をこの世界へ定着させるためだ」
予想と少し違った。
「人間を?」
「当時、人間はこの世界の法則との相性が悪かった。長期間滞在すると体調を崩す者も多く、子孫を残せない例もあった。ルキウスはそれを、世界側が人間を異物として認識しているからだと考えた」
つまり。
人間を守ろうとした?
「じゃあ、最初は悪意じゃなかった?」
「少なくとも本人の記録ではな」
エルドは静かに答える。
「原初天秤を操作し、人間をこちらの世界へ正式に属する存在として調整する。そうすれば人間はこの世界で安定して暮らせる。それが目的だった」
「でも失敗した」
「ああ」
エルドの指が、記録の一行をなぞる。
「原初天秤は、人間をこの世界へ“定着”させなかった」
少し間を置く。
「逆に、人間をこの世界から切り離した」
私は息を呑んだ。
「……全員?」
「ほぼ同時に」
「死んだんですか?」
「それが分からない」
私はノアの話を思い出した。
チェックアウト。
帰還。
世界からの離脱。
「もしかして……別の世界へ?」
「可能性はある。ただし転移先の記録がない」
「零号室には?」
「残っていない」
それが奇妙だった。
零号室なら到着者や出発者を記録する。
それなのに、人間消失事件の記録がない。
「じゃあ零号室を通ってない」
「その通りだ」
「原初天秤が直接……?」
「そう考えられている」
これまで、人間が消えた原因として聖法院の門研究ばかり見ていた。
だが本当は。
もっと地下にある。
もっと古い仕組みが。
人間を世界から弾き出した。
「ノアさんはその時いたんですか?」
「いた」
「止めなかった?」
「止めようとした」
エルドの声が少し低くなる。
「ルキウスと対立した。セレスも同じだ。だが操作は始まってしまった」
ノア。
ルキウス。
セレス。
三人の過去が、ようやく同じ事件へ集まっていく。
◇
「待ってください」
私は一つ気づいた。
「ノアさんは人間ですよね?」
「ああ」
「人間が全員切り離されたなら、どうしてノアさんは残ったんです?」
エルドは、その質問を予想していたようだった。
「零号室にいたからだ」
「零号室が保護した?」
「正確には、零号室がノアを“宿泊者”として固定した」
私は思わずブラッドリーを見る。
「そんな機能が?」
「今の零号室にも近い仕組みはありますね」
ロビー制御。
到着者をその場所へ留める。
「つまり、原初天秤が人間を世界から切り離した時、ノアさんだけは零号室の中にいたから弾かれなかった」
「そうだ」
「他にも?」
「少数いた可能性がある。だが正式な記録は残っていない」
人間がこの世界からいなくなった。
ノアだけは残った。
そしてその後。
門の暴走。
境界層。
ノアの消失。
ようやく歴史の順番が見え始める。
「ルキウスさんは、人間を救おうとして失敗した。そのあとも世界を一つにしようとしたのは……」
「自分の失敗を正そうとしているのかもしれない」
エルドが答える。
「人間をこの世界へ定着させられなかった。それなら世界そのものを一つにすれば、どこに属するかという問題は消える」
「極端すぎますよ」
「私もそう思う」
でも。
ルキウスの考え方には一応の流れがある。
最初から世界を壊したい狂人だったわけではない。
人間を守りたかった。
失敗した。
その結果、人間をこの世界から消してしまった。
そして何百年も。
その失敗を。
別の方法で取り返そうとしている。
「だから神を?」
「おそらく」
「世界の境界をなくせば、全員同じ世界になる」
「奴にとってはな」
当然。
そんな方法を受け入れるわけにはいかない。
でも。
相手の目的が少し理解できたことで、逆に怖くなった。
ルキウスは破壊が目的ではない。
本人なりに世界を救おうとしている。
そういう人間の方が。
止まりにくい。
◇
「エルドさん」
私はテーブルの記録を見る。
「さっき、“私がこの世界へ来た理由”の記録もあるって言いましたよね」
「ああ」
「ノアさんの記録では、事故で死んだ私がこちらへ来られるよう経路を残したことまで分かりました。それ以外に聖法院が知っていることは?」
エルドは少し黙った。
「ある」
「何です?」
「お前がこの世界へ来た直後、原初天秤が一度だけ反応している」
私は動きを止めた。
「……地下の?」
「ああ」
「私は地下になんて行ってません」
「分かっている。だから問題なんだ」
エルドが古い記録の別ページを開く。
そこには最近書き加えられたらしい観測記録があった。
「人間が世界から消えた日以来、原初天秤は完全に停止していると考えられていた。それが、お前がこの世界へ到着した時刻とほぼ同時に一度だけ起動した」
「何をしたんです?」
「不明だ」
またそれか。
「ただし、出力された一つの記録だけは観測できた」
エルドが私を見る。
「《Balance Restored――均衡回復》」
「均衡……回復?」
「それだけだ」
私はしばらく言葉を失った。
人間が消えた時。
原初天秤が関係した。
そして。
人間である私が戻ってきた時。
原初天秤が。
均衡回復。
と。
反応した。
「私が来たことで、人間がこの世界に戻ったから?」
「単純にそういう意味かもしれない」
「別の意味も?」
「あるかもしれない」
ブラッドリーが静かに腕を組む。
「だからエルド様は、ナナサキの存在を危険視している?」
「私個人は、危険だと決めつけていない」
エルドは答えた。
「だが聖法院内には、そう考える者がいる。原初天秤を再起動させた人間。過去の災害を再発させる存在かもしれない、と」
「それで私を保護という名目で?」
「ああ」
少なくとも。
全員が悪意で私を欲しがっているわけではない。
本当に危険だと思っている者もいる。
でも。
だからといって。
好きに連れて行かれていい理由にはならない。
「一つ確認します」
ブラッドリーがエルドを見る。
「本日の侵入について、あなたは関与していない?」
「ない」
「他の監査官は?」
「少なくとも私が指揮する監査局は関与していない」
「では、ルキウスは独自に動いていた」
「可能性が高い」
「現在の聖法院内部に協力者がいる可能性は?」
「ある」
エルドは隠さなかった。
「ルキウスを英雄として信奉する者は今もいる。境界研究局の一部には、彼の思想を継ぐ派閥も残っている」
聖法院内部にも。
ルキウス側の人間がいる。
「厄介ですね」
「同感だ」
「敵同士なのに意見合いますね」
思わず言うと、エルドが少しだけ眉を動かした。
「私はいつお前の敵になった」
「昨日、人間を引き渡せって騎士団来ましたけど」
「私は監査局だ」
「縦割り組織なんですか……」
「大きな組織とはそういうものだ」
妙に現実的な答えだった。
◇
話し合いが終わる頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。
結局、翌日に予定されていた追加監査はいったん延期されることになった。ルキウスの侵入が確認された以上、聖法院側も内部調査が必要だという。
そしてルキウスの身柄については、すぐには聖法院へ引き渡さない。
Hotel Aequitasへの不法侵入と零号室への干渉という問題がある以上、まずはこちらで事情を確認し、その後正式な手続きを取ることになった。
「最後に一つ」
エルドが立ち上がる前に、私は尋ねた。
「地下へ行くなって、ノアさんの記録にありました」
エルドの表情が変わった。
「ノアの記録を見つけたのか?」
「はい」
「……そうか」
「エルドさんは、行ったことあります?」
「ない」
「怖いから?」
「権限がないからだ」
「権限?」
「基底区画の入口は、原初天秤が認めた者にしか開かない」
私は嫌な予感がした。
「まさか」
「今まで誰も開けられなかった。少なくとも、人間消失事件以降は」
「でも私が来た時に原初天秤が反応した」
「ああ」
エルドは私を真っ直ぐ見た。
「だから、もし今あの場所へ近づけば」
言葉の続きを聞かなくても分かった。
開くかもしれない。
ノアが絶対に行くなと残した場所が。
「……行きませんよ」
私は先に言った。
「少なくとも、今は」
「賢明だ」
「皆に警戒されすぎじゃないですか、私」
「今まで何度危険な場所へ入った?」
ブラッドリーから思いがけない援護射撃が飛んできた。
「総支配人まで!」
「事実確認です」
「私、最近かなり慎重になりましたよ?」
「ええ。最近は」
強調された。
私はため息をつく。
エルドがほんの少し笑った。
監査中には見なかった表情だった。
「アラタ・ナナサキ」
「はい」
「今日見せた記録は、聖法院の正式な許可を得たものではない」
「……大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではない」
「さらっと言わないでくださいよ」
「だから、今後は私も自由に動けなくなる可能性がある」
笑いが消えた。
「処分される?」
「可能性はある」
「そこまでして、どうして教えてくれたんです?」
エルドは少しだけHotel Aequitasの応接室を見回した。
「過去を隠した結果が、今だ」
静かな声だった。
「同じことを繰り返したくない。それだけだ」
私はしばらく何も言わず、それから頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。次に会った時、私が同じ立場とは限らない」
「それ、怖いこと言いますね」
「事実だ」
聖法院という巨大な組織の中で。
エルドも。
自分なりに。
動いている。
完全な味方ではない。
でも。
完全な敵でもない。
そのくらいが。
たぶん。
現実なのだろう。
◇
エルドを見送った後、私はブラッドリーと二人でロビーに残った。
夕方のチェックインが始まり、フロントには少しずつ宿泊客が増えている。荷物を運ぶスタッフ、館内案内を聞く客、レストランへ向かう家族。
ほんの少し前まで、この建物の地下で人間が世界から消えた話をしていたなんて、とても思えない。
「総支配人」
「はい」
「Hotel Aequitasって、結局何なんでしょうね」
思わず聞いた。
「ホテルです」
即答。
「いや、そうなんですけど」
「少なくとも現在は」
ブラッドリーはロビーを見渡した。
「お客様が泊まり、スタッフが働き、食事を提供し、休息していただく場所です。それ以上の過去があったとしても、今ここにいるお客様にとってはHotel Aequitasというホテルです」
「過去が何でも?」
「過去を無視するという意味ではありません」
ブラッドリーは静かに続けた。
「ただ、過去に何があったかを知ることと、現在の私たちが何であるかは別です」
私は少しだけ笑った。
「やっぱり総支配人ですね」
「そうでしょうか」
「はい」
人間を消した装置が地下にある。
世界の境界へ繋がる零号室がある。
ノアが未来を見ていた。
神が境界の奥で目覚めようとしている。
それでも。
今ここでは。
「アラタ!」
フロントからアシュリーが呼ぶ。
「何してるの! チェックイン並んでる!」
「……はい!」
現実へ戻された。
「総支配人」
「行ってきてください」
「ですよね」
私は急いでフロントへ向かった。
カウンターの前には三組の客。
次の宿泊者情報を確認し。
笑顔。
「大変お待たせいたしました。いらっしゃいませ」
自然に言葉が出る。
そして思う。
どれだけ秘密があっても、Hotel Aequitasがホテルであることは変わらない。
だから今は目の前の客……と、また短くなりそうなので、私は心の中で苦笑しながら目の前の予約台帳へ視線を落とした。
客の名前を確認し、二泊の宿泊予定と朝食の希望、荷物の数を一つずつ聞いていく。その間にも頭の片隅には地下の原初天秤やルキウスのことが残っていたが、それを表へ出す必要はない。
今この瞬間、私がすべきことは目の前の宿泊客をきちんと迎えることだ。
世界の真相を知るのは、そのあとでいい。
そう思えるようになった自分は、異世界へ来たばかりの頃より少しだけホテルマンへ戻っているのかもしれなかった。
――第31話 完




