第30話「未来へ残された予約」
零号室のフロントカウンターに浮かび上がった文章を、私はしばらく黙ったまま見つめていた。
If Arata Nanasaki has opened this record, then I was right.
――もしアラタ・ナナサキがこの記録を開いているなら、私の予想は正しかったということだ。
表示されている名前は、何度確認しても変わらない。私がこの世界へ来る遥か以前、ノア・ウィンスレットが零号室を封鎖する前に残した記録。その宛先として、間違いなく私の名前が記されている。
「同姓同名……という可能性は、さすがにないですよね」
自分でも苦しいと思いながら尋ねると、隣に立つブラッドリーは画面と私を交互に見た。
「この記録は現管理者であるあなたを指定して解放されました。偶然の一致と考えるのは難しいでしょう」
「ですよね……」
分かっていた。ただ、認めるまでに少し時間が欲しかっただけだ。
私は二〇二六年の日本で生きていた。ホテルマンとしての仕事に疲れ、転職を決め、別業種の面接へ向かう途中で交通事故に遭って命を落とした。その後、この世界へ転生し、森で目を覚ましてフレーレオへ辿り着いた。
一方のノアは、この世界の歴史に名を残すほど昔に生きていた人間だ。
普通なら、私の存在を知れるはずがない。
「キーパー。この記録が作成された時期に間違いは?」
「ありません。ノア・ウィンスレットが零号室を封鎖する以前に作成されています。また、現在まで改竄された痕跡も確認されません」
「未来予知でもできたんですか、ノアさん」
「そのような能力があったという記録はありません」
「じゃあ、ますます意味が分からないな……」
もっとも、意味が分からないからこそ本人が記録を残したのだろう。私はブラッドリーへ視線を向け、彼が静かに頷くのを確認してから、表示された記録を開いた。
◇
ノアが残していたものは映像ではなく、文章だった。
一度に全文が表示されるわけではなく、私が読み進めると、それに応じて次の文章が浮かび上がる。まるで、遠い過去から本人と手紙のやり取りをしているような奇妙な感覚だった。
最初に表示されたのは謝罪だった。
アラタ・ナナサキ。まず、君に謝らなければならない。君がこれを読んでいるなら、おそらく自分がこの世界へ来たことを完全な偶然だと思っているだろう。だが、そうではない。
私は思わず眉を寄せた。
「やっぱり、私がここへ来たことにノアさんが関わってる……?」
続きを開く。
ただし、君の死を私が引き起こしたわけではない。私は君の世界へ直接干渉することも、そこで起こる出来事を変えることもできなかった。君が命を落とす原因となる事故に、私の意思は一切関わっていない。
私はそこで読む手を止めた。
あの日の光景が、今でも断片的に残っている。
面接へ向かう途中の道。車の音。突然の衝撃。そして次に意識を取り戻した時、私はこの世界の森にいた。
自分が死んだこと自体まで誰かに仕組まれていたのではないか――そんな考えが一瞬でも頭をよぎっていたからこそ、ノアの一文には少し救われた。
「事故は、本当に事故だったんですね」
「少なくともノア様は、そのように記しています」
ブラッドリーの言葉に頷き、私は続きを読んだ。
私が行ったのは別のことだ。境界を研究していた私は、死後の魂が世界の境界へ接触する場合があることを知った。そして、未来に現れる一人の人間がこの世界へ到達できるよう、零号室へ経路を残した。
「……私が死んだ後に、こっちへ来られるようにした?」
「そう解釈するのが自然でしょう」
「じゃあ、異世界へ転生したこと自体にはノアさんが関わってる」
「ええ。ただし、あなたの死そのものではありません」
この違いは大きかった。
私はノアに殺されてここへ送られたわけではない。あの日、私の人生は本当に終わった。その先にあるはずだった「どこか」へ向かう途中で、ノアが残していた道に導かれ、この世界で新しい生を得た。
そう考える方が、これまでの出来事とも矛盾しない。
では、なぜノアは私のためにそんな道を用意したのか。
答えは、その先に記されていた。
境界層では、時間は世界側と同じようには流れない。過去と未来が逆転するわけではないが、異なる時代の情報が一瞬だけ重なることがある。私は境界へ深く接続したある時、まだ存在していない未来のHotel Aequitasを見た。
文章の下に、一枚のぼやけた画像が表示された。
私は思わず顔を近づける。
Hotel Aequitasの正面玄関だった。
現在より少し古びて見えるが、間違えるはずがない。そして玄関前には、一人の男が立っていた。
顔までは分からない。
ただ、スーツを着ている。
ホテルの制服ではない。私が転職先の面接へ向かっていた日に着ていたような、ごく普通のスーツだった。
「これ……私?」
「断定できるほど鮮明ではありませんが」
「でも、ノアさんはそう判断した」
次の文章が表示される。
顔は見えなかった。誰なのかも分からなかった。だが、その未来へ接触した際、零号室に一つだけ情報が残った。
その下に。
ARATA NANASAKI
私の名前。
私はようやく、ノアが私を知っていた理由を理解し始めた。
「ノアさんが未来の私を全部知ってたわけじゃないんですね」
「ええ。未来から流れ込んだ断片的な情報を得ただけなのでしょう」
「それなら……少し安心しました」
もし何百年も前の人物に私の人生を最初から最後まで知られていたのなら、さすがに気味が悪い。
だがノアが見たのは、Hotel Aequitasへ辿り着いた未来の誰か。そして偶然残った名前だけだった。
その二つから彼は、未来に再び人間がこのホテルへ来ることを知った。
◇
ところが、ノアがその未来から読み取ったものは、それだけではなかった。
最初、私は未来に現れる君が何か特別な存在なのだと思った。人間が再び世界の境界を越える以上、そこには何らかの理由があると考えたからだ。だが未来を観測できた時間は短く、その中で君がしていたことは一つしか確認できなかった。
次の文章へ進む。
君は、Hotel Aequitasのフロントに立っていた。
「……それだけ?」
思わず口から出た。
ブラッドリーの口元がわずかに緩んだ。
「重要なことだったのではありませんか?」
「もっとこう、魔物と戦ってるとか、世界を救ってるとか……」
「そうした方がよかったですか?」
「いや、絶対嫌ですけど」
続きを読んだ私は、さらに妙な気分になった。
アラタ。君は救世主ではない。神に選ばれた勇者でもない。私が見た限り、特殊な力を使って世界を救う人物ですらなかった。君はただ、ホテルマンだった。
「“ただ”って……」
文句を言いたくなるが、本人は何百年も先にいる。
しかも境界の奥だ。
直接抗議するには難易度が高すぎる。
しかし次の一文で、私の冗談めいた気分は消えた。
だから私は、零号室を君へ渡すことにした。
私はしばらく黙った。
「私がホテルマンだから?」
答えは、続きにあった。
ノアはそれまで零号室を、世界と世界を繋ぐ「門」として考えていたらしい。開けば二つの世界を行き来でき、危険なら閉じる。それが零号室の本質だと思っていた。
けれど、未来で私は違う使い方をしていた。
境界を越えてきた何者かをすぐに世界へ通すのではなく、一度その場へ留め、話を聞き、本人の意思を確認してから受け入れるか帰すかを決めていたという。
今の私が、ノックスや真壁怜司に対して行ったのと同じだ。
その時、私はようやく理解した。零号室は門として使うべきものではない。ロビーとして使うべきなのだ、と。
私は現在の零号室を見回した。
フロントカウンター。
到着者情報。
ロビー制御。
全部。
「これ、ノアさんが未来の私を見て作ったんですか?」
「少なくともロビー制御については、その可能性が高そうですね」
キーパーへ目を向ける。
「記録は?」
「ロビー制御機能はノア・ウィンスレットによる管理領域改修後に追加されています」
「確定じゃないですか!」
「先ほどまで作成目的が封印されていました」
「このホテル、情報を隠しすぎなんですよ……」
ぼやきながらも、胸の中には違う感情があった。
ノアが未来で見た私には、特別な力などなかった。
ただフロントへ立っていた。
それを見てノアは、境界に必要なのは強い門番ではなく、「最初に話を聞く人間」なのだと考えた。
世界を越えてくる者には、それぞれ事情がある。迷い込んだ者もいる。逃げてきた者もいる。帰りたい者もいれば、新しい世界に残りたい者もいる。すべてを拒絶することも、すべてを無条件で通すことも正しくない。だから最初に相手の話を聞き、その者がどこへ行くべきか考える者が必要になる。
ホテルでやってきたことだ。
客が来る。
話を聞く。
必要なものを確認する。
泊まりたい者には部屋を用意し、帰る者には出発を手伝う。
それを世界の境界でやる。
「……規模がおかしいだけで、やってることはフロントなんですね」
「だからこそ、あなたが管理者として想定されたのでしょう」
「そんな理由で世界の境界を任されても困るんですけどね」
けれど、神に選ばれたと言われるよりはずっと納得できた。
私は特別な人間だからここにいるのではない。
ホテルマンだったから、ノアが未来の私へ賭けた。
それだけだった。
◇
記録をさらに読み進めると、今度はノア自身が境界へ残った理由が記されていた。
聖法院が無理やり開いた門を閉じた時、世界と世界の間には大きな傷が残った。完全に塞げば歪みは別の場所へ移り、新しい裂け目を生み出してしまう。だからノアは零号室を完全には消さず、境界に溜まる力を調整するための接続点として残した。
そして、自分自身は境界側へ残った。
私一人で永遠に管理できるとは思っていない。いつか境界側にも、この世界側にも新しい管理者が必要になる。私は未来で君がその役割を担っているのを見た。だから、人間を管理者候補から外した旧規定へ例外を設け、アラタ・ナナサキという一人だけが管理権限を取得できるよう変更した。
「なるほど……」
これで、セレスが驚いていた理由にも説明がつく。
ノアは聖法院に人間を利用されないよう、一度は人間全体を管理者候補から外した。
その後、未来の私を見た。
だから規則そのものを元へ戻したのではなく、私一人だけを例外として登録した。
「それなら、セレスさんが知らなかったのも当然ですね」
「ノア様が最後期に行った変更であれば、彼女が境界層へ取り残された後だったのでしょう」
ブラッドリーの整理に、私も頷いた。
矛盾しているように見えた情報が、ようやく一本に繋がった。
ただし、奇妙な点は残っている。
「未来の私が管理者だったから、過去のノアさんが私を管理者にした。でもノアさんがそうしなかったら、未来の私は管理者になってない……ですよね?」
「因果が循環していますね」
「時間って怖い」
「境界層の特性なのでしょう」
「それで片付けていいのかな……」
キーパーへ説明を求めても、時間因果に関する詳細記録は封印されているという。
誰が封印したのか聞けば、もちろんノアだった。
「会ったら本当に文句言いますからね、あの人」
そう呟きながら最後の部分へ進む。
そこには、これまでノックスやレグナを通して聞いてきた警告と同じ内容が、ノア自身の言葉で残されていた。
人間は境界との親和性が高い。
私が深部へ入れば、そこにいる何か――現在ノアたちが封じている神が、私を出口として認識する可能性がある。
だから、自分を助けに来るな。
そのうえでノアは、こう書いていた。
君に頼みたいのは私を助けることではない。Hotel Aequitasを続けてくれ。境界を越えてきた者が立ち止まれる場所を、この世界側に残してほしい。
私はようやく、ノックスが届けてくれた言葉の意味を理解した。
「“ホテルを辞めるな”って……そういうことだったんですね」
「Hotel Aequitasそのものを維持してほしい、という意味だったのでしょうね」
「伝言を短くしすぎなんですよ」
それでも少しだけ笑った。
ずっと引っかかっていた言葉の意味が、ようやく分かった。
ただし、ノアの記録はそこで終わらなかった。
最後に一つ、まったく別の警告が残されていた。
そして、これは零号室とは別の話だ。Hotel Aequitasそのものを無条件に信用しないでほしい。
私は笑みを消した。
「……また」
今日だけで、似た言葉を三度聞いている。
監査官エルド。
侵入者ルキウス。
そしてノア本人。
ノアの文章は続いた。
このホテルには、私が作ったのではない領域が存在している。正確には、Hotel Aequitasという名が生まれるより前から、この土地の地下に存在していた場所だ。零号室より古く、私にも最後まで正体を突き止められなかった。
隣にいたブラッドリーの表情が変わった。
「総支配人、心当たりは?」
「ありません。現在の館内図に、そのような領域は記録されていません」
「旧館よりさらに昔?」
「可能性はあります」
Hotel Aequitasの下に。
ノアですら分からなかった何かがある。
私は記録の最後を開いた。
そこには、たった一つの警告だけが残されていた。
地下へ行くな。
今度ばかりは、冗談を言う気になれなかった。
◇
記録を閉じたあと、私とブラッドリーはしばらく零号室に残っていた。
今回の記録で分かったことは多い。
ノアは私の人生をすべて知っていたわけではない。境界を通して未来のHotel Aequitasにいる私と名前だけを知り、交通事故で命を落とした私がこの世界へ辿り着けるよう経路を残した。そして未来の私が零号室で到着者を迎えていたことから、零号室を単なる門ではなく「ロビー」として再構築し、私だけを人間の管理者として認める例外を設定した。
少なくとも、これまで断片的に聞いてきた話はそこで矛盾なく繋がる。
ただ、新しい問題も増えた。
「地下、ですか……」
「今すぐ確認するつもりはありません」
ブラッドリーはきっぱり言った。
「珍しく安心できる判断です」
「私を何だと思っているのです?」
「最近、皆さん危ない場所へ普通に行くので」
「それはゼノ様では?」
「主にそうですね」
少し笑ったところで、零号室の外から足音が近づいてきた。
戻ってきたのはバルガスだった。ルキウスはすでにホテル内の警備区画へ収容し、複数のスタッフが監視しているという。
「それと、総支配人。聖法院から来訪者です」
「追加監査の申請でしょうか?」
「いえ。主席監査官エルド・ヴァレンシュタイン本人です」
私は思わずブラッドリーと顔を見合わせた。
「さっき帰ったばかりですよね」
「はい。しかし旧館で侵入警報が発生したと知り、戻ってきたそうです」
「どうして聖法院がもう知ってるんです?」
そこも気になる。
バルガスはさらに続けた。
「エルド監査官から、侵入者を拘束したのであれば名前を確認してほしいと。その人物は――ルキウス・エルダンではないか、と」
室内の空気が静かに変わった。
エルドは知っていた。
少なくとも、ルキウスがHotel Aequitasへ侵入する可能性を想定していた。
「会いましょう」
ブラッドリーはすぐに判断した。
「ただし本館の応接室で。零号室への立ち入りは認めません」
「承知しました」
バルガスが再び部屋を出ていく。
私も端末を閉じた。
ノアの記録。
ルキウスの侵入。
聖法院の監査。
そして、Hotel Aequitasの地下。
一見別々に見えていた出来事が、少しずつ同じ過去へ繋がり始めている。
「行きましょうか」
「ええ」
ブラッドリーとともに零号室を出る。
廊下を歩きながら、私は先ほど読んだノアの文章をもう一度思い返していた。
私は勇者ではない。
世界を救うために特別な力を与えられた存在でもない。
未来で、ただこのホテルのフロントに立っていた。
ノアはそんな私へ賭けた。
それなら今は、それで十分なのかもしれない。
「総支配人」
「はい?」
「私、結局この世界でも転職できてませんね」
ブラッドリーが少し考えてから笑った。
「むしろ業務範囲が広がっています」
「ですよね。フロントから世界の境界管理までって、職務記述書がめちゃくちゃですよ」
「見直しが必要ですね」
「本当に追加しないでくださいよ?」
そんな会話をしながら本館へ戻る。
その先で待っているのは、主席監査官エルド・ヴァレンシュタイン。
今度は監査官とホテル側としてではない。
ルキウス・エルダンという人物を知る者同士として、そしてノアが残した過去へ繋がる者同士として。
Hotel Aequitasと聖法院が隠してきた歴史の続きを聞く時間が、ようやく始まろうとしていた。
――第30話 完




