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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: 嘯江 新


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29/50

第29話「旧管理者」

 扉の向こうから溢れた白い光は、旧館の廊下を昼間のように照らしていた。

 私はバルガスの背後に立ち、眩しさに目を細めながら零号室へ続く通路を見つめた。普段なら薄暗く静まり返っている場所だが、今は壁に刻まれた古い魔導紋が断続的に明滅し、床の奥から低い振動が伝わってくる。

 手元の端末には、ロビー制御の維持率が表示されていた。

 LOBBY CONTROL:79%

 数字は少しずつ下がり続けている。

「侵入者は、この先です」

 バルガスが低い声で告げた。

「魔力反応は一つ。ただし、零号室そのものと混ざっているようで正確な位置が取れません」

「管理権限を使ってるから?」

「その可能性があります」

 ブラッドリーが私の隣で周囲を確認している。こんな時まで冷静なのはさすがだが、表情はいつもより明らかに険しい。

『管理者』

 端末からキーパーの声が聞こえた。

『侵入者による制御干渉が継続しています。現在の推定解除時間は約十一分です』

「十一分……」

 十分ちょっとで、零号室を守っているロビー制御が外される。

 その先に何がいるのかは、もう知っている。

 境界の奥ではノアが「神」と呼ばれる存在を押し留めている。零号室を完全に閉じれば別の出口を探される。逆に開ききれば、この場所が直接の通路になる。

 だからこそ、今の「留める」という状態を維持しなければならない。

「ナナサキ」

 ブラッドリーが私を見る。

「あなたは管理者です。何かあっても、絶対に一人で先行しないでください」

「分かってます」

「以前より返事が早くなりましたね」

「成長したんです」

「それは何よりです」

 ほんの少しだけ笑う余裕が戻った。

 しかし、次の瞬間には奥で大きな金属音が響き、全員の表情が引き締まる。

「行きます」

 バルガスを先頭に、私たちは旧館の奥へ進んだ。

     ◇

 零号室へ続く廊下は、途中から様子が変わっていた。

 壁や床へ白い光の線が走り、Hotel Aequitasの天秤の紋章とは異なる術式が上書きされている。よく見れば、それは聖法院の施設で見た紋章に似ていた。

「やっぱり聖法院……?」

「断定はまだです」

 ブラッドリーは慎重だった。

「ただ、術式の系統は近いですね」

 私は端末へ目を落とす。

 LOBBY CONTROL:74%

「急いだ方がいいですね」

 廊下の突き当たりまで進むと、本来なら存在しないはずの零号室の扉が現れていた。

 通常は私が管理者として接続しない限り、現在の館内構造から切り離されている。それなのに、今は黒い木製の扉がはっきりとそこにある。

 しかも。

 開いている。

「……やられた」

 私は小さく呟いた。

 バルガスが剣を抜き、室内を確認してから私たちへ合図する。

 中へ入る。

 零号室はロビー制御状態のままだった。

 中央には臨時フロント。

 その奥には境界へ続く光の壁。

 そしてカウンターの向こうに、一人の人物が立っていた。

 細身の男だった。

 年齢は五十代ほどに見える。白と黒を基調にした長衣をまとい、背中には聖法院の紋章。ただし現在のものとは少し違う。

 古い。

 セレスが見せてくれた、過去の聖法院の紋章に近い。

「動かないでください」

 バルガスが剣先を向ける。

 男は振り返った。

 その顔に驚きはなかった。

「ようやく来たか」

 まるで私たちを待っていたような口調だった。

「あなたは?」

 ブラッドリーが問う。

 男は一度私を見た。

「管理者もいるな」

「質問に答えてください」

 バルガスの声がさらに低くなる。

 男は小さく笑った。

「相変わらずだ。このホテルは、名を聞かなければ何も始めない」

 私はその言い方に引っかかった。

「Hotel Aequitasを知ってるんですか?」

「知っているとも」

 男はフロントカウンターへ手を置いた。

「今の形になるより、ずっと前からな」

 その瞬間、端末が激しく振動した。

 ADMINISTRATOR SIGNATURE DETECTED

「管理者署名……?」

『警告』

 キーパーの声が響く。

『旧管理権限を確認しました』

 ブラッドリーが男を見据える。

「あなたが、零号室の旧管理者?」

「正確には違う」

 男は穏やかに答えた。

「私は管理補佐だった」

 セレスから聞いた言葉が、一気に蘇る。

 零号室の情報を聖法院へ流した、Hotel Aequitas側の人物。

「まさか……」

 私は思わず声を漏らした。

 男はその反応を見て、笑みを深めた。

「セレスから聞いたか」

 その名前が出たことで、疑いはほぼ確信へ変わった。

「あなたが、零号室を聖法院へ売った人?」

「表現が悪いな」

「他にどう言えっていうんですか」

「私は可能性を提示しただけだ。世界と世界を繋ぐ道がある。それを閉じておく理由はないと」

 ゼノがここにいれば、今すぐ殴りかかっていただろう。

 私はそう思いながらも、なるべく冷静に問いかけた。

「名前を聞いても?」

「ルキウス・エルダン」

 男は静かに名乗った。

「かつて零号室の管理補佐を務め、後に聖法院境界研究局の初代局長となった者だ」

「……初代?」

 ブラッドリーの眉が動く。

「それが事実なら、あなたはかなり昔の人物のはずですが」

「そうだ」

 ルキウスは簡単に認めた。

「普通なら、とうに死んでいる」

「普通なら?」

「零号室と境界を研究していた私が、普通の時間だけを生きていると思うか?」

 嫌な言い方だった。

 境界層では時間の流れが安定しない。ノアも、セレスも、ノックスも、その影響を受けている。

「あなたも境界に?」

「一部だけな」

 ルキウスは自分の胸へ手を置いた。

「私は完全にはこちら側の存在ではない。だからこそ、今日まで待てた」

「何を?」

「零号室が再び開く日を」

 端末の数字がまた減る。

 LOBBY CONTROL:68%

「ロビー制御を解除しているのは、あなたですね」

「そうだ」

「やめてください」

「断る」

 即答だった。

「その先に何がいるか知ってるんですか?」

「当然だ」

「神が目覚めてることも?」

「知っている」

 私は言葉を失った。

 知らずにやっているわけではない。

 全部知った上で。

 開こうとしている。

「だったら、どうして!」

 思わず声が強くなった。

「境界が壊れれば、この世界だけじゃない。私の世界だって、他の世界だって危険になる!」

「それが必要だからだ」

 ルキウスの表情は変わらなかった。

「世界は分かれすぎた」

「……何?」

「互いに閉じ、互いを知らず、狭い世界の中だけで争い続けている。境界が消えれば、世界は再び一つになる」

「それ、本気で言ってるんですか」

「私はそのために何百年も待った」

 ようやく分かった。

 この人は狂っている。

 少なくとも、私にはそう見える。

 世界が一つになるという言葉だけを聞けば壮大に思えるかもしれない。けれどレグナは言った。神は世界同士の区別を持たない。触れたものを全て一つへ戻そうとする。

 それは交流ではない。

 破壊だ。

「世界を繋ぐことと、世界を混ぜて壊すことは違うでしょう」

 私はフロントカウンター越しにルキウスを見る。

「違いなど、結果の見方にすぎない」

「私はそうは思いません」

「お前に何が分かる、人間」

「少なくとも」

 一度息を整える。

 この人と怒鳴り合っても意味はない。

「ホテルで働いてると、違うものを無理に同じにするのが公平じゃないって分かります」

 ルキウスが眉をひそめた。

「何の話だ」

「種族も文化も、必要な環境も違う。だからHotel Aequitasは全員を同じ部屋に入れたりしない。それぞれに合うものを用意するんです」

「世界の話をホテルに例えるのか」

「今の私には、それが一番分かりやすいので」

 私は臨時フロントを一度見回した。

「違う世界があるなら、違うままでいいでしょう。繋がる方法を探すならともかく、全部を一つにしてしまったら、それは共存じゃない」

 ルキウスはしばらく黙っていた。

 やがて嘲るように笑う。

「ノアと同じことを言う」

「……ノアさんとも話したんですか?」

「何度も」

「だったら、ノアさんが零号室を封鎖した理由も分かってるはずです」

「だからこそ、あの男は間違えたと言っている」

 ルキウスはフロントの操作盤へ手を置いた。

 端末の警告が一段階上がる。

 LOBBY CONTROL:61%

『管理者』

 キーパーの声。

『旧権限による強制解除が進行しています。このままでは現管理者権限を上回る可能性があります』

「私の権限で止められない?」

『現時点では可能です。ただし、直接認証が必要です』

「どうすれば?」

『管理者席へ』

 私はカウンターへ近づこうとする。

 その瞬間。

「動くな」

 ルキウスの周囲に白い光が広がった。

 床から複数の術式が浮かび上がり、バルガスが即座に私の前へ入る。

「下がってください!」

 白い光が刃のように飛び、バルガスの剣とぶつかった。金属音とともに火花が散る。

 今までの交渉は終わった。

 ルキウスは、明確にこちらを排除するつもりだ。

「総支配人!」

「ナナサキは管理者席へ!バルガス、援護を!」

 ブラッドリーの指示は早かった。

 私はカウンターの反対側へ回り込み、操作盤へ手を伸ばす。ルキウスが再び術式を展開しようとしたが、その前へバルガスが踏み込み、剣で阻止した。

 私は管理者席へ到達し、両手を操作盤へ置いた。

「キーパー!」

『認証を開始します』

 天秤の紋章が光る。

 同時に、頭の奥へ強い圧迫感が走った。

「うっ……!」

『現管理者権限と旧管理権限が競合しています』

「それ、身体に悪いやつですか?」

『多少の負荷があります』

「多少で済んでほしいな……!」

 視界の端では、バルガスとルキウスの術式がぶつかっている。

 ブラッドリーもただ見ているわけではない。警備スタッフへ指示を飛ばしながら、零号室から本館への接続を遮断していた。

 この場にいる全員が、それぞれの仕事をしている。

 なら。

 私も。

 管理者として。

 やるしかない。

「ロビー制御を再固定!」

『承認確認が必要です』

「します!」

『接続先を現在のHotel Aequitasへ固定しますか?』

「はい!」

『境界からの直接転移を制限しますか?』

「はい!」

『旧管理権限を失効させますか?』

 そこで一瞬だけ止まった。

「失効させたら、ルキウスさんは?」

『零号室への管理干渉権限を完全に喪失します』

 当然だ。

 でも。

 私はルキウスを見る。

 この人はかつて零号室で働いていた。

 そしてHotel Aequitasを知っている。

 ノアも。

 セレスも。

 境界も。

 情報を持っている。

「アラタ!」

 バルガスの剣が弾かれた。

 ルキウスの術式がこちらへ向く。

 迷っている場合ではない。

「失効させてください!」

『承認』

 天秤の紋章が眩しいほどの光を放った。

     ◇

 次の瞬間、零号室全体を覆っていた白い術式が一斉に砕けた。

 ルキウスが初めて明確な驚きを見せる。

「何をした!」

「チェックアウトしてもらいました」

「何?」

「零号室の管理権限から」

 自分で言ってから、少し無理があると思った。

「強制チェックアウトです」

「そんな言葉で――」

 ルキウスが再び術式を発動しようとしたが、何も起こらない。

 床に描かれていた聖法院の紋様は消え、代わりにHotel Aequitasの天秤だけが残っていた。

 端末の表示が急速に回復していく。

 LOBBY CONTROL:70%――82%――95%

 やがて。

 100%

 ロビー制御、完全復旧。

 私はようやく大きく息を吐いた。

 危なかった。

 本当に。

 バルガスがルキウスへ剣を向ける。

「抵抗をやめてください」

「……なるほど」

 ルキウスは自分の手を見ながら、なぜか笑っていた。

「ノアが人間を管理者から外したはずなのに、なぜお前が選ばれたのか疑問だった」

「私もです」

「だが今ので分かった」

 その言葉に、私は眉をひそめる。

「何が?」

「零号室は、お前を選んだのではない」

 ルキウスの視線が私へ向く。

「もっと前から、お前専用に書き換えられていた」

 私は動きを止めた。

「……どういう意味です?」

「現管理者権限の構造が、ノアの時代のものとは違う。これは後から誰かが改変したものだ」

「誰が?」

「分かりきっているだろう」

 ルキウスが笑う。

「ノアだ」

 胸の奥が大きく脈打った。

 ノアが。

 私のために。

 零号室を書き換えた?

「でもノアさんは、私が来るずっと前に境界へ……」

「だから何だ?」

「私を知る方法がないでしょう!」

「普通ならな」

 ルキウスはそこで意味ありげに口を閉じた。

「続きは?」

 私が促す。

「話す理由がない」

「今の立場、分かってます?」

「拘束するのか」

「不法侵入に、零号室への不正アクセス、管理制御への妨害。普通のホテルでもかなりアウトですよ」

 ブラッドリーが私の横へ来る。

「バルガス。ルキウス様を一時的に警備区画へお連れしてください」

「“様”を付けるんですか?」

「来館者ですので」

「こういう時まで……」

「ただし、宿泊客ではありません」

 ブラッドリーはルキウスを見る。

「事情を確認した後、必要であれば聖法院へ正式に照会します」

 ルキウスの表情がわずかに変わった。

「聖法院へ?」

「あなたは現在の聖法院所属なのですか?」

 鋭い。

 そういえば。

 ルキウスは初代境界研究局長と名乗った。

 でも。

 今の聖法院に所属しているとは言っていない。

「……なるほど」

 ブラッドリーも気づいていた。

「本日の監査と、あなたの侵入は別件ですね?」

 ルキウスは答えない。

 その沈黙で十分だった。

 エルドが今回の侵入を知っていたとは限らない。

 むしろ。

 ルキウスは、聖法院からも独立して動いている?

「連れていけ」

 バルガスが警備スタッフとともにルキウスを確保する。

 彼は抵抗しなかった。

 ただ零号室を出る直前、一度だけ私を振り返った。

「アラタ・ナナサキ」

「何です?」

「ノアを信用するな」

 思わず顔をしかめる。

「今日、それ二人目です」

「何?」

「聖法院のエルドさんにも似たようなこと言われました」

 初めてルキウスの顔から余裕が消えた。

「エルド?」

「知ってるんですか?」

 ルキウスはしばらく何も答えなかったが、やがて低い声で呟いた。

「……あいつが主席監査官になったのか」

 意味を尋ねる前に、バルガスが彼を連れて零号室を出ていった。

     ◇

 静けさが戻った零号室で、私はフロントカウンターへ両手をついたまま、しばらく動けなかった。

「ナナサキ」

 ブラッドリーが心配そうにこちらを見る。

「大丈夫ですか?」

「はい。ちょっと頭が追いつかないだけです」

 また新しい事実が増えた。

 かつてHotel Aequitas側から零号室の存在を聖法院へ流した人物、ルキウス・エルダンは生きていた。彼は世界の境界を壊し、神の力によって世界を一つへ戻そうとしている。

 さらに。

 零号室の管理者権限は。

 最初から私に合わせて作られていた可能性がある。

「ノアさん、本当に何者なんですか……」

 会ったこともない相手への疑問が、日に日に増えていく。

 キーパーが私の前へ現れた。

「管理者」

「何です?」

「旧管理権限失効処理に伴い、封印されていた記録領域が一部解放されました」

「……それ、早く言ってください」

「現在確認しましたので」

「何が出てきたんです?」

 キーパーが光の画面を表示する。

 そこには、一件の記録。

 作成者。

 NOAH WINSLET

 そして、対象。

 ARATA NANASAKI

 私は息を止めた。

 記録の作成日時は。

 ノアが門を閉じる。

 さらに前。

「……嘘」

 まだ。

 私が生まれるより。

 遥か昔。

 なのに。

 ノアは。

 私の名前を知っていた。

「開けられますか?」

「管理者権限で閲覧可能です」

 指を伸ばしかけて。

 私は止めた。

「総支配人」

「はい」

「……一緒に見てもらってもいいですか」

「もちろんです」

 一人で見るのが。

 少し怖かった。

 私はもう一度、記録へ指を伸ばした。

 明日の追加監査では、聖法院も「私がこの世界へ来た理由」に関する記録を持っているという。

 そして今。

 Hotel Aequitas側にも。

 ノアが残した。

 私自身に関する記録が見つかった。

 二つの情報が。

 ようやく。

 同じ場所へ向かい始めている。

 私は画面へ触れた。

 表示された最初の一文は、英語だった。

 けれど。

 意味を理解した瞬間。

 私は何も言えなくなった。

 If Arata Nanasaki has opened this record, then I was right.

 ――もしアラタ・ナナサキがこの記録を開いているなら。

 ――私の予想は、正しかったということだ。

 ノアは。

 本当に。

 私が来ることを知っていた。


――第29話 完

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