第28話「監査という名の来訪者」
翌朝、目を覚ました瞬間に私の頭へ浮かんだのは、世界の境界でも、ノアでも、そこに眠っているという神のことでもなかった。
ただ、ひたすらに眠い。
昨日一日を振り返れば、それも当然だと思う。聖騎士団がHotel Aequitasへ押しかけてきたかと思えば、境界層から帰還したセレスの話を聞き、零号室の外向き接続が開き、長らく消息不明だったノア・ウィンスレット本人らしき人物との通信まで繋がった。そのうえ最後には、境界の番人を名乗るレグナが来館し、「境界の奥で神が目覚めつつある」などという話まで聞かされたのだ。
日本にいた頃なら、どれか一つでも一生分の大事件だっただろう。それが異世界へ来てからというもの、数日単位で押し寄せてくる。
「異世界に転生してまで、出勤時間に追われるとはなあ……」
宿舎のベッドから身体を起こし、私は大きく伸びをした。
もっとも、今日は寝坊するわけにはいかない。
正午から聖法院による正式な監査が予定されているからだ。
彼らがHotel Aequitasを監査対象に指定した直接の理由には、間違いなく私が関係している。人間の引き渡しを要求し、それを拒否された翌日に監査へ来るのだから、偶然だと思う方が難しい。
制服へ着替え、鏡の前で襟元を整える。
そこに映っているのは、紛れもなくホテルマンの姿だった。
日本で接客に疲れ、ホテルを辞めようとしていた人間が、死んだあと別世界のホテルへ就職し、今では世界の境界にある零号室の管理者まで兼任している。
「……転職活動、どこで間違えたんだろう」
考えても答えは出ない。
私は端末を持ち、宿舎を出た。
◇
朝のHotel Aequitasは、今日も普段と変わらない時間が流れていた。
レストランでは宿泊客が朝食を楽しみ、フロントでは早朝出発の客がチェックアウトをしている。ベルスタッフが正面玄関まで荷物を運び、ロビーではこれから街へ出るらしい家族連れが楽しそうに予定を話していた。
境界の奥で神が目覚めつつある。
そんな話を昨夜聞いたばかりなのに、ここでは温かい料理が並び、客が笑い、スタッフがいつものように働いている。
私は、この光景が以前より好きになっていた。
「おはよう、アラタ」
「おはようございます」
フロントへ入ると、アシュリーが私の顔を見るなり眉をひそめた。
「疲れてるわね」
「最近、毎朝言われてる気がします」
「毎朝疲れてるからでしょ。ちゃんと寝た?」
「一応は」
「一応じゃなくて、ちゃんと寝なさい」
「ナナリーさんみたいになってきましたね」
「褒め言葉として受け取っておく」
どうやら否定する気はないらしい。
「今日の監査、正午からですよね?」
「ええ。全スタッフに通達が出てるわ。通常業務を続けること、監査員から直接質問された場合は責任者へ取り次ぐこと、それから宿泊者情報は絶対に勝手に答えないこと」
「そこは特に大事ですね」
ホテルでは、宿泊者の情報を簡単に第三者へ伝えてはいけない。
誰が泊まっているのか。
どの部屋にいるのか。
何時に帰ってくるのか。
本人の了承もなく答えれば、場合によっては宿泊客を危険に晒す。
それは異世界でも同じだ。
「アラタは監査対応?」
「十時に総支配人室へ集合です」
「大変ね」
「他人事みたいに……」
「だって私は通常業務だもの」
「今日だけ役割を交換しません?」
「嫌」
「即答」
そんなくだらない会話をしながら、私はフロントカウンターへ入った。
監査まで、あと二時間。
その間はいつも通り。
目の前の客を迎える。
今はそれでいい。
◇
午前十時。
総支配人室には、すでに今日の監査対応を担当するメンバーが集まっていた。
ブラッドリー、サンディー、ナナリー、警備を担当するバルガス。そして私。
ゼノとセレスは、監査中は旧館側へ留まることになっている。二人とも聖法院と過去に深い関係があり、特にセレスはかつて彼らに捕らえられていた。現在の聖法院がどこまで彼女の情報を持っているか分からない以上、わざわざ存在を知らせる必要はない。
「改めて、本日の対応を確認します」
ブラッドリーが机の上へ監査通知書を置いた。
「監査開始は正午。先方からは五名が来館予定です。通知書に記載されている監査対象は、宿泊者登録、館内警備体制、異種族の受け入れ基準、そしてナナサキの滞在状況となっています」
「最後だけ、どう考えても異質ですよね」
「ええ」
サンディーが椅子へ深く座り直した。
「昨日の今日だ。本命はアラタだろうな」
「ですよね……」
「ただし」
ブラッドリーが続ける。
「相手が正式な監査として来館する以上、Hotel Aequitasも正式に対応します。必要な資料は開示し、確認が必要な施設についてはご案内します。ただし宿泊客の個人情報、客室内、スタッフ専用区域については、監査目的との関連性が確認できない限り開示しません」
「旧館について聞かれた場合は?」
「従来通り、老朽化に伴う閉鎖区域と説明します。事実ですから」
零号室が存在する旧館は、そもそも通常営業に使用されていない。
「零号室は今、通常の館内構造から切り離されています」
私は昨夜キーパーから確認した内容を説明した。
「管理者権限で接続を制限しているので、旧館へ入ったとしても零号室の扉自体が現れないそうです」
「なら、最低限の対策はできているな」
サンディーが頷く。
「問題は、向こうが本当に監査だけで済ませるかだ」
全員が黙った。
そこが一番の問題だった。
「ナナサキ」
ブラッドリーが私を見る。
「あなたへ直接質問が行われる可能性があります。この世界へ来た経緯、Hotel Aequitasで働いている理由、元の世界へ戻る意思などを聞かれるでしょう」
「能力についても?」
「可能性はあります。人間が境界へ干渉しやすいことを聖法院が把握しているなら、あなた自身の性質を確認しようとするはずです」
「零号室について聞かれたら?」
「答える必要はありません。今回の正式な監査項目に零号室は含まれていませんから、監査目的との関連性を確認してください」
「嘘をつく必要はない?」
「ありません」
答えないことと、嘘をつくことは違う。
それはホテルの接客でも同じだ。
客から尋ねられたからといって、答えてはいけない情報まで教える必要はない。
「分かりました」
私が頷くと、ブラッドリーは少しだけ表情を和らげた。
「緊張していますか?」
「しますよ。でも昨日は四本腕の境界の番人と話していたので、普通の大きさの人が来るなら少し安心です」
サンディーが吹き出した。
「比較対象がおかしくなってるぞ」
「私もそう思います」
ナナリーまでわずかに笑っている。
その程度の余裕があるなら。
たぶん大丈夫だ。
◇
正午五分前。
Hotel Aequitasの正面玄関前へ、一台の黒い馬車が停車した。
昨日の聖騎士団とは違い、大勢の兵士を連れてはいない。黒い車体の側面には聖法院を示す銀色の紋章が刻まれ、見た目だけなら役所の公用車に近い印象を受ける。
私はブラッドリー、サンディー、ナナリーとともにロビーで待機していた。バルガスは少し離れた位置から警備全体を確認している。
正面玄関が開いた。
最初に入ってきたのは、白い法衣を身に纏った初老の男だった。灰色の長い髪を後ろでまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。後ろには三名の監査官と、一名の聖騎士。
男はロビーを見渡し、最後に私へ視線を止めた。
ほんの一瞬。
それでも分かる。
やはり私を見ている。
「Hotel Aequitasへようこそお越しくださいました」
ブラッドリーが総支配人として一礼した。
「総支配人のブラッドリー・シュチュワードでございます。本日の監査につきましては、私が責任者として対応いたします」
初老の男も軽く頭を下げる。
「聖法院監査局、主席監査官エルド・ヴァレンシュタインだ。正式な監査要請に応じていただいたこと、感謝する」
「当ホテルとして、必要な範囲で協力いたします」
穏やかな言葉。
しかし「必要な範囲で」という部分には、はっきりとした境界線がある。
エルドもそれを理解したのだろう。
「では、始めよう」
こうしてHotel Aequitasへの監査が始まった。
◇
意外にも、監査の前半はごく普通のものだった。
宿泊者台帳の管理方法、客室鍵の保管、緊急時の避難経路、館内警備、種族ごとの客室調整などが順番に確認されていく。
特にHotel Aequitasは様々な種族を受け入れているため、安全面の確認項目が多い。
「火属性種の宿泊者と植物属性種の宿泊者について、同一階への配置を避ける場合があると?」
監査官の質問に、ナナリーが答える。
「はい。ただし種族のみを理由に客室を分けているわけではありません。お客様ごとの魔力特性やご希望、周囲への影響を確認したうえで調整しております。火属性種であっても魔力制御が安定している方であれば、通常客室をご利用いただけます」
「種族ではなく、個人の特性によって判断すると」
「その通りです」
監査官が資料へ書き込んでいく。
私は少し離れた位置でそのやり取りを聞きながら、改めてHotel Aequitasという名前について考えていた。
Aequitas。
公平。
全員をまったく同じように扱うのではない。
違いを認めたうえで、その人に必要なものを提供する。
それがこのホテルの考える公平なのかもしれない。
そして私は。
人間だから特別なのではない。
ここでは誰もが、何かしら違っている。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
しかし、穏やかな監査は長く続かなかった。
「次に、人間について確認したい」
エルドが資料を閉じた。
ロビーの空気が、わずかに変わる。
「ナナサキ」
ブラッドリーに呼ばれ、私は前へ出た。
「アラタ・ナナサキです」
「人間で間違いないな?」
「はい」
「この世界へ来た時期は?」
「正確な日付は分かりません。この世界へ来た直後、森の中で目を覚まし、その日のうちにフレーレオへ辿り着きました」
「転移の方法は?」
「分かりません」
「門を通った記憶は?」
「ありません」
「聖法院の施設へ接触した経験は?」
「ありません」
質問は淡々としていた。
私も分かる範囲で答えていく。
やがてエルドは、少し間を置いて尋ねた。
「元の世界へ戻る意思はあるか?」
その質問にだけ、私はすぐ答えることができなかった。
異世界へ来たばかりの頃なら、迷わず「ある」と答えていただろう。
日本へ帰りたい。
元の生活へ戻りたい。
そう思っていた。
けれど今は、帰る方法があると分かっても、すぐにこのホテルを離れられるか自信がない。
「帰る方法があるなら、知りたいとは思っています」
私は少し考えながら答えた。
「ただ、今すぐ帰りたいかと聞かれると……分かりません」
「なぜだ?」
「ここで働いているからです」
「それだけか?」
「私にとっては、それだけではありません」
この世界へ来てから出会った者たちがいる。
Hotel Aequitasで経験したことがある。
そして今は、零号室やノアの問題にも関わってしまった。
何より。
中途半端なまま帰りたくない。
「この世界で、まだやり残していることがあります」
「それは何だ?」
私は一瞬だけ迷ったが、ブラッドリーから言われたことを思い出した。
「それは今回の監査に関係する質問でしょうか?」
エルドの目がわずかに細くなる。
緊張はした。
しかし、ブラッドリーは何も言わない。
これでいいのだ。
「……なるほど」
エルドはそれ以上追及しなかった。
代わりに、まったく別の質問を口にした。
「では、零号室について聞こう」
その言葉が出た瞬間、私は胸の奥が強く脈打つのを感じた。
それでも表情には出さないよう努める。
「零号室とは?」
「Hotel Aequitas旧館に存在するとされる、特殊な客室だ」
「その情報は、今回の監査項目に含まれていますか?」
「質問に答えろ」
「監査対象との関連性を確認させてください」
ブラッドリーから教えられた通り、私は淡々と答えた。
存在しないとは言っていない。
知らないとも言っていない。
ただ、答える根拠を確認しているだけだ。
エルドはしばらく私を観察していたが、やがて視線をブラッドリーへ移した。
「総支配人。旧館を確認したい」
「現在、旧館は老朽化および安全上の理由により閉鎖しております」
「監査権限による立ち入りを要求する」
「今回の監査対象との関連性をご提示ください」
「人間と境界異常に関する調査だ」
「恐れ入りますが、事前にいただいた正式な監査通知には、境界異常に関する項目は記載されておりません」
ブラッドリーの口調は最初から何一つ変わらない。
拒絶するでもなく、相手を責めるでもなく、ただ正しい手続きを求めている。
「ならば今ここで追加する」
「追加監査となる場合、規定に基づいた正式な申請をお願いいたします。内容を確認後、当ホテルとして対応可能な範囲をご案内いたします」
「時間稼ぎか?」
「手続きです」
静かなやり取りだった。
それでも、下手な口論よりはるかに緊張感がある。
私はその様子を横で見ながら、日本で経験したクレーム対応を思い出していた。
相手が強く要求してきても、できないことをできると言ってはいけない。逆に、ただ「できません」と突っぱねるだけでもいけない。何が問題で、何なら可能なのかを説明し、守るべき線を越えないようにする。
相手が聖法院になっただけで、根本は意外と同じなのかもしれない。
「……分かった」
やがてエルドが引いた。
「正式な追加申請を出そう」
「確認後、必要な対応をいたします」
ブラッドリーが一礼する。
これで終わった。
そう思った時だった。
「アラタ・ナナサキ」
エルドが私を呼んだ。
「はい」
「一つ、忠告しておこう。このホテルを信用しすぎるな」
予想していなかった言葉に、私は眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「Hotel Aequitasは、お前が考えているほど単純な場所ではない」
「それについては最近、かなり実感しています」
思わず本音が出てしまった。
サンディーが横で笑いを堪えている。
しかし、エルドは笑わなかった。
「ノア・ウィンスレットも、最初はこのホテルを信じていた」
その名前を聞いた瞬間、私の表情から笑いが消えた。
「ノアさんを知っているんですか?」
「知っている」
「彼に何があったんです?」
自分でも分かるほど、声が強くなった。
エルドはすぐには答えなかった。私だけでなく、ブラッドリーやナナリーの反応まで確かめるように周囲へ視線を巡らせてから、手元の監査資料を静かに閉じる。
「その話は、正式な追加監査の場でしよう。聖法院にはHotel Aequitas側が把握していない記録が残っている。ノアがなぜ門を閉じたのか、人間がなぜこの世界から姿を消したのか。そして、お前がなぜこの世界へ来たのかについてもな」
最後の言葉だけは、聞き流すことができなかった。
「私がここへ来た理由を、知っているんですか?」
「断定はしていない。ただし、偶然ではない可能性を示す記録はある」
「それを見せてもらうことは?」
「明日の追加監査で、双方が情報を開示することに合意できればな」
なるほど。
ただの脅しではない。
取引だ。
こちらが零号室について何らかの情報を開示する代わりに、聖法院もノアや人間消失に関する記録を提示する。
ブラッドリーも同じ意図を察したのだろう。
「申請内容を確認したうえで判断いたします」
「それでいい」
エルドは立ち上がった。
「本日の監査は以上だ」
◇
正面玄関まで一行を見送ったあと、私はロビーでようやく長く息を吐いた。
「……疲れた」
「お疲れ」
サンディーが肩を叩いてくる。
「普通の監査って、もっとこう……帳簿とか設備とか見るものじゃないんですか?」
「前半はそうだっただろ」
「後半がおかしいんですよ」
「お前がいる時点で普通の監査にはならない気がするけどな」
「私のせいにしないでください」
そう言い返しながらも、頭の中ではエルドの言葉が繰り返されていた。
ノアが門を閉じた理由。
人間が消えた理由。
そして、私がこの世界へ来た理由。
もし聖法院が本当にその答えへ繋がる記録を持っているなら、無視することはできない。
「明日の追加監査、受けるんですか?」
私はブラッドリーへ尋ねた。
「申請内容次第です。零号室そのものへの無条件の立ち入りは認めません。しかし先方が情報交換を求めているのであれば、交渉の余地はあります」
「私も同席していいですか?」
「もちろんです。むしろ、あなた自身に関する話ですから」
私は頷いた。
怖さはある。
それでも知りたい。
なぜ私はここへ来たのか。
事故で死んだことまで含めて、本当にただの偶然だったのか。
その時だった。
ポケットの中で端末が震えた。
最初は零号室から通常の通知が届いたのだと思った。昨夜から何度も確認していたせいで、振動そのものには慣れ始めている。
しかし画面を見た瞬間、その考えは消えた。
WARNING:UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED
「……不正アクセス?」
通知の詳細を開く。
検知場所を確認した瞬間、身体が固まった。
ROOM 0 SECURITY AREA
「総支配人」
私の声に、ブラッドリーが振り返る。
「どうしました?」
「零号室の警戒区域で、不正アクセスを検知しています」
ナナリーの表情が変わった。
「今ですか?」
「はい。数秒前です」
私たちはほぼ同時に正面玄関を見る。
聖法院の馬車は、まだ敷地を出たばかりだ。
監査員五名は全員、私たち自身が見送った。
それなのに、旧館側で誰かが零号室へ接触している。
「まさか……」
ナナリーが小さく呟いた。
「監査そのものが、私たちの注意を正面へ集めるためのものだった?」
その可能性に気づいた瞬間、バルガスがすぐに動いた。
「旧館の警備員へ連絡する。総支配人、現場へ向かっても?」
「お願いします。ただし単独で接触しないでください。侵入者の目的が分かりません」
「了解」
バルガスが走り出す。
私も続こうとしたところで、端末がもう一度震えた。
新しい警告だった。
LOBBY CONTROL OVERRIDE ATTEMPT DETECTED
私は画面を見つめたまま、一瞬だけ意味を理解できなかった。
しかし次の瞬間には、昨夜レグナから聞いた話が頭の中で繋がった。
「ロビー制御を……解除しようとしてる」
「何ですって?」
ブラッドリーが私の端末を見る。
「誰かが零号室の制御へ外部から干渉しています。ロビー制御を解除して、境界との接続を直接開こうとしているみたいです」
それが何を意味するのか、この場にいる全員が理解していた。
零号室は現在、境界から来る存在を一度その場に留め、私たちが安全性を確認するための状態になっている。そこを解除されれば、境界側から何が現れても直接こちらの世界へ入り込める可能性がある。
そして、その境界の奥では今、ノアが「神」と呼ばれる何かを押し留めている。
「旧館へ向かいます」
私は端末を握り直した。
「ナナサキ、待ってください」
ナナリーに止められ、足を止める。
「あなたは零号室の管理者です。侵入者の狙いが管理者権限である可能性も考えてください。先頭へ出てはいけません」
確かにそうだ。
焦って一人で飛び込めば、相手の思うつぼかもしれない。
「……分かりました」
私は一度深く息を吸った。
日本にいた頃、トラブルが起きた時ほど走るなと教えられたことがある。宿泊客の前でスタッフが慌てれば、それだけで不安を広げるからだ。
今は少し事情が違うが、焦って判断を誤ってはいけないという意味では同じだ。
「サンディーさんとナナリーさんは本館をお願いします。総支配人、私はバルガスさんと合流してから零号室へ向かいます」
「私も同行します」
「総支配人まで?」
「零号室はHotel Aequitasの施設です。責任者が必要でしょう」
「こういう時だけホテルとして扱う範囲が広すぎません?」
「今さらでは?」
「……確かに」
ほんの少しだけ笑えた。
しかし、端末の画面では警告表示が消えていない。
侵入者はまだ零号室へ干渉している。
私はブラッドリーとともに旧館へ向かいながら、先ほどまでの監査を頭の中で思い返していた。
エルドは本当に、この侵入を知っていたのだろうか。
監査自体が囮だったのか。それとも、聖法院の内部にエルドたちとは別の目的で動いている者がいるのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ確かなのは、誰かが零号室の存在を知り、その制御方法にまで手を伸ばしているということだった。
旧館へ近づくにつれ、普段は静かな廊下に警備スタッフの声が聞こえ始める。先行したバルガスからの連絡によれば、閉鎖区域へ続く扉の一つが内側から破られていたらしい。
「総支配人」
「ええ。侵入者は旧館の構造を知っていますね」
偶然迷い込んだ者ではない。
最初から零号室を目指している。
やがて私たちは、旧館へ続く最後の扉へ辿り着いた。
そこにはバルガスと二名の警備スタッフが待機している。
「この先です」
バルガスが低い声で言った。
「侵入者は一名。姿は確認できていません。ただ、零号室が存在するはずの廊下から強い魔力反応があります」
「一名だけ?」
「現時点では」
私は端末を見る。
ロビー制御は、まだ維持されている。
解除されてはいない。
だが干渉は続いている。
「管理者権限なしでも解除できるんですか?」
私が端末越しにキーパーへ問いかけると、すぐに返答があった。
『通常は不可能です』
「通常は?」
『侵入者が旧管理権限を保持している可能性があります』
その言葉に、私たちは顔を見合わせた。
旧管理権限。
つまり、零号室が現在の状態になる以前から、この場所に関わっていた人物。
「聖法院……だけとは限らない?」
私が呟くと、ブラッドリーはすぐには答えなかった。
やがて閉ざされた扉の向こうから、低い振動が伝わってきた。
空気が震え、廊下の魔導灯が一瞬だけ暗くなる。
端末に新しい表示が現れた。
LOBBY CONTROL:87%
「……下がってる」
さっきまでは完全に維持されていた制御率が、少しずつ落ち始めている。
八十六。
八十五。
数字がゆっくり減っていく。
このままゼロになれば、何が起きるのか。
考えたくはない。
それでも私は管理者だ。
「バルガスさん。扉を開けてください」
「ナナサキは私の後ろへ」
「はい」
バルガスが剣へ手をかける。ブラッドリーも私の隣へ立ち、二名の警備スタッフが周囲を固めた。
私は最後に一度だけ端末を確認した。
LOBBY CONTROL:82%
昨日レグナから言われた言葉を思い出す。
扉は、開くか閉じるかだけではない。
留めるという使い方もある。
今、私たちが守らなければならないのは、まさにその状態だった。
境界を完全に閉じることもできない。
無防備に開くこともできない。
必要な者だけを迎え、危険なものを止める。そのために作った零号室の臨時フロントを、何者かが壊そうとしている。
「行きましょう」
私が言うと、バルガスが扉へ手をかけた。
聖法院の監査は終わった。
しかし、本当の目的が何だったのかはまだ分からない。
そして明日を待つまでもなく、Hotel Aequitasを巡る次の問題はすでに始まっていた。
扉がゆっくりと開く。
その向こうから漏れ出した白い光が、旧館の暗い廊下を静かに照らした。
私は目を細めながら、バルガスの後ろについて中へ踏み込んだ。
そこにいるのが聖法院の人間なのか、それとも別の誰かなのか。
答えは、この先にある。
――第28話 完




