第27話「境界の番人が語るもの」
境界の番人――レグナ。
その巨大な身体を前にしていると、零号室に作られた臨時フロントが妙に小さく感じられた。銀色の鱗に覆われた身体、四本の腕、赤く光る瞳。見た目だけなら今すぐ戦闘になっても不思議ではないが、彼自身に敵意はない。
レグナがHotel Aequitasへ来た目的はただ一つ。
私たちへ警告するためだった。
「まず、その“神”について教えてください」
フロントカウンター越しに尋ねると、レグナは少しだけ目を細めた。
「名はない」
「名前がないんですか?」
「呼ぶ必要がなかった。あれは、世界が今の形へ分かれる以前から存在していた」
話の規模が突然大きくなる。
私は思わずゼノを見るが、彼も初めて聞く話らしく険しい表情のままだ。
「世界って、昔は今みたいに分かれていなかったんですか?」
「完全にはな。互いの境界は今より曖昧で、異なる世界同士が影響し合うこともあった。だが世界が安定するにつれ、それぞれを隔てる境界が生まれた」
「その時に、その神だけがどの世界にも属さなかった?」
「そうだ」
レグナは静かに頷いた。
「世界へ属することを拒み、境界層のさらに深い場所へ留まった。そして長い間眠っていた」
それが今になって目覚め始めている。
「原因は、やっぱり聖法院の門ですか?」
「あれだけではない。だが大きな理由の一つだ。人間を鍵として世界の境界を無理やり裂き、その後も研究を完全にはやめなかった。境界には傷が残り続けた」
ゼノの顔が曇る。
「聖法院は、私が離れた後も研究を続けていた」
「長い間な。そして零号室が再び完全起動したことで、境界側からこちらの世界を認識しやすくなった」
私は無意識に端末へ触れた。
「……私が零号室を開けたから?」
「お前が原因ではない」
レグナの答えは早かった。
「目覚める条件はすでに揃いつつあった。零号室の再起動は最後のきっかけに過ぎない」
「でも、きっかけではあったんですよね」
「ああ」
慰めてくれているのかは分からない。ただ、完全に無関係だとも言ってくれなかった。
「アラタ」
ゼノが低い声で言う。
「妙な責任を背負うな。お前が零号室を開かなければ、境界の異常に気づくことさえできなかった」
「……それもそうですね」
私は一度息を吐き、気持ちを切り替えた。
起きてしまったことを悩んでも仕方がない。
問題はこれからだ。
◇
「ノアさんは、その神を止めているんですよね」
「ああ。正確には、完全に目覚めるのを遅らせている」
「また自分を鍵にしてるとか?」
嫌な予感を込めて尋ねると、レグナは首を振った。
「以前とは違う。ノアはすでに境界層へ適応している。零号室に残る古い権限と、自身に刻まれた門との接続を利用し、神の周囲へ封鎖を構築している」
「一人で?」
「一人ではない。境界へ取り残された者の中には、ノアに協力している者もいる」
ノックスやセレスのような者たちだろう。
「逆に、神を目覚めさせようとしている者もいる」
その言葉に、私は眉をひそめた。
「どうしてそんなことを?」
「境界から出たいからだ」
レグナの答えは単純だった。
「世界の壁が崩れれば、自分たちはどこかの世界へ流れ着ける。境界層で長すぎる時間を過ごした者の中には、他の世界がどうなろうと構わないと考える者もいる」
ノックスは名前すら忘れていた。
時間も場所も不安定なところへ長く閉じ込められれば、正気や倫理を保つ方が難しいのかもしれない。
「だから、ノアさんは私に来るなって?」
「それもある。だが最大の理由は、お前が人間だからだ」
「また人間……」
「人間は境界との親和性が高い。この世界の法則に元から属していないからだ」
私はすぐに聖法院の話を思い出した。
「だから人間を門の鍵に使えた?」
「そうだ」
人間を危険視しながら、その一方で利用する。
矛盾しているように見えた聖法院の行動が、ここで一つに繋がった。
「私が境界へ行ったら、どうなるんです?」
「神がお前を出口として認識する可能性がある」
さすがに背中が冷えた。
「……それなら今は行かない方がいいですね」
「現時点ではな」
横を見ると、ゼノは黙ってレグナを見つめている。
「ゼノさんもですよ」
「何がだ」
「ノアさんを探しに勝手に行かないでくださいね」
「分かっている」
「本当に?」
「何度言わせる」
以前なら絶対に飛び込んでいたと思うが、今は一応信じておくことにした。
「お客様の安全管理も仕事なので」
「最近その言葉を便利に使いすぎだ」
「総支配人から学びました」
そう言うと、ブラッドリーがわずかに目を逸らした。
◇
「現在のHotel Aequitasが取るべき対応を確認させてください」
ブラッドリーが本題へ戻した。
「零号室をこの状態で維持し、境界からの到着者を選別する。それが最優先でしょうか」
「そうだ。ただしもう一つある」
レグナの赤い瞳が細くなる。
「聖法院を零号室へ近づけるな」
明日。
聖法院はHotel Aequitasへ監査に入る予定だ。
「零号室が再起動したことを、向こうは知っているんでしょうか」
「断定はできない。だが境界の異常を観測する技術が残っていれば、何らかの変化には気づいているはずだ」
「監査の本当の目的が、零号室の捜索である可能性もある」
ブラッドリーが静かに呟く。
「宿泊者情報への不正アクセスもありましたしね」
私はあの事件を思い出した。
聖法院によるものだという証拠はまだない。しかし、今まで出てきた情報を合わせれば疑いたくなる。
「キーパー。監査の間、零号室を通常の館内構造から切り離せますか?」
「可能です。ロビー制御を維持したまま、旧館側の接続を一時的に制限できます」
「ではそうしましょう」
ブラッドリーの判断は早かった。
「旧館は従来通り、老朽化に伴う立入禁止区画として扱います。監査に必要な範囲は受け入れますが、宿泊客の安全や情報管理に関係のない区画まで開示する必要はありません」
「もし無理やり入ろうとしたら?」
私が聞くと、ブラッドリーは穏やかなまま答えた。
「その時点で、それは監査ではありません」
意味は明白だった。
正式な手続きなら正式に迎える。
規則を破って侵入するなら、警備案件として対応する。
戦わない。
でも、何でも許すわけではない。
「……Hotel Aequitasらしいですね」
「そうでしょうか」
「だいぶ分かってきました」
私は少し笑った。
◇
必要な話を聞き終えると、レグナは境界へ戻ると言った。
「ご宿泊はされないんですよね」
「ああ。番人の役目がある」
「帰還処理は可能ですか?」
キーパーへ確認すると、すぐに肯定が返ってくる。
「接続先は安定しています」
私はフロントカウンターの内側で姿勢を整えた。
「ではレグナ様。本日はHotel Aequitasまでお越しいただき、ありがとうございました」
「礼を求めて来たわけではない」
「分かっています。でも、何も知らないまま境界へ行っていた可能性もありますから」
レグナは何も言わなかったが、先ほどより表情がわずかに柔らかく見えた。
「もしノアさんに会ったら、伝えてもらえますか?」
「何をだ」
「“ホテルを辞めるな”って伝言、意味が分からないからちゃんと説明してくださいって」
ゼノが隣で吹き出した。
「最初にそれか」
「大事でしょう!」
「他には?」
レグナに問われ、私は少しだけ考えた。
「無茶をしないでください、とも」
今度はゼノが黙った。
「待っている人がいるので」
レグナはゼノへ視線を向け、それから静かに頷いた。
「伝えよう」
帰還用の亀裂がレグナの背後に開き始めた。
彼はその直前、もう一度私へ向き直った。
「管理者」
「はい」
「迷った時、扉を開くか閉じるかだけで考えるな」
「どういう意味です?」
「扉には、留めるという役割もある」
完全に閉じれば、別の場所へ出口ができる。
開ききれば、危険なものまで通してしまう。
だから零号室は、その間で止める。
ロビー制御。
「……なるほど」
「ノアから学んだ」
思わず笑ってしまった。
「本人はホテルマンじゃないって言ってたんですよね?」
「最後までそう言っていた」
「絶対ホテルマンですよ、それ」
レグナは返事の代わりにわずかに口元を緩め、亀裂の向こうへ消えていった。
境界が閉じると、零号室は再び静けさを取り戻した。
◇
「次の到着予定は?」
念のためキーパーへ確認する。
「現時点ではありません」
「よかった……」
ようやく肩の力を抜くことができた。
外では聖法院の問題が残っている。境界の奥には神と呼ばれる存在がいて、ノアはそこに留まっている。解決したことより、分からないことの方がまだ多い。
それでも今夜の仕事は、ここまでだ。
「本館へ戻りましょう」
ブラッドリーが言った。
「ナナサキはそのまま勤務終了です。ナナリーから聞いていますね?」
「はい。零号室管理が残業扱いになるかどうかも協議中だそうで」
「当然、勤務として扱います」
「そこ即決なんですね」
「業務ですから」
私は思わず笑った。
「こんな業務、ホテルの就業規則に書いてあります?」
「明日確認しておきます」
「追加しないでくださいね」
ゼノが呆れたようにこちらを見る。
「こんな状況で労働時間の話をするのか」
「大事ですよ。スタッフが倒れたらホテル回らないでしょう」
「お前、本当に染まったな」
その言葉に、私は少しだけ考えた。
確かに以前の自分なら、こんなふうには考えなかったかもしれない。
ホテルを辞めたい。
接客から離れたい。
そう思っていた人間が、今では世界の境界を管理した後に「スタッフが倒れたらホテルが回らない」と口にしている。
「……悪くないですね」
「何がだ」
「染まるのも」
私は小さく笑い、零号室のフロントカウンターを振り返った。
明日は聖法院の監査がある。
彼らが本当に調べたいのは私なのか、それとも零号室なのか。もし後者なら、今までの交渉とは違う局面になるだろう。
けれど、こちらにも守るべき線は見えてきた。
相手が誰でも、正式な来館者なら正面から対応する。必要なものは見せるが、客の情報や安全を売り渡すことはしない。そして、零号室という危険な扉を無闇に開かせない。
戦うための場所ではないからこそ、守らなければならないものがある。
「明日も忙しくなりそうですね」
私がそう言うと、ブラッドリーはいつもの穏やかな表情で頷いた。
「ええ。ですから今日は、きちんと休んでください」
「了解です、総支配人」
今度こそ宿舎へ帰ろう。
そう思いながら私は零号室を後にした。
境界の奥にいるノアへ会いに行く日は、まだ先だ。
その前に明日。
Hotel Aequitasは、武器ではなくホテルとして、聖法院を迎えることになる。
――第27話 完




