第26話「零号室、臨時ロビー化」
ノアとの通信が途切れたあとも、零号室には妙な余韻が残っていた。
ほんの少し前まで、何百年も生死すら分からなかった人物の声が、この部屋に確かに響いていたのだ。私ですらまだ実感が追いついていないのだから、ゼノにとってはなおさらだろう。
「……本当にノアさんだったんですね」
私がそう言うと、ゼノは閉じた亀裂の跡を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「あの話し方を間違えるものか。何百年も人を待たせておいて、再会早々こちらへ指示だけ残す。間違いなくあいつだ」
「ずいぶんな信頼ですね」
「信頼ではない。長年の経験だ」
「それを普通は信頼って言うんじゃないですか?」
「黙れ」
いつもの返しが戻ってきたことに、私は少しだけ安心した。
とはいえ、再会の余韻に浸っている暇はない。ノアははっきりと「零号室を完全に閉じるな」と言った。そのうえで、境界から来るものをこの部屋で止めるために“ロビー制御”を使えと指示している。
つまり私たちは、今から世界と世界の狭間に設けられた臨時フロントを作り、そこへやって来る正体不明の存在を迎えなければならないらしい。
やはり、どう考えても新人研修の範囲ではない。
「キーパー。ロビー制御について、改めて説明してください」
「承知しました」
キーパーが天秤の紋章へ手をかざすと、室内中央に半透明の表示が浮かび上がった。
LOBBY CONTROL MODE
「名前はそのままなんですね」
「機能名ですので」
「具体的には?」
「境界から到着する存在を、零号室内へ一時的に固定する機能です。通常の到着処理では、条件が整えば接続先の世界へ直接移送されます。しかしロビー制御中は、管理者が受け入れを承認するまで零号室の外へ出ることができません」
私は少し考えてから頷いた。
「空港の入国審査みたいなものですか」
「概念としては近似しています」
「ホテルなのに入国審査……」
思わずぼやいたが、仕組みとしては理にかなっている。到着した者の名前、種族、目的、安全性を確認し、問題がなければHotel Aequitasへ受け入れる。危険があるなら零号室で止める。
これまでのように、何が来るか分からない状態で本館へ直接出現されるより、はるかに安全だ。
「もし危険な存在が来た場合、こちらから帰すことはできますか?」
「到着元が特定でき、境界が安定していれば可能です。ただし、境界層そのものから来る存在については、即時帰還が可能とは限りません」
「万能ではない、と」
「はい」
ブラッドリーも説明を聞きながら、部屋の構造や出入口を確認していた。
「それでも、本館のお客様を直接危険へ晒さずに済むだけで大きいですね」
「そう思います」
「では、起動しましょう。ただし、零号室へ残る人員は最小限にします」
すぐに役割分担が決められた。
零号室には私、ブラッドリー、ゼノ、警備責任者のバルガスが残る。キーパーは当然として、本館側の指揮はサンディーとナナリーが担当することになった。
「俺も残るぞ」
サンディーが言ったが、ナナリーが即座に首を振った。
「総支配人まで旧館へ入ります。本館の最高責任者が不在になるのは避けるべきです」
「副支配人がいるだろ」
「支配人はあなたです」
「そういう時だけ役職を重く使うなよ……」
「正しい使い方です」
サンディーは不満そうだったが、結局反論できなかった。
ホテルは一つの現場だけで動いているわけではない。零号室がどれほど重要でも、本館には今この瞬間も宿泊客がいる。チェックイン、食事、館内案内、トラブル対応。そのすべてを止めることはできない。
こうして考えると、このホテルを守るというのは、世界の危機に立ち向かうことではなく、どれだけ異常事態が起きても日常を維持することなのかもしれない。
◇
ロビー制御の起動は、思っていたより静かに始まった。
私が管理者認証を行うと、床の天秤から淡い光が広がり、部屋の四隅へ細い線が走っていく。壁や天井にも同じ紋様が浮かび、古びた客室だった零号室そのものが少しずつ姿を変え始めた。
まずベッドが壁の中へ沈み、机と椅子が消える。その代わり、中央に横長のカウンターが現れた。重厚な木目、古い意匠の天秤、そして内側には複数の光る操作盤。
私は思わず目を疑った。
「……フロント?」
「管理者が到着者を処理しやすい形態へ再構成されています」
「私の記憶を参照した?」
「一部を参照しています」
「だからフロントなのか……」
現実世界で何度も立った場所だ。
チェックイン、問い合わせ、クレーム、予約変更。嫌になるほど見てきた景色が、異世界のさらに奥にある零号室で再現されている。
「似合っている」
ゼノが言った。
「今それ言います?」
「事実だ」
「逃げてもフロントに戻される人生なんだなあ……」
ブラッドリーは私の愚痴など気にせず、新しく現れたカウンターを興味深そうに観察していた。
「良い配置ですね。到着者と管理者の間に距離が確保され、万が一の場合も警備が介入しやすい」
「総支配人として評価し始めた……」
「ホテル設備として見れば、合理的です」
「これもホテル設備扱いなんですね」
「Hotel Aequitasの一部である以上は」
やはりこの人は強い。
キーパーによれば、今後このカウンターが零号室における「受付」となるらしい。到着者はまずここで止まり、私が受け入れ可否を判断する。客として受け入れるなら本館へ。帰還を希望するなら可能な範囲で帰還処理を行う。危険性が高ければ、零号室から出さない。
仕組みだけ聞けば、ごく普通のフロント業務に近い。
扱う相手が世界の境界を越えてくる存在でなければ。
「次の到着予定は?」
ブラッドリーが尋ねる。
キーパーが表示を切り替えた。
「約四時間後。出身は境界層。種族、名称ともに不明です」
「ノアさんが警戒していた“何か”と同じですか?」
「断定できません」
「ですよね」
結局、相手について分かることはほとんどない。
それでも今回は、ただ待つだけではない。迎えるための準備がある。
私はフロントカウンターへ手を置いた。
少し前までなら、この形を見るだけで仕事を思い出して気が重くなっていたかもしれない。
今は違った。
またフロントか、と呆れはする。
でも同時に。
ここなら自分にもできる。
そう思っている。
◇
到着までまだ時間があったため、私たちはいったん本館へ戻ることになった。
Hotel Aequitasのロビーでは、夜のチェックインが本格的に始まっていた。昼間に聖騎士団が来たことも、正面玄関前で世界の亀裂が開いたことも嘘のように、いつもの光景が広がっている。
「アラタ!」
フロント横からアシュリーが手を振った。
「戻ってきたなら手伝って!」
「私、今ちょっと世界の境界を管理してるんですけど」
「でも今はフロントスタッフでしょ?」
「逃げ道がない……」
「早く!」
「はいはい」
結局、私はカウンターへ入った。
「いらっしゃいませ」
目の前の宿泊客は、長い耳と淡い紫色の肌を持つ女性だった。予約名を確認し、宿泊日数、朝食、荷物の数を確認する。
「明日の朝食は何時から?」
「六時半よりレストラン“エルシオン”でご用意しております。早朝のご出発でしたら、お持ち帰り用のお食事もご相談いただけます」
「八時に出る予定だから大丈夫ね」
「かしこまりました。それでは通常の朝食をご利用いただけます」
自然に会話が続く。
世界の境界も、ノアも、聖法院も関係ない。
この客にとって重要なのは、明日の朝食が何時からなのか。
それでいいのだと思った。
ホテルを守る。
その言葉を聞くと、以前の私はもっと大袈裟なことを想像していたかもしれない。
でも今は。
客が普通にチェックインできること。
夜になれば安心して眠れること。
朝になれば温かい食事が出ること。
そういう当たり前を続けることこそ、このホテルを守ることなのだと少しずつ分かってきた。
◇
夜が深まり、チェックインのピークが落ち着いた頃。
フロントバックで一息ついていると、ナナリーが入ってきた。
「ナナサキ。そろそろです」
意味はすぐに分かった。
端末を確認する。
到着予定まで五十八分。
「行ってきます」
「ブラッドリー総支配人とバルガスはすでに旧館へ向かっています。ゼノ様も」
「ゼノさん、早いな……」
「待てないのでしょう」
当然だ。
次に来る者がノア本人とは限らない。それでも境界から来る存在なら、何かしらの手掛かりを持っているかもしれない。
「ナナサキ」
ナナリーに呼び止められた。
「はい?」
「零号室の対応が終わったら、本日の勤務は終了です」
「え?」
「本日の勤務時間を大幅に超えています」
「いや、でも零号室って勤務扱いなんですか?」
「現在、総支配人と協議中です」
「そこからなんだ……」
「労務管理は必要です」
世界の境界を管理していても、残業時間は管理される。
そこだけ妙に現実的だ。
「分かりました。終わったら宿舎へ戻ります」
「そうしてください」
私は笑いながらフロントバックを出た。
こういうところも、たぶん私がこのホテルを好きになり始めている理由の一つなのだと思う。
◇
旧館へ着いた頃には、到着予定まで十分を切っていた。
零号室はすでにロビー制御状態になっている。昼まで古びた客室だった場所は、小さなホテルロビーのように再構成され、中央には私用のフロントカウンターが設置されていた。
ブラッドリーとバルガスは警戒位置に立ち、ゼノは境界側の空間を睨んでいる。
私はカウンターの内側へ入った。
「やっぱりここなんですね」
「管理者席です」
キーパーが答える。
「もう少しこう……特別感のある席でもよかったんですけど」
「あなたが最も扱いやすい形を選択しています」
「分かってますよ。分かってますけどね」
深呼吸する。
残り五分。
部屋の奥で、空間がゆっくり歪み始めた。
今回は黒い霧ではない。真壁怜司の時のような白い光でもない。薄暗い裂け目の向こうに、何か大きな影が立っている。
「アラタ」
ゼノが低い声で言う。
「危険だと思ったら、すぐに受け入れを拒否しろ」
「分かってます」
「無理に客扱いするな」
「そこも分かってます」
ブラッドリーも静かに続けた。
「Hotel Aequitasの理念より、まず館内の安全です。危険性が確認された時点で、通常の宿泊対応は中止してください」
「はい」
私は頷いた。
以前なら「誰でも迎えるのがAequitasだ」と考えていただろう。
でも今は違う。
安全に迎えられる状態を作ること。
それもホテルの責任だと知っている。
残り一分。
空間の裂け目が大きくなる。
向こうに立つ影の輪郭が、少しずつはっきりしていく。
「……大きいですね」
私は思わず呟いた。
影は人型だった。
しかし高さは二メートルを軽く超えている。四本の腕を持ち、全身は鎧のような銀色の鱗に覆われ、背後には長い尾が揺れている。頭部からは後方へ伸びる二本の角。
やがて、その巨体が境界を越えた。
床へ着地した瞬間、低い振動が零号室全体に走る。
バルガスがすぐに剣へ手をかけたが、相手は攻撃する様子を見せなかった。ただ赤い瞳を開き、まっすぐ私を見た。
「管理者」
低い声が室内に響いた。
翻訳機能を通しているのだろう。意味は理解できる。
「人間か」
「はい」
私はカウンターの内側で姿勢を整えた。
怖くないと言えば嘘になる。
目の前にいるのは、これまでHotel Aequitasで見たどの種族とも違う。存在感だけでも十分な圧力がある。
それでも。
まず確認する。
分からないなら聞く。
今まで散々やってきたことだ。
「Hotel Aequitasへようこそ。恐れ入りますが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
巨大な存在は、しばらく無言で私を見つめていた。
やがて低い声で答える。
「レグナ」
同時に、キーパーの表示が更新された。
NAME:REGNA
その下に種族情報が現れる。
SPECIES:WARDEN
「ワーデン……?」
私が読み上げると、ゼノの表情が変わった。
「待て」
「知ってるんですか?」
ゼノはレグナを睨みながら答えた。
「境界の番人だ」
その言葉に、私は改めて目の前の存在を見る。
境界を守る者。
なら、わざわざ境界を越えてHotel Aequitasまで来た理由があるはずだ。
「レグナ様」
私は続けた。
「ご宿泊をご希望でしょうか?」
「しない」
即答だった。
「承知しました。では、ご来館の目的をお伺いしても?」
レグナの赤い瞳が細くなる。
「警告だ」
室内の空気が張り詰めた。
「誰に対する警告でしょう」
「管理者。お前にだ」
私自身。
「内容を聞かせてください」
レグナは少しだけ顔を上げた。
「ノアを探しているな」
ゼノが一歩動いた。
「お前、ノアを知っているのか」
「知っている」
「どこにいる」
「ゼノさん」
私はすぐに制した。
今度は彼も踏み込みすぎなかった。
レグナはゼノよりも、私だけを見ている。
「人間。ノアのいる場所へ行くな」
ノアからも同じような警告を受けている。
「理由を教えてください」
「ノアは一人ではない」
私は息を止めた。
セレスも言っていた。
境界の向こうにいるのはノアだけではない。
「何が一緒にいるんです?」
しばらく沈黙があった。
そしてレグナは、私たちが想像していなかった言葉を口にした。
「神だ」
誰もすぐには反応できなかった。
「……神?」
私が聞き返す。
レグナはゆっくり頷いた。
「境界の奥で眠っていたものが目覚めた。ノアは今、それを外へ出さないために境界の深部へ留まっている」
ゼノの顔色が変わる。
「ノアが……一人で?」
「一人ではない。だが長くは持たない」
私は無意識にカウンターへ置いた手へ力を込めた。
「その神が境界を越えた場合、どうなるんですか」
「世界を選ばない」
「どういう意味です?」
「世界と世界の区別を持たない。境界が崩れれば、触れた世界をすべて一つへ戻そうとする」
理解するのに少し時間がかかった。
別々に存在している世界を。
混ぜる。
日本も。
この世界も。
他のどこかも。
「それって……世界が壊れるってことですよね」
「お前たちの言葉なら、そうなる」
ブラッドリーが静かに尋ねた。
「その存在が零号室へ到達する可能性は?」
「高い」
「この部屋が出口だから?」
「今はな」
ノアが言っていた。
零号室を完全に閉じれば、その存在は別の出口を探す。
だからこそ、ここで止めなければならない。
「レグナ様」
私は一度深く息を吸った。
「では、私たちは何をすればいいんですか」
レグナの視線が、零号室の天秤へ向く。
「扉を守れ」
「閉じるのではなく?」
「閉じれば、別の扉が開く。開きすぎれば、ここを通る。今の状態を維持し、境界から来るものを選別しろ」
それはまさに。
今作ったばかりのロビー制御そのものだった。
「ノアさんが、この機能を使えと言ったのもそのため?」
「おそらくな」
レグナの答えに、私は少しだけ息を吐いた。
やるべきことが見えた。
簡単ではない。
むしろ恐ろしく大きな仕事だ。
でも、「世界を救え」と言われるよりは、まだ理解できる。
到着者を確認する。
安全なら通す。
危険なら止める。
フロント業務だ。
規模がおかしいだけで。
「分かりました」
私はレグナへ向き直った。
「もう少し詳しく聞かせてください。その“神”がどのような存在なのか、ノアさんが現在どういう状況なのか、それから境界を維持する方法も」
レグナは私をじっと見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「話そう」
それだけで、零号室の緊張が少しだけ変わった。
目の前のレグナは、少なくとも敵ではない。
警告を届けるために、わざわざ境界を越えてきた。
ならば今は、話を聞くべき相手だ。
私はふと思い直し、少しだけ接客口調へ戻った。
「その前に、立ったままで大丈夫ですか? かなり長いお話になりそうですが」
レグナが初めて、わずかに首を傾げた。
「問題ない」
「そうですか。飲み物は?」
「不要だ」
「分かりました」
ゼノが呆れた顔でこちらを見る。
「お前、この状況でもそれを聞くのか」
「長話する相手には普通確認するでしょう」
「境界の番人だぞ」
「来館者です」
ブラッドリーがわずかに笑った。
「良い対応です」
「総支配人まで乗らないでください」
ほんの短い笑いが起きた。
世界の境界の奥では、神と呼ばれる何かが目覚め、ノアがそれを押し留めている。
聖法院は明日、Hotel Aequitasへ監査に来る予定だ。
そして私たちは、世界を隔てる扉の受付を任されてしまった。
状況だけを並べれば、とても笑っていられる話ではない。
それでもHotel Aequitasは、こういう場所なのだろう。
危機が来ても、まず相手の話を聞く。
客なら迎える。
危険なら止める。
そして、必要なら長話の前に飲み物まで確認する。
私はフロントカウンターの向こうに立つレグナを見ながら、改めて思った。
どうやら私が異世界で学び直している「ホテルマン」という仕事は、日本にいた頃に思っていたより、ずっとしぶとくて、ずっと奥が深いらしい。
――第26話 完




