第25話「閉めるべき扉」
Do not come yet. The door is open, but something is standing behind it.
――まだ来るな。扉は開いている。だが、その向こう側に“何か”が立っている。
ノア・ウィンスレットから届いたとされるその文章を見せると、総支配人室の空気が一変した。
つい先ほどまで自室へ戻るつもりだった私は、結局そのままブラッドリーたちのもとへ引き返すことになった。室内にはブラッドリー、サンディー、ナナリー、ゼノが集まり、遅れてセレスも呼ばれている。長く境界層を彷徨っていた彼女には休んでもらうはずだったが、今回ばかりは無関係ではいられなかった。
机の上には零号室から持ち出した端末が置かれている。
画面に表示されている送信者名は、何度確認しても変わらない。
NOAH WINSLET
「間違いなく、ノアさんが使っていた文章なんですよね?」
私が尋ねると、ゼノは画面を睨んだまま答えた。
「文体はあいつに近い。だが、それだけで本人だと決めつけるな」
「偽物の可能性もある?」
「境界には、相手の記憶や認識へ干渉するものが存在する。昔、門から出てきた“あれ”もそうだった。見た者によって姿が違ったのは、そのためだと考えられている」
ノアの名前を使って、こちらを誘導する存在がいるかもしれない。
そう考えると、さっきまで「ノアから連絡が来た」と喜びかけていた自分が急に怖くなった。
「ただ」
セレスが口を開いた。
「警告そのものは信用していいだろう」
「理由は?」
ナナリーが尋ねる。
「零号室の外向き接続が安定しているのに、向こう側からこちらへ直接通信が届いた。通常ならあり得ない。何者かが意図的に接続へ触れている証拠だ」
私は端末へ目を落とした。
「つまり、本当に向こう側に誰かいる」
「少なくとも何かはいる」
“誰か”ではなく、“何か”。
その言い方だけで十分だった。
昨日まで私は、ノアへ会うために境界層へ行くことばかり考えていた。しかし、扉の向こうが安全とは限らない。むしろセレスの話を聞けば聞くほど、零号室とは客を迎える便利な玄関というより、世界同士の境界に設けられた危険な非常口に近い。
「閉じられますか?」
ブラッドリーがセレスとキーパーへ尋ねた。
半透明の姿で壁際に立っていたキーパーが、すぐに答える。
「外向き接続のみであれば停止可能です。ただし、完全封鎖には管理者権限が必要です」
全員の視線が私へ向く。
「……また私ですね」
「現在の管理者はあなたです」
「仮です」
「権限上は同等です」
「その説明、もう聞きました」
状況は真剣なのに、ついぼやいてしまう。
それでも、少しだけ気持ちが落ち着いた。
ホテルでもそうだ。トラブルが起きた時に一番困るのは、誰が判断するのか分からない状態だ。責任者が明確なら、少なくとも決断はできる。
「閉じた場合、ノアさんとの接続も切れますか?」
「はい」
「ノックスさんやセレスさんのような到着者も?」
「零号室を経由する到着は停止します」
私は少し考えた。
扉を閉じる。
それは安全を守るためには正しい。
でも同時に、こちらへ助けを求めてくるかもしれない者の入口まで塞ぐことになる。
「……難しいな」
思わず声が漏れた。
ブラッドリーが私を見る。
「何がですか?」
「ホテルなら、入口を閉めるってかなり大きな判断ですよね」
「ええ」
「危険な人を入れないために閉めれば、安全は守れる。でも、そのあとに本当に助けを求めてる人が来ても入れない」
Hotel Aequitasは、誰であってもまず客として迎える場所だ。
だからこそ、扉を閉めるという判断は、その理念そのものとぶつかるように感じた。
するとブラッドリーは、少しだけ考えてから答えた。
「ナナサキ。ホテルは常に扉を開けていればよいわけではありません」
「……え?」
「火災が起きた区画へお客様を通しますか?」
「通しません」
「危険物が発見された客室を販売しますか?」
「しません」
「では、そこに誰かが泊まりたいと言ったら?」
「安全が確認できるまでお断りします」
「それと同じです」
私は黙った。
「受け入れないことと、拒絶することは違います。相手を嫌って閉めるのではなく、安全に迎えられる状態になるまで閉めておく。ホテルとして必要な判断です」
簡単なことだった。
でも私は、Aequitasの理念を「何でも受け入れること」だと少し履き違えていたのかもしれない。
「……分かりました」
私は端末へ手を伸ばした。
「一度、外向き接続を停止します」
ゼノがこちらを見る。
「ノアへの道も閉じるぞ」
「はい」
「いいのか」
「会いたいです。でも、ノアさん本人が“来るな”って言ってるなら、今行くのは違うと思います」
それに、もしあの警告が偽物だったとしても。
危険性が確認できるまで扉を閉める判断そのものは間違っていない。
「キーパー。手順を教えてください」
「零号室で行います」
「……また旧館ですね」
「はい」
「今日は本当に宿舎へ帰れないなあ」
サンディーが笑う。
「もう諦めろ」
「支配人が言います?」
「明日のシフト調整しとく」
「そういうところだけ優しい!」
ナナリーがすぐにサンディーを見る。
「“だけ”とは?」
「何で私が怒られるんですか?」
ほんの短いやり取りだったが、そのおかげで張り詰めていた空気が少し和らいだ。
それから私たちは、再び零号室へ向かった。
◇
旧館は夜になると、昼間以上に静かだった。
現在の本館とは違い、人の気配がほとんどない。古い石壁に設置された魔導灯だけが淡く通路を照らし、私たちの足音が長い廊下へ反響している。
零号室の扉を開けると、中は何も変わっていないように見えた。
古いベッド。
机。
椅子。
そして天秤の紋章。
けれど、部屋へ入った瞬間に違和感があった。
「……寒くないですか?」
「温度は変化していません」
キーパーが即答する。
「じゃあ何だろう」
肌ではなく、もっと内側が冷える感覚。
ノックスが最初に現れた時と少し似ている。
セレスも同じことを感じたらしく、すぐに天秤の紋章へ視線を向けた。
「境界側から圧力がかかっている」
「圧力?」
「扉が開こうとしている」
「勝手に?」
「ああ」
嫌な話だった。
こちらが開けようとしているのではない。
向こう側が、こちらへ来ようとしている。
「急いだ方がいいですね」
私はキーパーの指示に従い、端末を天秤の上へ置いた。
画面に新しいメニューが表示される。
OUTBOUND CONNECTION
その横には現在の状態を示す緑色の表示。
ACTIVE
「ここを停止?」
「はい。ただし管理者認証が必要です」
私は画面へ手を置く。
指紋認証のようなものではないらしい。触れた瞬間、天秤の紋章が白く光り、私の腕を通して胸の奥まで何かが響いてくる。
不思議な感覚だった。
身体を調べられているというより、「本当に自分の意思なのか」を確認されているような感覚。
数秒後。
画面に質問が表示された。
RESTRICT CONNECTION?
接続を制限しますか?
その下に、小さな注意書きがある。
ARRIVALS FROM BOUNDARY LAYER WILL BE TEMPORARILY SUSPENDED.
境界層からの到着は一時停止されます。
やはり。
これを押せば。
助けを求めてくる者も入れなくなる。
指が止まった。
「アラタ」
ゼノの声。
「迷うなら、やめてもいい」
「珍しいですね。ゼノさんなら“早く押せ”って言うかと思った」
「管理者はお前だ」
短い答えだった。
私は少し笑った。
「じゃあ、私が決めます」
押した。
CONFIRM
画面が暗くなる。
零号室全体に低い音が響いた。
天秤の光が床から壁へ広がり、古い客室そのものを包み込んでいく。窓もないはずなのに強い風が吹き、机の上の古い書類が舞い上がった。
「ナナサキ!」
ブラッドリーがこちらへ来ようとする。
「大丈夫です!」
私は端末から手を離さなかった。
ここで途中停止できるのかすら分からない。
そして突然。
部屋の奥の空間が歪んだ。
黒い亀裂。
細い。
でも、確実に開いている。
「向こうから来るぞ!」
ゼノが声を上げた。
バルガスがすぐに私の前へ出る。
亀裂の向こうには何も見えない。
ただ、声が聞こえた。
『――待て』
英語。
私は息を止めた。
「ノアさん?」
ゼノの表情が変わる。
『閉じるな』
先ほど届いたメッセージと逆。
――まだ来るな。
でも今度は。
――閉じるな。
「どういうこと……?」
声は続く。
『アラタ。聞こえるか』
名前を呼ばれた。
はっきり。
「聞こえます!」
反射的に答える。
「あなた、ノア・ウィンスレットですか!」
一瞬の沈黙。
『そうだ』
ゼノが一歩前へ出る。
「ノア!」
叫ぶ。
声が震えている。
『……ゼノ?』
その一言だけで。
空気が変わった。
「俺だ」
『まだ生きてたのか』
「お前が言うな!」
怒鳴った。
でもゼノは笑っている。
初めて見るこんな顔。
声の向こうでも。
ノアが笑った気がした。
ただ、すぐに真剣な声へ戻る。
『時間がない。アラタ、接続を完全には閉じるな』
「でも、さっき“何かがいる”って」
『いる』
「危険なんですよね?」
『ああ』
「だったら閉じた方が――」
『閉じれば、そいつは別の出口を探す』
私は言葉を失った。
『零号室は今、唯一制御できる出口だ。ここを閉じれば、境界の裂け目が他の場所に開く。フレーレオだけじゃない。どこに出るか分からない』
つまり。
危険だから扉を閉じる。
それが逆に、危険を外へ逃がすことになる。
「じゃあどうすればいいんです?」
『扉は残せ』
「でも何か来る」
『だから』
『ホテルらしくやれ』
「……は?」
こんな時に。
『来る奴を、零号室で止めろ』
「それ、チェックイン対応みたいに言わないでください!」
『似たようなもんだ』
「全然違う!」
ゼノが。
横で笑っている。
「笑わないでください!」
「いや」
ゼノ。
「間違いなくノアだ」
私も。
思った。
たぶん。
本物。
最悪のタイミングで。
変なこと言う。
でも。
どこか。
安心する。
『アラタ』
「はい」
『完全封鎖はするな。接続を一段階だけ絞れ。キーパーに“ロビー制御”を聞け』
「ロビー制御?」
キーパーが反応する。
「該当機能を確認」
「あるんですか!?」
「封印されていました」
「今まで何だったんですか!」
『それで、到着者を零号室に固定できる』
「外に出さない?」
『そうだ』
これなら。
ホテルの他の客を守れる。
そして。
危険な存在も。
別の場所へ出さない。
「分かりました」
私。
深呼吸。
「やります」
『頼む』
声。
少し。
遠くなる。
「待って!」
ゼノ。
叫ぶ。
「ノア!」
『ゼノ』
「どこにいる!」
一瞬。
沈黙。
『……まだ来るな』
「またそれか!」
『今度はちゃんと迎えられる状態にしとく』
「何百年待たせたと思ってる!」
『悪かった』
「その一言で――」
音が途切れる。
亀裂。
ゼノはしばらく動かなかった。
私も何も言わない。
しかし、ゼノの顔はさっきまでとは違う。
「……生きてた」
小さく一言。
「はい」
私は答える。
「生きてました」
ゼノ。
目を閉じる。少し笑う。
そして。
「アラタ」
「はい」
「絶対」
顔を上げる。
「迎えに行くぞ」
微笑む。
「その前に」
端末を見る。ロビー制御。起動準備。
「今度はこっちが」
Hotel Aequitas。
零号室。
「お客様を迎える準備です」
――第25話 完




