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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: n217 (嘯江 新)


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第24話「扉の向こうへ行く前に」

 零号室の端末に表示されたOUTBOUND ACCESS:AVAILABLE――外向き接続、利用可能という文字を見てから、私はしばらくその意味を考えていた。

 今まで零号室は、この世界へ迷い込んだ存在を迎えるための場所だった。ノックスが来て、真壁怜司の人格情報が現れ、そしてセレスが境界層から帰還した。どれも「向こうからこちらへ来る」出来事だったが、今回初めて逆方向へ進める可能性が示されたのだ。

 境界の向こうには、ノア・ウィンスレットがいるかもしれない。

 ノックスは「生きている」と言った。セレスの話からも、ノアが零号室の仕組みに深く関わり、何らかの方法で私の存在を知っていた可能性が高まっている。あの手紙も、「ホテルを辞めるな」という妙に具体的な伝言も、本人へ会うことができれば一気に答えが出るかもしれない。

 だからといって、今すぐ零号室へ戻って「境界まで一名お願いします」と頼むほど、私は無謀ではない。

 ……少なくとも、最近は。

「先に仕事だな」

 客室フロアの廊下で小さく呟き、私はエレベーターへ向かった。

 セレスを本館の客室へ案内したところで、私の今日の業務が終わったわけではない。むしろ正面玄関では聖騎士団との騒動があったばかりで、現場の混乱を考えれば人手はいくらあっても足りないはずだ。

 世界の謎が気になるから勤務を放り出します、ではホテルマンとして話にならない。

 ノアだって、たぶんそう言うだろう。

 会ったこともないのに、最近はあの人の言いそうなことまで想像できるようになってきた。

     ◇

 本館へ戻ると、予想通りフロント周辺は慌ただしかった。

 聖騎士団自体はすでにホテル敷地から退去していたものの、正面玄関の前で空間の亀裂が発生したことは大勢の宿泊客に目撃されている。事情説明を求める客、外出して問題ないのか確認する客、逆に面白がって見に行こうとする客までいて、スタッフが一人ずつ対応していた。

「お戻りですか、ナナサキ」

 フロントバックでナナリーと目が合う。

「はい。セレスさんを客室へご案内しました」

「問題は?」

「今のところありません。ただ、あとで共有したい話があります」

「零号室関連ですね」

「分かります?」

「あなたがその顔をしている時は、大抵そうです」

「どんな顔なんだろう……」

 気になったが、今は聞く時ではない。

 ナナリーは数枚の紙を私へ差し出した。

「先ほどの騒動に伴い、外出予定だったお客様から予定変更の申し出が出ています。こちら三組、レストランの予約時刻変更。二組は送迎時間の変更です」

「分かりました」

「それから、正面玄関付近にいらっしゃったお客様へ、お怪我や体調不良がないか確認をお願いします」

「はい」

 そこまで聞いて、私は少しだけ笑った。

「何です?」

「いや……世界の境界が開いた直後でも、やることは予約変更なんだなって」

「当然です」

 ナナリーは真顔だった。

「お客様にとって、今日の夕食の方が重要な場合もあります」

「ですよね」

 それこそがホテルなのだろう。

 こちらがどれほど重大な問題を抱えていても、宿泊客にはそれぞれの目的がある。記念日で泊まりに来た者もいれば、仕事の商談で訪れている者もいる。ホテル側の事情を理由に、その時間を雑に扱っていいことにはならない。

 私は資料を持ってフロントを出た。

 最初に声をかけたのは、ロビーのソファに座っていた老夫婦だった。二人とも小さな翼を持つ種族で、先ほどの亀裂が開いた時に正面玄関近くにいたという。

「先ほどはご不安な思いをおかけいたしました。お身体にお変わりはございませんか?」

「大丈夫だよ」

 老人が笑う。

「それより、あれは何だったんだい?」

 来ると思った。

「現在、原因を確認しております。安全上の問題が確認された場合は、すぐに館内でご案内いたします」

「秘密か?」

「確認できていないことを、推測でお伝えできないだけです」

 老人は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。

「しっかりしているな、若いのに」

「ありがとうございます」

 昔の私なら、どう答えていただろう。

 曖昧な説明でとりあえずその場を収めることを優先していたかもしれない。接客に疲れていた頃は、目の前の一件を早く終わらせることばかり考えていた。

 今は少し違う。

 分からないものは分からない。

 ただし、客が安心するために必要なことは伝える。

 その線引きを、以前より丁寧に考えるようになった気がする。

     ◇

 夕方。

 ようやくロビーが落ち着いた頃、総支配人室で小さなミーティングが開かれた。

 参加しているのはブラッドリー、サンディー、ナナリー、ゼノ、そして私。セレスは長い境界層での滞在を考慮して休んでもらっている。

「では、零号室について追加で判明したことを」

 ブラッドリーに促され、私は端末を机へ置いた。

「セレスさんを客室へ案内した後、零号室の接続状態が変化しました。今までは到着者を受け入れるだけでしたが、現在は外向き接続――つまりこちらから境界層へ移動できる状態になっているようです」

 サンディーが眉を上げる。

「行けるのか?」

「表示上は」

「試した?」

「試すわけないでしょう!」

「アラタならやるかと思った」

「最近の私を何だと思ってるんです?」

「割と好奇心で危険地帯へ入る新人」

「反論しにくいのが悔しい……」

 ナナリーが小さくため息をつく。

「実際に使用する予定は?」

「今はありません」

 私は即答した。

「ノアさんには会いたいです。でも、境界層がどんな場所なのかも分かっていない。セレスさんからもう少し情報を聞いて、それから判断したいです」

「賢明です」

 ブラッドリーが頷く。

 ゼノは黙っている。

 私は彼を見る。

「ゼノさんは行きたいですよね」

「当然だ」

 迷いのない答えだった。

「ノアが向こうにいる可能性がある。何百年探しても何一つ手がかりがなかった。それが今、道そのものが目の前にある」

「でも、セレスさんは境界層から帰るまで相当時間がかかった」

「ああ」

「ノックスも、名前を忘れるほど長くいたと言ってました」

「分かっている」

 ゼノの声には苛立ちというより、焦りが滲んでいた。

 無理もない。

 自分のせいで死んだと思い続けていた相手が、生きているかもしれない。それだけでも十分なのに、その人物へ続く可能性のある扉まで見つかったのだ。慎重になれと言われて簡単に納得できる話ではないだろう。

「それでも」

 私は少し言葉を選んだ。

「ノアさんを見つける前にゼノさんまで帰ってこなくなったら、意味ないでしょう」

 ゼノが私を見る。

「お前に言われるとはな」

「何がです?」

「以前なら真っ先に行こうとしていた」

「成長しました」

「数日で?」

「ホテルの新人研修って濃いんですよ」

 サンディーが笑った。

「うちだけだと思うけどな」

 それは間違いない。

 少し空気が和らいだところで、ブラッドリーが話題を戻した。

「零号室については、現時点で使用を保留とします。ナナサキ一人での操作も禁止です」

「はい」

「ゼノ様も」

「……分かった」

 あからさまに不満そうだったが、了承はした。

「そして、聖法院について」

 ブラッドリーの表情が変わった。

「先ほど正式な通達が届きました」

 机の上へ、一通の書簡が置かれる。

「早いですね」

「内容は?」

 ナナリーが尋ねる。

「Hotel Aequitasが人間の引き渡しを拒否したことについて、明日正午までに再考を求める。拒否を継続する場合、当ホテルを聖法院の監査対象に指定するとのことです」

「監査?」

 私が聞き返す。

「武力行使じゃないんですね」

「今のところは」

 ブラッドリーはそう答えた。

 サンディーが書簡を手に取る。

「監査ってことは、館内へ入って宿泊記録やら施設やら調べたいってことか」

「おそらく」

「人間を探す名目で?」

「それだけとは限りません」

 ゼノが低く言った。

「奴らが零号室の再起動を知れば、狙う」

 室内が静かになった。

 そうだ。

 昔、聖法院は零号室を利用しようとしていた。

 セレスを捕らえ、管理権限を得ようとし、失敗した後には人間そのものを鍵にして門を開いた。

 そして今。

 零号室が再起動している。

 人間である私が仮管理者になっている。

 彼らにとっては、これ以上ない条件だ。

「宿泊者情報への不正アクセスも」

 私は思い出す。

「聖法院がやった可能性が高くなってきません?」

「可能性は上がりました。しかし証拠はありません」

 ブラッドリーは最後までそこを崩さない。

「明日の監査については、法的根拠とHotel Aequitasの権限を確認します。正式な手続きであり、宿泊客の安全や情報保護に抵触しない範囲であれば受け入れます」

「拒否しないんですね」

「Hotel Aequitasは聖法院と戦うための組織ではありません」

 その言葉に、私は改めて気づかされた。

 このホテルは反政府組織でも、秘密結社でもない。

 ホテルだ。

「ただし」

 ブラッドリーは静かな口調のまま続けた。

「お客様の個人情報、滞在の安全、そして当ホテルの中立性を侵害する要求には応じません」

「……ですよね」

 いつものHotel Aequitasだ。

 戦わない。

 でも譲らない。

     ◇

 会議が終わった後、私は従業員食堂へ向かった。

 さすがに今日は朝から動き続けている。ガンゼフに見つかる前に自分から食事を取っておいた方が、命の安全という意味でも賢明だろう。

 ところが厨房近くまで来ると、ちょうどアシュリーと鉢合わせた。

「あ、アラタ」

「お疲れ様です」

「遅い」

「何が?」

「夕食。ガンゼフ部長が探してたわよ」

「危なかった……」

「もう見つかってると思うけど」

「え?」

 背後。

「ナナサキ」

 低い声。

 振り返らなくても分かる。

「……お疲れ様です、ガンゼフさん」

「食え」

「はい」

 反論せずに席へ向かった。

 学習である。

 料理を食べながら、アシュリーに今日の出来事を話せる範囲で伝える。もちろん零号室の詳細は伏せたが、聖法院との交渉が続いていることは管理職から共有されていたらしい。

「大変ね」

「最近それしか言われてない気がします」

「でも、前より楽しそう」

 また言われた。

 真壁怜司にも。

「そう見えます?」

「うん」

 アシュリーは迷わず頷いた。

「最初の頃のアラタ、何かするたびに“どうせ仕事だから”って顔してたもの」

「そんな顔してました?」

「してた」

「今は?」

「疲れてるけど、ちゃんとお客様見てる」

 私はスプーンを止めた。

「……違います?」

「違う」

 アシュリーは少し笑う。

「今の疲れ方の方が、ホテルマンらしいわよ」

「褒められてるのかな、それ」

「たぶん」

 曖昧だ。

 でも、嫌ではなかった。

 接客に疲れたからホテルを辞めようとした。

 その事実は変わらない。

 ただ、疲れることと嫌いになることは、同じではなかったのかもしれない。

 私はまだ、その答えを出せずにいる。

 だからこそ。

 もう少しだけ。

 ここで働いてみたいと思っている。

     ◇

 夜。

 勤務を終え、従業員宿舎へ戻ろうとしたところで、端末が震えた。

 反射的に確認する。

 零号室からの通知ではない。

 GUEST REQUEST:ROOM 0

「……零号室?」

 誰が。

 キーパー?

 そう思ったが、その下に表示された文字を見て足が止まった。

 MESSAGE SOURCE:NOAH WINSLET

 私はその場で何度も画面を確認した。

 間違いない。

 ノア・ウィンスレット。

 これまで記録の中にしか存在しなかった名前が、「メッセージ送信者」として表示されている。

 指先がわずかに震えた。

 通知を開く。

 長い文章ではなかった。

 日本語でもない。

 ノアが使っていた英語。

 Do not come yet.

 ――まだ来るな。

 次の一文。

 The door is open, but something is standing behind it.

 私はゆっくりと意味を読み取った。

 ――扉は開いている。

 ――だが、その向こう側に“何か”が立っている。

 背筋を冷たいものが走った。

 セレスが言っていた。

 零号室は客を選ばない。

 向こうにいるのは、ノアだけではない。

 そしてノア本人が。

 来るな。

 そう警告している。

 私はすぐに踵を返した。

 宿舎へ帰るのは後だ。

 このメッセージだけは、今すぐブラッドリーとゼノへ伝えなければならない。

 廊下を歩き出しながら、私は端末を握り直した。

 扉は開いた。

 でも、開いたからといって通っていいとは限らない。

 ホテルの扉だって同じだ。

 誰かを迎えるために開けることもあれば、安全のために閉めておかなければならない時もある。

 そして今。

 零号室の向こうには、ノアですら警戒する何かがいる。

 私は歩く速度を上げた。

 境界へ行く前に。

 どうやら私たちには、まず「扉を閉めるべきか」を考える必要がありそうだった。


――第24話 完

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