第23話「零号室が壊れた日」
「かつて零号室で、ノアとともに働いていた者だ」
セレスがそう名乗った瞬間、零号室の空気がわずかに変わった。
ゼノは目を細めたまま彼女を見ている。ブラッドリーも普段の穏やかな表情を保ってはいるものの、明らかに警戒を強めていた。何しろ、つい先ほどまで存在することすら知らなかった人物が、Hotel Aequitasの過去を直接知っていると名乗ったのだ。
私はと言えば、驚きよりも先に別の疑問が浮かんでいた。
「……働いていた?」
「そうだ」
「ここで?」
「零号室で」
「ホテルスタッフとして?」
セレスが少しだけ眉をひそめる。
「そこまで細かい分類はなかった。私は到着者の記録、状態確認、滞在先の選定を担当していた」
「それ、かなりホテルスタッフっぽいですね」
「ノアにも同じことを言われた」
思わず笑いそうになった。
「やっぱり言うんだ……」
会ったこともないのに、ノアという人物の輪郭が少しずつはっきりしてくる。口が達者で、余計なことを言い、他人を勝手にホテルマン扱いする。
どこかで聞いたような話だと思っていると、ゼノが低い声で口を挟んだ。
「セレスという名に覚えがない」
「当然だ。お前が零号室へ入ることを許されたのは、最後の日だけだった」
ゼノの表情がわずかに変わる。
「最後の日?」
「ああ」
セレスは古い天秤の紋章へ視線を向けた。
「零号室が壊れた日だ」
私は自然と姿勢を正していた。
キーパーも黙ったままセレスを見ている。普段なら何を尋ねても機械的な答えを返す彼が、今は何も口を挟まない。それだけで、これから語られる話が重要なのだと分かる。
「その前に」
ブラッドリーが静かに言った。
「セレス様。お身体の状態を確認させてください。境界層から到着された直後ですので」
「必要ない」
「必要です」
即答だった。
セレスがブラッドリーを見る。
「私は問題ない」
「ご本人の認識と実際の状態が一致するとは限りません。特に今回は通常の到着ではありませんので、念のため確認させてください」
「話を急いでいる」
「その話を最後まで伺うためにも、です」
セレスが黙った。
私は心の中で少し感心する。
世界の秘密を知る人物が現れても、最初にやることは体調確認。
やっぱりこの人は総支配人だ。
「……分かった」
「ありがとうございます。ナナサキ」
「はい」
「簡易チェックをお願いします」
「私!?」
「現在の零号室管理者ですから」
「仮ですけど」
「承知しています」
仮が全然免罪符にならない。
結局、キーパーの補助を受けながらセレスの状態を確認することになった。
生体反応正常。
身体構造安定。
魔力反応は非常に特殊だが、現時点で危険な変動なし。
少なくとも、この場で突然消えたり霧になったりすることはなさそうだ。
「問題ありません」
「最初からそう言った」
「確認するのがホテルの仕事なんです」
「お前もノアと似たことを言うな」
「最近それ、よく言われます」
嬉しいような、複雑なような。
◇
セレスは零号室の椅子へ座った。
私は向かい側へ座り、ブラッドリーとゼノは少し離れた位置にいる。バルガスは入口付近で警戒を続けていた。
「まず確認したい」
私は尋ねた。
「セレスさんは、人間ではないんですよね?」
「違う」
「種族は?」
「境界種」
「……初めて聞きました」
「今は存在しない」
さらっと重いことを言われた。
「絶滅した?」
「正確には、この世界から消えた」
「人間と同じように?」
「理由は違う」
セレスは少し間を置いてから続けた。
「境界種は、世界と世界の間に生じる歪みを感知する能力を持っていた。門が自然発生すれば、それを見つけ、迷い込んだ存在を保護する。それが私たちの役割だった」
「零号室って、元々は境界種が管理してた?」
「ああ」
ようやく零号室の起源が少し見えてきた。
「じゃあ、ノアさんは後から?」
「そうだ。あいつは最初、ただの到着者だった」
「ただの……」
伝説の人間が「ただの到着者」と言われると、妙に現実味がある。
「ノアがこの世界へ来た時、零号室はすでに衰退していた。境界種も減り、管理機能の多くが停止していた。それでも私は残っていた」
「キーパーは?」
私は半透明の案内人を見る。
セレスもそちらへ視線を移す。
「当時から存在した。ただし今ほど完全ではなかった。記録と案内を補助するだけの機能だった」
「今は?」
「おそらく再構築されている」
キーパーが初めて口を開いた。
「訂正します。自己再構成履歴を確認できません」
「つまり?」
「私自身にも分かりません」
「本人にも分からないんだ……」
かなり不安になってきた。
セレスはキーパーへ一瞬だけ複雑そうな視線を向け、それから私へ戻した。
「ノアは帰る方法を探す中で零号室を知った。自分がここへ来た記録が残っているなら、逆方向の道もあるはずだと考えた」
「ノアさんらしいですね」
「異常なほど執着していた」
ゼノが静かに言う。
「帰りたがっていたからな」
セレスはゼノを一度見てから頷いた。
「そうだ。だから私は止めた。零号室は帰還装置ではない。境界を越えてきた者を記録し、保護する場所だと」
「でもノアさんは門を探した」
「ああ。そして見つけた」
ここまでは、ゼノから聞いた話と一致している。
「問題はその後だ」
セレスの声が少し低くなる。
「聖法院が、零号室の存在を知った」
ブラッドリーの目が鋭くなる。
「どうやって?」
「裏切り者がいた」
「境界種の中に?」
「違う」
セレスは首を振る。
「Hotel Aequitas側だ」
私は息を呑んだ。
「スタッフ?」
「当時の管理補佐だ。名は残っていない。少なくとも私は、もう口にしたくない」
声に明確な嫌悪が滲んでいた。
「その人物は、零号室を利用すれば異世界の知識や資源を手に入れられると考えた。そして聖法院へ情報を渡した」
「それで門の研究が始まった?」
「正確には加速した。聖法院は以前から人間を調べていたが、零号室を知ったことで確信した。この世界の外に、別の世界が存在すると」
全てが少しずつ繋がっていく。
人間への恐れ。
世界外存在の研究。
門。
零号室。
「聖法院は、零号室を使おうとした」
「使えるんですか?」
「管理者権限があれば」
セレスの視線が私へ向く。
「だから彼らは管理者を欲しがった」
「当時の管理者は?」
「私だ」
「じゃあ、狙われた?」
「ああ」
短い返事だったが、その向こうにある出来事は軽くない。
「捕まったんですか?」
「一度は」
ゼノが顔を上げた。
「待て。その記録は聖法院にも残っていない」
「消されたからだ」
「誰が」
「お前たちの上層部だ」
ゼノの表情が固まる。
セレスは淡々と続けた。
「零号室の管理権限を奪おうとしたが、失敗した。その後、門の研究へ切り替えた。人間そのものを鍵として使えば、零号室を経由せずに世界の境界を破れると考えた」
「それが、あの門……」
「ああ」
人間を送り込み、代わりに黒い霧が流れ出した門。
ノアが最後に閉じたもの。
「でも」
私は疑問を口にする。
「さっきセレスさん、人間を管理者に選ばないよう零号室が作られたって言いましたよね」
「正確には、作り直された」
「誰が?」
セレスは答える前に少しだけ目を伏せた。
「ノアだ」
私は言葉を失った。
「ノアさんが?」
「あいつは、零号室の仕組みを一部変更した」
「そんなことできたんですか?」
「本来は無理だ。しかしノアは、この世界の存在ではなかった。そして零号室は異世界からの到着者情報へ深く接続する。その特性を利用した」
専門的すぎて理解が追いつかない。
「つまり……裏技?」
「本人もそう言っていた」
「言いそうだなあ……」
ゼノが小さくため息をついた。
「何を変えた」
その質問に、セレスは真っ直ぐ答えた。
「人間を管理者候補から除外した」
室内が静かになる。
「理由は?」
私が聞く。
「聖法院が、人間を管理者として利用しようとしたからだ。門と相性のいい人間を管理者にすれば、零号室を完全に掌握できる。ノアはそれを防ごうとした」
「じゃあ」
私は自分を指す。
「今の私は、あり得ない?」
「そうだ」
「キーパー」
私は案内人を見る。
「説明できます?」
「できません」
「早い」
「現在、アラタ・ナナサキ様は正式に仮管理者として登録されています。登録過程にも異常は確認されていません」
「でも本来は登録できない?」
「セレス様の証言が正しい場合は」
「正しい」
セレスが即答する。
キーパーは少し沈黙した。
「ならば、管理規約そのものが変更されています」
「誰かが?」
「可能性があります」
嫌な予感が戻ってきた。
「いつ?」
「不明です」
分からないことばかりだ。
しかし、一つだけ確かなことがある。
私は本来、零号室の管理者になれない。
それなのに選ばれた。
「ノアさん?」
自分でも半信半疑で口にする。
「ノアさんが後から変更した可能性は?」
「ない」
セレスは首を振った。
「少なくとも、私が境界層へ落とされる前までは」
「落とされた?」
今までの説明の中で、一番引っかかった。
「誰に?」
「聖法院だ」
ゼノの顔が曇る。
セレスは感情を抑えながら説明した。
「門が暴走した日、私は零号室を守ろうとした。聖法院は私を捕らえ、門の安定化に利用した。境界種は世界の歪みに耐えられる。だから、私を向こう側へ固定することで門を保とうとした」
「そんな……」
「ノアが門を閉じたことで私は境界層へ取り残された。それから、こちらへ戻る道を探し続けていた」
名前を忘れるほど長い時間を彷徨ったノックス。
そしてセレス。
境界層は、一体どれほど過酷な場所なのだろう。
「ノアさんは、セレスさんが生きてることを?」
「知らなかったはずだ」
「じゃあノックスは?」
「知らない」
世界の向こうにいる者同士が、必ず出会えるわけではないらしい。
セレスは一度息を吐いた。
「私が今日ここへ戻れたのは、零号室が完全起動したからだ」
「私が管理者になったことで?」
「おそらく」
「じゃあ、やっぱり誰かが私を管理者にした」
「そうなる」
その言葉が、妙に重かった。
偶然ではない。
私がここへ迷い込んだこと自体は偶然かもしれない。
でも。
Hotel Aequitasに来て。
零号室を開け。
管理者になったことは。
「誰かの意図……」
私は呟いた。
◇
「それで」
ゼノがセレスを見る。
「零号室が壊れた日、ノアは何をした」
セレスの表情が変わった。
ここからが本題なのだろう。
「零号室そのものを壊したわけではない」
「では?」
「切り離した」
「何から?」
「世界からだ」
私には意味が理解できなかった。
セレスはそれを察したらしい。
「零号室は元々、この世界と境界層の間に存在していた。Hotel Aequitasは、零号室がこの世界へ接続するための“入口”だった」
「だからホテルの中にある?」
「ああ」
「それを切り離した?」
「聖法院に利用されないために」
ノアは人間を管理者候補から外し、それでも足りないと考えた。
だから最後には。
「零号室への接続そのものを封鎖した」
「それで誰も存在を知らなくなった?」
「記録も同時に隔離された。現在の総支配人が知らなかったのも当然だ」
ブラッドリーが静かに頷く。
「では、今回再び接続されたのは」
「異常だ」
セレスははっきり言った。
「ノアが施した封鎖は、自然に解けるものではない」
「誰かが解除した」
「ああ」
「それが、私を管理者にした人?」
「同一とは限らないが、可能性は高い」
私は内ポケットの端末へ無意識に触れた。
私の名前を知っていた。
Hotel Aequitasへようこそ。
ずっとあなたを待っていました。
あれを書いたのは。
キーパーではない?
「キーパー」
「はい」
「私が最初に零号室へ来た時、スマートフォンに“ずっとあなたを待っていました”って出ましたよね」
「はい」
「誰が設定したメッセージですか?」
キーパーは数秒沈黙した。
「……不明です」
「あなたじゃない?」
「私の記録にはありません」
背筋が冷えた。
今まで。
零号室そのものが私を待っていたと思っていた。
でも。
違う。
誰かが。
私の名前を知り。
ここへ来ることを想定して。
メッセージを残した。
「ノアさんの可能性は?」
「ある」
セレスが静かに答える。
「ただし」
「ただし?」
「もしノアがやったのなら」
彼女の金色の目が私を見る。
「お前が来ることを、ずっと前から知っていたことになる」
私は言葉を失った。
ノアは境界の向こうで生きている。
ノックスはそう言った。
そして。
ノアは私へ「ホテルを辞めるな」と伝言した。
つまり。
知っている。
私を。
でも。
どうして?
「会うしかないですね」
気づけば口にしていた。
ゼノがこちらを見る。
「何?」
「ノアさんに」
私は自分の言葉を確かめるように続けた。
「この零号室のことも、私を知ってる理由も、全部本人に聞くしかない」
「簡単に言うな。ノアは境界の向こうだ」
「分かってます」
「そこへ行けば帰れない可能性もある」
「それも分かってます」
ゼノは少し苛立ったように眉を寄せる。
私はそこで苦笑した。
「今すぐ行くとは言ってませんよ」
「……」
「私、今日まだ勤務中ですし」
ゼノが呆れた顔をした。
「お前は本当に……」
「ホテルマンなので」
ブラッドリーがわずかに笑う。
「その判断は正しいと思います」
「総支配人ならそう言いますよね」
「ええ」
Hotel Aequitasには今も多くの客が滞在している。
聖法院との問題も終わっていない。
境界へ突入してノアを探す前に、やらなければならないことはいくらでもある。
それに。
セレス自身も、今は客だ。
「セレスさん」
「何だ」
「今日のところは、まず休んでください」
「私は――」
「境界層から帰ってきたばかりですよね」
「問題ない」
「さっきブラッドリーさんにも言われてましたけど、本人が大丈夫と思っているかどうかは別です」
セレスが不満そうな顔をする。
私は少しだけ笑った。
「Hotel Aequitasに到着した以上、今はお客様です。お部屋をご用意します」
「……ノアも同じことを言った」
「本当に?」
「ああ。私が三日眠っていなくても、“客なら寝ろ”と」
ゼノが吹き出した。
「お前も言われたのか」
「お前も?」
二人が顔を見合わせる。
「戦場へ戻ろうとしたら言われた」
「私は境界監視へ戻ろうとして言われた」
私は思わず笑った。
「ノアさん、人を泊めるの好きすぎません?」
「本人はホテルマンではないと言い張っていた」
ゼノとセレスの声が綺麗に重なった。
一瞬。
全員が黙る。
そして。
私は吹き出した。
ブラッドリーまで笑っている。
Hotel Aequitasの始まりにいた人間。
ホテルマンではないと言いながら。
誰よりも。
客を泊めていた。
「……会ってみたいな」
私は小さく呟いた。
今度は誰も否定しなかった。
◇
セレスには旧館ではなく、本館の特殊客室を用意することになった。
身体状態が安定していること、一般客へ危害を加える要素が確認されなかったこと、何より長く境界層にいた彼女には現在のHotel Aequitasの方が休息に適していると判断されたからだ。
私は彼女を客室まで案内した。
途中、セレスは現在のホテルを興味深そうに眺めていた。広いロビー。魔導昇降機。複数のレストラン。種族ごとに調整された客室設備。
「変わったな」
「昔は小さかったんですよね」
「今の十分の一どころではない。もっと小さかった」
「ノアさん、これ見たら驚きそうですね」
「……いや」
セレスは少しだけ笑う。
「あいつなら、“掃除が大変そうだな”と言う」
「言いそう」
私まで笑った。
客室へ到着し、鍵と館内案内を渡す。
「お食事が必要ならルームサービスもあります。何が食べられるか分からないので、その際は相談してください」
「そこまで必要ない」
「そう言う人ほど後で困るんですよ」
「本当にノアに似てきたな」
「それ、褒め言葉として受け取っていいんですか?」
「好きにしろ」
扉が閉まる直前。
セレスが私を呼び止めた。
「アラタ」
「はい」
「一つだけ気をつけろ」
表情から笑みが消えていた。
「零号室が完全に起動したということは、こちらから境界へ行けるという意味だけではない」
私は少し考えた。
「向こうからも来られる?」
「ああ」
ノックス。
真壁怜司の人格情報。
そしてセレス。
すでに三度起きている。
「それだけじゃない」
「え?」
「零号室は“客”を選ばない」
Hotel Aequitasの理念。
種族で客を選ばない。
でも。
この場合。
意味が違う。
「善悪も?」
「関係ない」
セレスの声は静かだった。
「門を越えられるなら、何者でも到着者として扱う」
私は息を呑んだ。
「つまり」
「ああ」
セレスは答えた。
「ノアだけが、向こうにいるとは限らない」
扉が静かに閉じた。
廊下に残された私は、しばらく動かなかった。
境界の向こう。
ノア。
そして、かつて門から出てきた黒い霧。
見た者によって姿が変わる正体不明の存在。
あれがもし、まだ向こうにいるなら。
零号室の再起動は、ノアへ繋がる道であると同時にそれ以外の何かへも。扉が開いてしまった。
私は廊下の窓からHotel Aequitasのロビーを見下ろした。
たくさんの宿泊客。
スタッフ。
いつもの日常。
この場所を守る。
それが。
今。
少しずつ。
私自身の仕事になり始めている。
ポケットの中で。
端末が震えた。
私は画面を確認する。
新しい通知は一つ。
ROOM 0 CONNECTION:STABLE
零号室接続――安定。
その下。
これまでなかった項目。
OUTBOUND ACCESS:AVAILABLE
外向き接続――利用可能。
つまりこちらから。
境界へ行ける。
私はしばらくその表示を見つめた。
そして画面を閉じる。
今は行かない。
でも、いつか行く。
ノアに会うために。
そして、自分がなぜここにいるのかを。
知るために。
――第23話 完




