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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: n217 (嘯江 新)


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第22話「境界からの宿泊客」

 零号室を出て本館へ戻る途中、私は何度もポケットの中の端末を気にしていた。

 次の到着まで約三時間。出身地は「BOUNDARY LAYER――境界層」。キーパーによれば、世界と世界の間に存在する領域であり、本来ならそこを出身地として登録される生命など存在しないという。

 つまり今日だけで、聖騎士団が私の身柄を要求し、もう一人の日本人らしき人格情報が現れて日本へ帰り、その直後に存在するはずのない場所から次の客が来ることになった。

 異世界ホテル勤務にも少し慣れてきたつもりだったが、さすがに今日は業務量がおかしい。

「ゼノさん」

「何だ」

「Hotel Aequitasって、昔からこんな感じなんですか?」

「少なくとも俺が知っている頃は、もう少し普通のホテルだった」

「安心しました」

「もっとも、地下から魔獣が出たことはある」

「前言撤回します」

 ゼノがわずかに笑った。

 こういう会話をしていられるうちは、まだ大丈夫なのだろう。

     ◇

 本館へ戻ると、聖騎士団はすでに正面玄関から退去していた。

 ただし、諦めたわけではない。

「聖法院へ正式に報告したうえで、改めて対応を決定するそうです」

 総支配人室でブラッドリーから説明を受け、私は小さく息を吐いた。

「つまり、今日は帰ってくれたけど、また来る可能性が高いと」

「その認識で問題ありません」

「全然問題しかないんですけどね……」

 室内にはブラッドリー、サンディー、ナナリー、バルガス、ゼノが集まっていた。私は先ほど起きたことを順番に説明し、真壁怜司が実際には肉体を伴っていなかったこと、本人の希望によって日本側へ返却されたこと、そして新たな到着予定が検出されたことを報告した。

「境界層……」

 ブラッドリーの表情がわずかに曇る。

「聞き覚えがありますか?」

「名称だけは。ただし、私も詳しく知っているわけではありません」

「俺もだ」

 サンディーが腕を組む。

「昔話なんかじゃ、死者の国とこっちを分ける場所だとか、神々が世界を作った時に余った空間だとか、好き勝手言われてる。実在するなんて話は聞いたことがない」

「実在はしています」

 キーパーが淡々と訂正した。

 いつの間にか総支配人室の隅に半透明の姿を現している。

「ただし、一般的な生命体が長期間存在できる環境ではありません。境界層には安定した時間、空間、物質という概念が存在しないためです」

「……それ、生き物が住める場所じゃないですよね?」

「その通りです」

「なのに、そこから客が来る」

「はい」

 嫌な予感しかしない。

 ナナリーが私の持つ端末へ目を向けた。

「到着までの時間は変わっていませんか?」

「確認します」

 画面を開く。

 ESTIMATED ARRIVAL:02:41:16

「あと二時間四十分くらいです」

「ETAが表示されるようになったのですね」

「あ」

 言われて気づいた。

 第20話の朝には「せめてETAくらい出してほしい」と文句を言っていた。それが今度は、秒単位で表示されている。

「こういうところだけ改善が早い……」

「便利になったならいいでしょう」

「そうなんですけど」

 ETA――Estimated Time of Arrival。到着予定時刻。

 通常のホテルなら団体客やVIPの到着に合わせ、フロントやベル、客室担当が準備を整えるための情報だ。今回も「客を迎える準備」という意味では同じなのだろう。

 ただし、普通のホテルでETAを確認した結果、「二時間四十分後に世界の境界から正体不明の生命体が到着します」となることはまずない。

「準備を始めましょう」

 ブラッドリーが言った。

「今回は零号室内での到着です。一般のお客様への影響を避けるため、旧館への立ち入りを一時的に制限します。バルガス、警備をお願いします」

「承知しました」

「ナナリーは本館側の運営を。サンディーは私と旧館へ同行してください」

「了解」

「ナナサキ」

「はい」

「あなたは零号室の仮管理者として、到着者の受け入れを担当してください」

 分かっていた。

 それでも改めて言われると緊張する。

「……チェックイン担当ですね」

「そうなります」

「種族も名前も分からないんですよね?」

「はい」

「敵意があるかもしれない」

「可能性はあります」

「それでも?」

 ブラッドリーは私を見る。

「まず相手が何者なのかを確認しなければ、敵かどうかも判断できません」

 私は少しだけ笑った。

「Hotel Aequitasらしいですね」

「そうでしょうか」

「だいぶ染まってきました、私」

「歓迎します」

 そんな軽いやり取りを最後に、会議は終了した。

     ◇

 到着予定の三十分前。

 旧館の零号室には、私、ブラッドリー、サンディー、ゼノ、バルガス、そしてキーパーが集まっていた。

 万が一に備え、廊下には警備スタッフも配置されている。

 ノックスには事情を説明したうえで客室に留まってもらっている。本人は「境界から何か来るなら見たい」と言っていたが、宿泊客を危険な現場へ連れてくるわけにはいかない。

「アラタ」

 サンディーが私を見る。

「緊張してるか?」

「してないように見えます?」

「全然」

「ですよね」

 私は端末を見る。

 残り十五分。

 零号室の中央には、すでに淡い光が集まり始めていた。

「キーパー。今回も通常のチェックイン手続きでいいんですか?」

「基本的には」

「基本的には、って怖いですね」

「到着者が意思疎通可能であれば、滞在意思を確認してください。滞在を希望する場合、零号室の規約への同意が必要です」

「希望しなかった場合は?」

「帰還可能か確認します」

 先ほどの怜司と同じだ。

 来たから泊めるのではない。

 本人がどうしたいのかを確認する。

 それなら、私にもできる。

 やがて残り時間が一分を切った。

 部屋の中央に浮かんでいた光が急速に収束し、空間そのものが水面のように揺れ始める。昨日ノックスが現れた時とも、怜司が出現した時とも違う。今回は何かが「向こうから扉を開けている」という感覚があった。

「来ます」

 キーパーの声に、全員が身構える。

 空間が裂けた。

 しかし、その向こうにあったのは光でも闇でもない。

 無数の景色だった。

 青い空。

 燃え盛る都市。

 巨大な海。

 星空。

 森。

 見知らぬ建物。

 そして、一瞬だけ。

 私は見覚えのあるものを見た。

「……東京?」

 高層ビル。

 道路。

 信号。

 ほんの一瞬だった。

 次の景色へ切り替わる。

「アラタ、今のは?」

「私の世界です。たぶん」

 ゼノが亀裂を見る。

「境界層から、複数の世界が見えているのか」

 キーパーは答えない。

 代わりに端末へ警告が表示された。

 ARRIVAL STARTED

 亀裂の向こうから、何かが歩いてくる。

 人型だった。

 ただし、人間ではない。

 最初に見えたのは長い銀色の髪。そして、頭部から伸びる二本の黒い角。細身の身体を包んでいるのは、どの国のものとも分からない古びた衣服だった。

 女性に見える。

 年齢は二十代前半ほどだろうか。

 彼女は境界を越えると、その場で膝をついた。

「大丈夫ですか?」

 私は反射的に一歩進む。

「アラタ」

 バルガスが制止する。

「まだ近づかないでください」

「……そうでした」

 私は少し離れた位置から声をかけた。

「聞こえますか?」

 女性の肩が動く。

 ゆっくりと顔を上げた。

 金色の瞳。

 その視線が私を捉える。

「……人間」

 私は息を呑んだ。

 まただ。

 この世界の住人は、私を見れば驚く。

 しかし彼女の反応は違った。

 驚きではない。

 知っている。

 そんな目だった。

「私が人間だと分かるんですか?」

「分かる」

 女性は立ち上がろうとしたが、身体がふらついた。今度はバルガスも止めず、私は彼女の側へ駆け寄る。

「無理しないでください」

 肩を支える。

 触れられる。

 怜司とは違う。

 本当に肉体を伴っている。

「キーパー」

「生体到着を確認。実体です」

 私は少し安心した。

「お名前を伺っても?」

 女性は私を見つめたまま答えない。

「ここはHotel Aequitasです。私はアラタ・ナナサキ。ここの従業員です」

「……Aequitas」

 彼女の顔が変わった。

「この場所が?」

「知ってるんですか?」

「知らないはずがない」

 女性は周囲を見る。

 古い零号室。

 天秤の紋章。

 キーパー。

 そして再び私。

「まだ残っていたのか……」

 ゼノが前へ出る。

「お前は何者だ」

「ゼノさん」

「アラタ。こいつはHotel Aequitasを知っている。それも今のホテルじゃない」

 私も同じことを感じていた。

 女性はゼノを見て、それからブラッドリーへ視線を移す。

「管理者は?」

「現在のHotel Aequitas総支配人、ブラッドリー・シュチュワードです」

 ブラッドリーが一歩進み出る。

「まずはお身体の状態を確認させていただきたいのですが」

「管理者ではない」

 女性が即座に言った。

 ブラッドリーの眉がわずかに動く。

「では、あなたのおっしゃる管理者とは?」

「零号室の管理者」

 全員の視線が私へ集まった。

 嫌な予感がした。

「現在はナナサキが仮管理者を務めています」

 ブラッドリーが答える。

 女性が私を見る。

「人間が?」

「成り行きで……」

 すると彼女は、初めて明確な動揺を見せた。

「あり得ない」

「よく言われます」

「違う」

 女性が私へ近づく。

 金色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。

「零号室は人間を管理者に選ばない」

「……え?」

「二度と選ばないように作られた」

 部屋が静まり返った。

 私はキーパーを見る。

 しかし、彼は何も言わない。

「どういう意味です?」

 女性は答えず、私の持っている端末へ視線を落とした。

「それをどこで手に入れた」

「零号室です」

「起動したのは?」

「私です」

「天秤は?」

「反応しました」

 女性の顔から、わずかに血の気が引いた。

「そんなはずはない……」

「だから何が――」

「名前を」

 突然、女性が言った。

「え?」

「お前の名前を、もう一度言え」

「アラタ・ナナサキです」

 その名を聞いた瞬間、女性は完全に動きを止めた。

「ナナサキ……?」

「はい」

 彼女は何かを思い出そうとするように目を細めた後、震える声で問いかけた。

「お前は……ノアの血族か?」

 今度は。

 私が。

 動けなくなった。

「……ノアを知ってるんですか?」

 女性は答えなかった。

 代わりに。

「知っている」

 静かに言った。

「私は、あの男が零号室を壊した日に――ここにいた」

 背筋に冷たいものが走る。

 ノア。

 人間。

 零号室。

 そして、Hotel Aequitas。

 これまで断片しか残っていなかった過去を。

 直接知っている者。

 目の前の女性は、長い時間を境界層で過ごし、今になってこのホテルへ戻ってきた。

「あなたは……誰なんです?」

 私が尋ねると、女性はしばらく黙った後、ようやく名乗った。

「セレス」

 そして、天秤の紋章を見つめながら続ける。

「かつて零号室で、ノアとともに働いていた者だ」

 私は言葉を失った。

 零号室が再び動き始めた理由。

 ノアが残した「ホテルを辞めるな」という言葉。

 そして、人間である私が管理者に選ばれた理由。

 その答えを知っているかもしれない人物が、ついにHotel Aequitasへ現れたのだった。


――第22話 完

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