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ようこそ、異世界ホテル"Aequitas"へ  作者: n217 (嘯江 新)


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第21話「チェックイン前の客」

「私も日本人です」


 そう答えると、Hotel Aequitasの正面玄関へ駆け込んできた男は、しばらく私の顔を見つめたまま動かなかった。黒いスーツは石畳の埃で汚れ、ネクタイも大きく曲がっている。つい先ほどまで日本にいたであろう会社員が、突然異世界へ放り出され、剣を持った聖騎士団に囲まれたのだ。混乱していない方がおかしい。

「……本当に、日本人なんですよね?」

「はい。アラタ・ナナサキです。私もあなたと同じ、日本から来ました」

 その言葉を聞いて、男の表情からわずかに緊張が抜けた。

「よかった……」

 小さく漏れたその一言が、妙に胸へ残った。

 私には分かる。知らない世界で目覚めた時、何より欲しいのは、自分と同じ常識を共有できる誰かなのだ。私がこの世界へ来た時には、それがいなかった。ブラッドリーたちは親切だったし、Hotel Aequitasにも救われた。それでも「電車」や「コンビニ」という言葉を説明せずに理解してくれる相手がいたなら、どれほど安心しただろう。

「まずは場所を移しましょう。ここでは落ち着いて話せません」

 私が正面玄関へ目を向けると、外ではまだ聖騎士団とホテルの警備スタッフが睨み合っていた。先ほどまで彼らは私一人の身柄を要求していた。それが突然、目の前にもう一人の人間が現れたのだから、向こうにとっても想定外に違いない。

「外の人たちは……?」

「その説明も後でします。今はホテルの中にいてください」

「ホテル……ここ、本当にホテルなんですか?」

「はい。少々特殊ですが」

「少々ってレベルじゃないと思いますけど……」

 その感想には私も同意する。

 そこへサンディーがやって来た。

「アラタ。ラウンジ横の応接室を使え。ナナリーが準備させてる」

「分かりました。聖騎士団は?」

「こっちで相手する。ブラッドリーもいるから心配するな」

「むしろ相手の方が心配になってきました」

「言えてるな」

 サンディーが笑う。そのいつも通りの態度に、私まで少しだけ肩の力が抜けた。

 私は男を連れてロビーを横切った。ところが、途中で彼の足が何度も止まる。翼を持つ女性客、角の生えた獣人、宙に浮きながら荷物を運ぶ小さな精霊。私にとってはすっかり日常の光景になりつつあるが、彼にとっては一つ見るたびに常識が壊されていくのだろう。

「……あれ、全部本物ですか?」

「本物です」

「特殊メイクとか?」

「違います」

「映画の撮影?」

「それなら私も嬉しかったんですけどね」

 男が黙り込む。

 私は苦笑してから、今度こそはっきり告げた。

「ここは異世界です」

     ◇

 応接室には温かい茶と焼き菓子が用意されていた。極端に異世界らしいものを避けているあたり、おそらくアシュリーの配慮だろう。

 男は茶を一口飲んでから、ようやく少し落ち着いた様子を見せた。

「改めて、お名前を伺ってもいいですか?」

「真壁です。真壁怜司」

「真壁さんですね。私は七崎アラタ。こちらではアラタ・ナナサキと名乗っています」

「七崎……日本の名字だ」

 怜司はそれだけで安心したように笑った。私も「真壁」という名前を聞いただけで、不思議な懐かしさを覚えている。異世界で日本人の名字を聞くことが、これほど特別に感じられるとは思わなかった。

 話を聞くと、怜司も二〇二六年の日本から来ていた。東京で会社員をしており、仕事帰りに電車を降りようとした瞬間、目の前が白くなったという。事故に遭った記憶はなく、身体にも怪我はない。私が交通事故の直前にこの世界へ来たことを話すと、怜司は驚いた顔をした。

「じゃあ、ナナサキさんはもう何日もここに?」

「はい。ところが……怜司さんのスマートフォンを見せてもらってもいいですか?」

 怜司の端末には、日本の日付と時刻がそのまま表示されていた。それを確認した私は眉をひそめる。私がこの世界で過ごした日数と、日本側で経過している時間が明らかに一致しない。

「どうやら、こちらと日本では時間の流れ方が違うみたいですね」

「それなら、日本へ帰ったらほとんど時間が経っていない可能性も?」

「あるかもしれません。ただ……帰る方法については、まだ分かっていません」

 期待させるようなことは言えなかった。分からないものを「大丈夫です」と言い切るのは、接客でも一番やってはいけないことだ。だから私は、現在分かっていることだけを順番に説明した。

 ここがフレーレオという異世界の都市であること。様々な種族が暮らしていること。そしてHotel Aequitasが、種族を問わず宿泊客を受け入れているホテルであること。

 最後に、最も重要な事実を伝えた。

「この世界には、現在、人間が存在していないとされています」

「……え?」

「過去にはいたようです。でも今は、私以外の人間は確認されていませんでした」

「じゃあ、ナナサキさんだけ?」

「はい。少なくとも、今日までは」

 怜司が自分の両手を見る。

「でも、私はここにいる」

「そうなんですよね」

 私は答えながら、胸の奥に妙な引っかかりを覚えた。

 目の前にいる。

 話せる。

 飲み物にも触れている。

 どう見ても人間だ。

 なのに、何かがおかしい。

 その時、内ポケットに入れていた零号室の端末が震えた。

 画面には、天秤の紋章とともに新しい通知が表示されている。

 ARRIVAL VERIFICATION IN PROGRESS

 ――到着者照合中。

「これは……怜司さんの情報?」

「私の?」

「たぶんです。零号室が、あなたが何者なのか確認しています」

「零号室?」

「その説明はもう少し待ってください。ただでさえ情報量が多いので」

「助かります……」

 表示が切り替わった。

 種族――人間。

 出身世界――私と一致。

 やはり、怜司は私と同じ世界から来ている。

 しかし、その次に表示された項目で私は指を止めた。

 BIOLOGICAL ARRIVAL:NOT CONFIRMED

 ――生体到着、未確認。

「何だ、これ……」

 さらに警告が続いた。

 GUEST BODY HAS NOT ARRIVED.

 宿泊予定者の肉体は到着していない。

「……肉体が来てない?」

「何を言ってるんですか。私はここに――」

 怜司も言葉を止めた。

 私たちは同時に、目の前にいる彼の身体を見る。

「怜司さん。一つだけ確認させてください」

「何です?」

「私の手に触れてもらえますか」

 私は右手を差し出した。

 怜司は怪訝そうにしながら手を伸ばす。その指先が私の手に触れる――はずだった。

 だが、何の感触もなかった。

 怜司の手は私の手をすり抜け、そのまま向こう側へ抜けていた。

「……え?」

 今度は怜司から私の腕へ触れようとする。しかし結果は同じだった。ところが彼が机へ手を置けば、そこには確かな感触がある。カップも持てるし、椅子も動かせる。それなのに、私という人間だけには触れることができない。

「何なんだよ、これ……」

 怜司の顔から血の気が引いていく。

「ナナサキさん。私……本当にここにいるんですよね?」

 その問いに、根拠のない言葉で安心させることはできなかった。

「分かりません。でも、調べます。零号室を管理しているキーパーなら、何か分かるはずです」

     ◇

 ほどなくして応接室へ現れたキーパーは、怜司を一目見るなり状況を理解したらしい。その隣にはゼノも立っていた。

「説明してください」

 私はキーパーへ端末を見せた。

「肉体が到着していないって、どういうことです?」

 キーパーは数秒間、怜司を観察した後、静かに答えた。

「真壁怜司様は、まだこの世界へ到着しておりません」

「いや、だから私はここにいるでしょう」

 怜司が自分の胸を指す。

「では、ここにいる私は何なんです?」

「到着予定者の人格情報です。世界間移動が発生する際、稀に肉体より先に記憶、人格、身体構造などの情報のみが境界を越えることがあります。今回は境界が不安定だったため、それらの情報が一時的に実体化したものと考えられます」

 難しい説明だったが、意味だけは理解できた。

「つまり……怜司さん本人の身体は、まだ日本にある?」

「はい。生存しています」

 怜司が目を見開いた。

「じゃあ、帰れるんですか?」

「到着処理が完了する前であれば可能です。こちらに存在している人格情報を出身世界へ返却し、肉体側へ再統合します。この世界で得た記憶も、原則として保持されます」

 怜司はしばらく黙っていた。

 私は急かさなかった。

 どれほど短い時間でも、これは彼自身の人生に関わる選択だ。Hotel Aequitasが決めることではないし、まして私が「同じ日本人だから」という理由で残ってほしいと願うのは違う。

 やがて怜司が顔を上げた。

「帰りたいです。家族がいるので」

「分かりました」

 私はすぐに頷いた。

「キーパー。到着手続きを中止してください」

「承知しました。帰還処理には零号室を使用します」

 隣で聞いていたゼノが、私へ静かに問いかける。

「いいのか、アラタ。同じ世界の人間だぞ」

「だからこそですよ」

 私は怜司を見る。

「私が寂しいから残ってほしいなんて、そんな理由でこの人の人生を変えるわけにはいきません」

 ゼノはしばらく私を見ていたが、やがて小さく頷いた。

「そうだな」

     ◇

 私たちは怜司を連れて旧館へ向かった。

 その途中、彼はHotel Aequitasの中を興味深そうに眺めていた。帰れると分かったことで、ようやく周囲を見る余裕が生まれたのだろう。

「すごいホテルですね」

「いろんな意味で、ですか?」

「いろんな意味で、です」

「否定できません」

「ナナサキさん、日本でもホテルマンだったんですよね?」

「はい。でも辞めるつもりでした。接客に疲れて、別業種の面接へ向かう途中だったんです」

「それなのに異世界でホテルマン?」

「人生って分かりませんね」

 怜司が笑った。

「でも、今は嫌そうに見えませんよ」

 何気ない言葉だった。

 それでも私は、すぐには答えられなかった。

 日本にいた頃、ホテルで働くことに疲れ切っていた。客の要望、クレーム、人間関係、毎日繰り返される業務。全部を捨てて別の仕事へ逃げようとしていたはずなのに、今の私はHotel Aequitasで働き、見知らぬ客を迎え、帰りたいという人を見送ろうとしている。

「……そうですね」

 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

「ここで働くのは、嫌いじゃないです」

「じゃあ、いい職場なんですね」

 ブラッドリーたちの顔が浮かぶ。

「はい。いいホテルです」

 今度は迷わなかった。

     ◇

 零号室へ入ると、床に刻まれた天秤の紋章が淡く輝き始めた。キーパーによれば、到着処理を中止すれば、怜司の人格情報は日本に残っている肉体へ戻るという。

「真壁怜司様。帰還処理を開始すると途中で停止することはできません。それでもよろしいですか?」

「はい。お願いします」

 怜司の返事に迷いはなかった。

 天秤の光が少しずつ強くなり、その光が怜司の足元から身体全体を包んでいく。先ほどHotel Aequitasの前へ現れた時とは逆に、彼の輪郭が少しずつ薄くなり始めた。

「ナナサキさん」

「はい」

「あなたは、帰らないんですか?」

「今は帰る方法がありません」

「もし、見つかったら?」

 私は答えに詰まった。

 以前なら迷わず「帰りたい」と言っていたかもしれない。けれど今は違う。Hotel Aequitasで出会った人たち、この世界で知ったこと、そして零号室やノアに残された謎。それらを全部捨てて元の世界へ帰れると言われた時、自分が何を選ぶのか分からなかった。

「……まだ、分かりません」

 正直にそう答えると、怜司は少し意外そうにした後、穏やかに笑った。

「だったら、分かるまでこっちにいてもいいんじゃないですか」

「簡単に言いますね」

「私は帰れる側なので」

「ずるいなあ」

 二人で少し笑った。

 短い時間だったが、その会話だけは妙に日本にいた頃のようだった。

「じゃあ、私は先に帰ります」

「はい」

「もしまた会えたら、その時は普通のホテルで会いたいですね」

「その際は、ぜひHotel Aequitasへ」

「普通のホテルって言ったでしょう」

「ホテルマンとして営業は大事なので」

 怜司が声を上げて笑う。

 やがて光が彼の胸元まで包み込んだ。

 私は姿勢を正した。

 彼は正式にチェックインしたわけではない。それでもHotel Aequitasの扉をくぐり、ここで時間を過ごした。ならば最後くらい、ホテルマンとして送り出したかった。

「真壁怜司様」

「はい」

「お気をつけてお帰りくださいませ」

 私が頭を下げると、怜司は一瞬だけ驚いた顔をした。それから日本人らしく軽く頭を下げ返し、「ありがとうございました」と笑った。

 次の瞬間、光が彼の身体を完全に包み込んだ。

 輪郭が消え、声も姿もなくなる。ほんの少し前までそこに立っていた日本人は、静かに元の世界へ帰っていった。

 私はしばらく何も言わず、怜司が消えた場所を見つめていた。同じ日本、同じ時代、同じ言葉。わずかな時間しか一緒にいなかったのに、胸には小さな寂しさが残っている。

「帰還処理、完了しました」

 キーパーの声と同時に、私の端末へ通知が届いた。

 RETURN TO ORIGIN:COMPLETE

「……よかった」

 思わず息を吐く。

 ゼノが隣から私を見た。

「寂しいか?」

「少し。でも、帰りたい人を帰せたんです。それでいいですよ」

 ホテルは客を迎える場所だと思っていた。

 けれど、本当はそれだけではない。チェックインがあればチェックアウトがあり、到着があれば出発がある。どれほど快適な滞在を提供しても、最後には客を送り出さなければならない。

 ホテル業界では、客がホテルを離れることをDeparture――出発と呼ぶ。チェックアウト時刻や送迎、荷物の手配などを含め、到着時のArrivalと同じくらい重要な情報だ。

 Hotel Aequitasも同じなのだろう。

 扉は、客を迎え入れるためだけにあるのではない。

 帰るべき場所へ送り出すためにもある。

「アラタ」

 ゼノが声をかけた。

「そろそろ本館へ戻るぞ。聖騎士団の件も終わっていない」

「そうでした……」

 すっかり忘れかけていた。

 現在、Hotel Aequitasの正面では、私の身柄を要求する聖騎士団が総支配人と交渉中である。

「現実に戻された気分です」

「ここは異世界だがな」

「ややこしいですね」

 私は苦笑しながら端末をしまおうとした。

 ところが、その直前。

 再び画面が震えた。

 新しい通知だった。

 NEXT ARRIVAL DETECTED

「……また?」

 今度の表示には名前がない。種族も不明。しかし一つだけ、これまで見たことのない項目が記録されていた。

 ORIGIN:BOUNDARY LAYER

 出身――境界層。

「ゼノさん」

「どうした?」

「次の到着者です。出身が……境界層になってる」

 その言葉を聞いた瞬間、ゼノの表情から笑みが消えた。

「キーパー。境界層から直接来る存在などいるのか?」

「本来は存在しません」

 キーパーの答えは短かったが、その声にはこれまでにない緊張が混じっていた。

「では、これは?」

「不明です。ただし、生体反応は確認されています。先ほどの真壁怜司様とは異なり、次の到着者は肉体を伴っています」

「到着予定は?」

「約三時間後です」

 私は端末に表示された天秤の紋章を見つめた。

 人間ではない。

 ノックスとも違う。

 そして、本来なら誰も存在しないはずの「世界と世界の間」から来る何者か。

 Hotel Aequitasの外では聖法院が私を待ち、旧館では零号室が次の客を待っている。ホテルマンとして接客に疲れて転職しようとしていた頃の私が今の状況を見たら、間違いなくこう言うだろう。

 ――普通のホテルに転職しろ、と。

 けれど、不思議なことに今の私は逃げ出したいとは思わなかった。

「三時間あるなら、準備できますね」

 私がそう言うと、ゼノがこちらを見る。

「怖くないのか?」

「怖いですよ。でも、何も分からないからこそ、迎える準備くらいはしておきたいんです」

 先ほど怜司を送り出したばかりの零号室を、私はもう一度振り返った。

 迎えることも。

 見送ることも。

 どちらもホテルの仕事だ。

 ならば次にこの扉を訪れる者にも、まずは同じように向き合えばいい。

「本館へ戻りましょう。総支配人たちにも報告しないと」

「ああ」

 ゼノとともに零号室を出ながら、私は端末をポケットへしまった。

 三時間後、世界と世界の狭間から新たな客がやって来る。

 そしてその到着が、Hotel Aequitasそのものに隠された秘密へ繋がっていることを、この時の私はまだ知らなかった。


――第21話 完

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